第六羽 悪夢

「明日の朝に、また此処に来てください。来なければ、校内放送で呼び出しますからね」


「……いや、あの」


「では、気を付けて帰ってくださいね」


「あ」


 大野先生の背中に手を差し伸べる間さえ与えられず、悠然とその場から消えていった。


「……どうなんだよ、これ」


「さぁ」


 あるいは、波乱の幕開けかもしれない。


 あれから永遠のような時を終えての帰宅。


 重苦しい背を、全体重を預けるように、角ばった椅子に凭れ掛かり、ため息を零した。


「ハァァァ……」


 魂が抜け出てしまいそうな長ったらしい、嘆息を漏らして、目に悪そうな蛍光灯をぼーっと眺めていると……。


 ん?


 視界の端に何かがチラチラと映り込んだ。


 真っ黒なくるんとした尻尾をゆらゆらと振って、勢いよく俺の膝の上へと飛び乗った。


「ニャァー」


 押し潰されてしまいしそうな重厚感とともに、仄かに伝わっていく温もりが、見るまでもなく愛猫の姿であることを知らしめた。


「なぁ、お前は俺に拾われて幸せか?」


 不思議そうに小首を傾げ、ゴロゴロと喉を鳴らしながら、静かに身を丸めていく。


 蝶よりも花よりも丁寧に愛撫した。

 艶やかな毛並みに自然と指先が流されていき、くるんと渦を描いた尻尾へと行き着く。


 緩慢に一瞥した先、くりっとした円な瞳を細めた鋭い眼差しと、視線がぶつかり合う。


「俺は幸せだよ。お前と逢えて…過ごせて」


 そんな甘ったるい囁く一言に、冷ややかな目を向けるとともに、緩やかに目を閉じた。


 静寂。


 柔らかな顔を撫で終えると、尻尾で腕を叩いて催促をし始めてくる。


「フッ……」


 そんな至福のひとときを壊すかのように、玄関口からガチャっと、無機質な音がした。


 捕食者に捉えられた被食者のように、慌ただしく立ち上がって、耳を立てる。


「もう、か。意外と早いな」


「ただいまー」


 一枚の真っ白な扉を隔てても、ひしひしと伝わってくる、憔悴しきって震えた声色。


「ただいまぁー」


 帰ってくるなり、テーブルのど真ん中に顔を埋めて、死んだかのように突っ伏した。


「疲れたァー」


「お帰り、姉ちゃん」


 スーツを雑に床に脱ぎ捨てて、ぶつぶつと何かを呻くように呟いていた。


「あの野郎ふざけやがって……」


「風呂でもご飯でも、どっちでもいいから、さっさと動いたら?」


「もう疲れたー、代わりに行ってきて~」


「はぁ」


 渋々、姉の代わりに立ち上がって、冷蔵庫の前へと、引き摺るように足を運んでいく。


「学校はどう?」


「……別にいつもと変わんないよ」


「嘘だね、随分と浮かない顔をしてたよ。お姉ちゃんの観察眼を見縊っちゃいけないよ」


 何処に目が付いているのやら……。


「まぁ、ちょっと色々あってね」


「変なことに関わっちゃ駄目だよ、絶対に」


 背中に杭を打ちつける程の強い念押しに、俺は無意識に頬を歪に引き攣らせた。


「わかってるよ。先に風呂入ってきたら?」


「5分。10分したら行くから」


「ぐだぐだしてると朝になるよ」


「んー。分かってるよー。ねぇーぇ?」


「なに?」


「お友達――できた?」


「友達? できたよ、たくさん」


「多ければ良いってもんじゃないよ。一人でもいいから、自分の本当の気持ちを話せる相手を作っておかないと、これから先、苦労するからね」


「そういう姉ちゃんにはいるのかよ」


 仕事帰りの苦労人に食べさせるにはあまりに冷酷な冷め切った晩御飯を温めている中で、俺たちの会話はふつふつと沸いていく。


「いるよ! たくさん」


「さっき云った事、もう忘れたのかよ」


「まぁ、独りぼっちでも生きていけるなら、話は別だけどさ。あんたはツンケンしてる割に、結構寂しがり屋だから……」


「あのなぁ、うるさいんだよ! さっきから。

姉ちゃんの望むような親友くらい、いるさ」


「嘘だぁーー」


「嘘じゃないよ」


「へぇー。そう、そっか、そっかぁ……」


「……うん」


「よかったね、ほんとうに」


 姉は肩の重荷が降りたかのように、胸をホッと撫で下ろし、静かに安堵していた。


「で、どんな子?」


「あい……。お、女の子なんだけど……」


