05. お父さん、あのね

「さて、夕飯が冷めないうちに家に戻ろう」


 ひとしきり笑ったことで、家族への不信感を吹き飛ばした僕は、素直に父にうなずく。

 父はきびすを返しながら、「ロクは将来、お医者さんになるのかな。それとも眼鏡屋さんかな」と、今夜の夕飯以上に楽しみな様子で、思いを巡らせる。


「ううん。僕、“ウキヨヱシ”になりたいんだ」


 ほんの一瞬だけ、空気がピりついた気がした。父は相変わらず笑顔を絶やすことはなかったのだが、どうしてか不穏な空気を感じ取った。

 でも、心の内を吐き出しはじめていた僕も止まれなかった。


「いっぱいお絵描きすれば、いつか絵が動くかもって……。そう思ってたけど。でもそんなことあるわけないよね……。ウキヨヱシなんて、やっぱりいないんだ」


 頭を雑に撫でられたせいだろうか。頭のてっぺんに群生する浮き毛が妙にむずがゆくなってくる。でも、いまはそれを気にする時じゃない。

謎の不安を覚えながら、父の言葉を待った。


「どうだろう」


 息子ガチ勢にしては、想像以上に中身のない反応が返ってきた。気のせいだろうか。父の意識が、どこか余所よそへ向いているような気がした。


 本当なら、父の死角に目がある僕がもっと注意深く、辺りを見渡すべきだっただろう。


 ただ、今度はいつ父と話せるかわからない。

いまのうちにたくさん聞いておきたかった。甘えたかった。ましてや、いつか誰かの役に立つと信じて夢中になった絵描きは、人を助けるどころか、父の目さえ治せないとわかってしまったばかり。

 僕はこれからどうしたらいいのか、わからなくなっていたから……父の言葉にすがりたかった。


「誰の役にも立たないなら、絵なんて練習しても……」


“アニメのヒーローになりたい”レベルの幼稚な夢を打ち明けたんだ。

ウキヨヱシを口にした時の父の様子からも、「うんそうだな。お医者さんを目指したほうが、ロクの願いは実現できそうだ」と、返してくれるとばかり想像していた。

だけど……。


「嫌いになったのかい?」

「……え?」

「絵を描くことだよ」


 父の意外な反応に、僕は言葉を失ってしまう。


「役に立たないことだとしても、好きならそれでいいじゃないか。続けたって」


 父はそう言うと、僕に向かってニッコリと、まるで少年のように笑ってみせる。

 普段と変わらない父の姿がそこにあった。


 さっきまで感じていた不穏な空気はきっと、絵が本物になることなんてない、ウキヨヱシなんて存在しないと言葉にしたせいで、よりショックを実感してしまっていたからなのだろう。


 浮き毛がむず痒くなるたび、人喰いねずみだとか鬼だとか恐ろしい怪物が暗がりから飛び出してくるんじゃないかと、頭の隅でほんのり浮かべては背筋がぞっとしたりもしたけど、そんな非現実なものがこの世に存在するはずがない。

絵が飛び出すなんて、おとぎ話の作り話だ。なのに……。

 父の笑顔を見ても、消えないこの不安はなんだろう?

 この頭のムズムズは、なんなんだろう……。


――すべての悪は、人の想像にして創造から生まれるのだ。


「これは暢気のんきに仕事なんてしていられないな。これ以上、お前の成長をリアタイできないのは、お父さん耐えられない!」

「……リアタイ」


 どことなく警戒していたように見えた父も、僕のことを案ずるターンになると急に、早口でまくし立てる息子ガチ勢の調子に戻っている。


(やっぱり気のせいだったのかな)


 僕はいまだ治まらない頭のムズムズを気にしつつも、その早口に乗せて放たれる息子オタクっぷりに、呆気あっけにとられている。

 そんな僕に、唐突に目を見開くほどの言葉が耳をくすぐった。


「これからはもっとそばにいなくちゃな!」

「それって」


 期待に目を輝かせた僕を抱えたまま、父は納屋を出ようと扉に向かう。


「そうさ、お父さん仕事を辞めることにしたんだ、たったいま!」

「たったいま!?」

「そうだよ。ロクのそばにいたいからな」


 浮き毛のむず痒さはどんどん酷くなってきた。

でもやっぱり「まずは街まで行って、いっしょにクリームソーダを浴びるほど飲もう」など読経どっきょうするかの如く、“仕事辞めたらプラン”を延々と口にし続ける息子オタクに「お父さん、なんだか僕のアホ毛がムズムズするんだ」と、水を差す隙はない。


 これからはずっと、父が僕のそばにいてくれる。

 長年、焦がれるほどに待ち望んでいた嬉しい知らせに全力で喜びを伝えようと、些細ささいな違和感を無視して、父の頬へ顔を寄せた。

 あと、やっぱり壁に落書きしてしまったことも、正直に伝えよう……。

ちゃんと、ごめんなさいしよう。


「お父さん、あのね」


――僕の意識がはっきりしていたのは、ここまでだ。

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