第一章 緑色のアウトサイダー・アート

01. 猫が死んだ

――ラスコー洞窟の壁画は良くて、僕が家の壁に描くことがダメな理由ってなんだろう?


 僕は幼い頃から、絵を描くことが大好きだった。

 はじめて買ってもらったクレヨンを手にしたら最後、寝室の壁だろうがリビングの床だろうがベランダで寝そべる年老いた飼い猫だろうが、僕にとっては大きなカンバス。

のびのびと好きなように好きなモノを描く。

それはいつだって超大作の予感だがその都度、家のどこかで掃除洗濯をしているはずの母が、裏面が真っ白な折り込みチラシを片手にすっ飛んできた。

 母の目からしたら、四歳にも満たない僕のそれは絵とも呼べない俗にいう“落書き”だからだ。


「こっちに描こうね、緑光ろくみつ


 少し困ったような笑みを浮かべる優しい声と共に、超巨大カンバスから一変、こぢんまりとした真っ新なチラシの裏に目を落とす。それを何度かくり返しているうちに、僕はいつしか家の壁や床には絵を描いてはいけないことを学んだ。

でも、当時はなぜ壁に絵を描いちゃいけないのか、きちんと理解していなかったように思う。

この世界は、あらゆるものに絵が描ける状態にあるのに、描いて良いところと悪いところ、描いて良い人と悪い人がいるなんて。


 ラスコーの壁画より、僕の絵が下手だから? いやいくら自己肯定感の低い僕とはいえ、独学ながらそれなりに練習してきたのだから、古代人の画力には劣らない(たぶん)。歴史的な価値が違う? そんな正論を言われたら言葉に詰まる……。

そうじゃない、そうじゃないんだ。

 もちろん、いまならその理由はわかる。


――落書きは、“鬼”になるからだ。



『絵はおもいの結晶。故にさだめて魂宿る。清く正しき絵は福となり、穢く悪しき絵は鬼となる』

(絵は心が形になるものだから、必ず魂が宿る。善良な心で描いた絵は幸せを呼び、邪悪な心で描いた絵は災いになる、って意味だよ)


 祖母はこの独特な言葉をいつもうたうように口ずさむと決まって「鬼さんが出るから、くれぐれも壁だの床だのに落書きはおよしよ」と締めくくる。


 誰もが一度くらいは聞いたことがあるんじゃないだろうか。絵には魂が宿るという話を。絵から飛び出した猫が、人喰い巨大鼠を退治する日本昔ばなしや、仙人から与えられた魔法の絵筆で私利私欲に走る悪の権力者をやっつける中国のおとぎ話を。これらは単なる昔ばなしでもおとぎ話でもない、実話なのだと祖母は教えてくれた。


 そして、“落書き”とは『から生まれ落ちる鬼』の意味を持つ恐ろしい鬼、“落画鬼らくがき”をもじって生まれた言葉であること。だからよこしまな気持ちで絵を描いてはいけないということ。

 祖母の言葉を、僕はちゃんと理解していた。


――すべての悪は、人の想像にして創造から生まれるのだ。


 そう、ちゃんと理解していたはずだったのに……。



◆◆◆



 東京から片田舎の山奥にある一軒家に引っ越して、五度目の夏のことだ。僕は当時、小四で夏休みの真っ最中だった。あの日は、法師蝉ほうしぜみの鳴き声が鳴蜩あぶらぜみの軍勢を脇役に追いやる頃おいにも拘わらず、早朝から異様なまでに暑かった。だから、その時流れた汗の感触も、涙の色もよく覚えてる。


 僕にとって初めて目の当たりにした家族ねこの死だった。

 長いかぎ尻尾に、目の覚めるような黄色い瞳が美しい彼は、僕のことを生まれる前から知っていて、仕事で滅多に会えない父親代わりだった。

 だから僕は、彼のいない日常を知らない。生活の一部だった。それがいなくなって、しかも一生会えないなんて信じられない。彼が欠けた日常を受け入れる僕の姿を想像できない。

 そんな僕の気持ちを余所に、腐敗が進むからとろくな別れもできないまま、昼前には庭の片隅に埋葬された。


 “虹の橋”まで迷わず辿り着けるようにと、祖母が猫のために杉の枝を燃やしていたのが、印象的だった。その清らかな煙に乗って、命は在るべきところへかえっていくのだそうだ。


 埋葬が終わると、家族は普段通りの生活をはじめた。少なくとも、当時の僕にはそんな風に見えていた。


 猫が一日の大半を寝そべって過ごしていた縁側では、父がお茶を飲みながらゆっくりと朝刊をめくっている。縁側の外にまで響く包丁の音から、母は台所に籠りきりなことを知る。祖母はよせばいいのに、わざわざ炎天下のなか、裏の畑で夏野菜の収穫をはじめていた。

 煙も消え失せ、杉の枝がただの炭になってもなお、僕だけがそこに取り残されている。


(どうして皆、平気な顔でいられるの……?)


 疑問と不信感にも似たやり場のない気持ちに耐えきれなくなった僕は、微かな温もりすら失った真っ黒な杉の枝を拾うと、人気ひとけのないほうへと走り出していた。


 ちょうど壮大な蝉しぐれが、寂しげな晩蝉ひぐらしの独唱に切り替わる夕暮れ時のことだった。

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