「え? うーん、そうか、そう来るか」


 唐突に徐に天を仰いで、狐疑逡巡する。


「何?」


「女の子はちょっとなぁ。違うような……」


 その一言を最後に、居間に静寂が訪れる。


 湯気が立ち昇っていく白米をよそって、おかずとともに姉の元に運んで行けば、当然のように腕組みのまま、眠りこけていた。


「ったく、もう」


 姉の肩を乱暴に左右に揺すって、耳元で焦りを含んだ怒号を飛ばす。


「姉ちゃん。姉ちゃん‼︎」


「んーん?」


 微かに片目を眇め、俺に視線を向ける。


「もう8時、8時だよ‼︎」


「嘘っ!」


 テーブルに思いっきり膝をぶつけて、慌ただしく飛び跳ねるように立ち上がった。


「嘘。さっさとご飯食べて、風呂入って寝なよ。俺は先に寝るから、おやすみー」


「ハァーー良かったー。あーおやすみー」


 姉の行方に僅かな不安を胸に抱きながらも、俺は自室へと歩みを進めていった。


 そして、吸い込まれるようにベッドにダイブをし、日々の疲れが祟ったのか、眠りに落ちていくのに、そう時間は掛からなかった。


 音がする。


 聞き慣れた嫌な野郎の声だ。


 次第に小煩い蝉の鳴き声が響き渡り始め、雑多な音たちが、鼓膜を酷く煩わせた。


「天羽‼︎ 行くぞ!」


 真っ黒なボールが、天高き真夏の大空に、飛んでゆき、俺の遥か上を通り抜けていく。


「ハァ……ちゃんと投げろよ! 相川ぁ!」


 気持ちばかりが一流の相川の投球は相変わらずで、懺悔の念が一切ないような、憎たらしい満面の笑みを浮かべている。


「悪い悪い! 次は顔面目掛けて投げるから」


 土や泥なんかで薄汚れたグローブの中を、軽く小突いて、如何様に欺かれたのかと、不思議そうに隅々を見回している。


 ったく、何で俺が、こいつの付き合いなんかしなくちゃけないのかな。


 蜃気楼のような先のボールを追いかけて、燦々とした陽光で背を燃やして、進みゆく。


 ふらふらとした一歩を踏み込んでいく毎に、喉が貪欲に潤いを欲して、蒸れるような熱気が全身を覆い尽くしていった。


 けれど、近づいて行く筈の目的地が、段々と遠のいていく。


 あれ……? あ、ヤバいかも。


 そう思った時には、既に俺の体は思うように動かず、気付けば足を引っ掛けて躓いて、大袈裟に頭から大地に崩れ落ちていった。


「おい‼︎」


「やっ……ばぃ」


 次第に視界が闇に覆われてゆくのに、音だけが鮮明に冴え渡っていく。


 怒号を飛ばして近づいて来る相川よりも、僅かに早く、一心不乱なる足取りが傍らに、息を切らして、立ち止まった。


「とりあえず、木陰に運ぼう!」


 誰だ?


 途切れ途切れの意識の中、ぷらぷらと四肢が揺れていくとともに、戦慄く相川の焦燥感だけが、ひしひしと伝わっていた。


「アクエリ大量に買ってきたから、まずは体全体を冷やして救急車を……」


 日照り続きの校庭から、僅かにひんやりとした場所に移動させられた俺は、相不変に、大地の上でのうのうと横たわっていた。


「おおげさだよ」


 灼熱を帯びた頭で最大限の力を振り絞り、酩酊の如くだれた言葉を漏らす。


「おお! 意識あったか! でも、軽い熱中症だろ? お前、全く水分摂ってなかったからな」


 体に鞭打って上体を起き上がらせ、醜悪なる相川の顔面目掛けて、拳を振り翳さんとする。


「誰のせ……」


 だが。


「おっと!」


 まるで悪夢の真っ只中にいるかのように、己の意識とは乖離して、思うように体を動かせず、また優しい少年に身を預けてしまった。

 

 ……。


「っっ!」


 閉ざされた瞼を開いても、尚暗闇。


「ん?」


 顔を真っ黒な何かが覆っていた。


 家の愛猫君が俺の顔の上に重鎮たる様で、顔面に重苦しい圧を絶えず、与えていた。


「重い」


 眠ってしまっている伸縮自在な黒い丹田を抱えて、そっと傍らに移動させる。


 俺を起こす気で来たが、つい、心地の良さに負けてしまい、眠ってしまったのだろう。


「もう朝か」


 姉はちゃんと寝ただろうか。


「ヤな夢だったな」


 そういえば、あれが聡太との初めての出会いだった気がする。

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