第79話 覚えていないか ―星宮―

     ◇   ◇   ◇




 遠くから水の流れ落ちる音が聞こえる。近くに小さな滝があり、そこの音がここまで響いてきているのだ。


 祖父がこの音が好きで、ここに別荘を建てたと聞いた。


 軽井沢は長野県にある避暑地として有名な場所で、東京に比べると夏でも涼しい。標高が高いだけではなく、四方が山で囲まれ、水資源が豊富なことも理由の一つだろう。


 星宮有朱は白いワンピースの裾をゆらめかせ、バルコニーから庭園を眺めていた。


 この庭園も変わらない。祖母がこだわりを持って一人で作り上げたらしく、その美しさはプロが作ったものに引けを取らない。


 ここからでも、花の香りが香ってくる。


 あの適正試験からしばらくの時が経った。


 本当なら学校に通っているはずなのに、有朱は今この別荘で無為に時間を過ごしている。


 仕方のないことだと納得はしている。


 おそらく適正試験のことで、星宮家は学校に様々な干渉を行っているはずだ。魔法省の秩序をつかさどる星宮家として、それは当然のことだ。


 そしてその間、星宮の長女である有朱が学友からどのような目を向けられるのか、配慮した結果が、この優しい軟禁生活である。


 それが分かっているからこそ、文句も言えない。


「お嬢様、旦那様がお呼びです」


 後ろから声がかかった。


 物心ついた頃から有朱の世話をしてくれているメイドだ。


「分かったわ」


 有朱は庭園から目を離すと、父の書斎へと向かった。多忙な父がこの別荘に到着したのは、今朝のことだ。


 それから今まで仕事を続けていたのだろう。出迎えの挨拶でしか顔を合わせていない。


 有朱にとってそれは珍しいことではない。


 父、星宮彼方ほしみやかなたは、それだけ魔法省で重要なポジションにいるということだ。


「失礼します」


 書斎に入ると、彼方かなたはパソコンから視線を外して有朱を見た。


 丁寧に後ろへ撫で付けられたアッシュブロンドの髪に切長の瞳。威圧感のある見た目も、有朱からすれば「シワが増えているわね、お疲れなのかしら」程度のものだ。


「ああ、有朱。すまない」


 その謝罪にはいろいろな思いが込められていたのだろう。ここに避難させたこと、これまで会いに来れなかったこと、適正試験のこと。


「いえ、お父様こそお疲れでしょうに、お時間を作っていただきありがとうございます」


「そうかしこまるな。ここではただの親子だ」


「そう、ちゃんと寝れているの?」


 有朱はさっさと砕けた口調に戻った。仕事モードからお家モードに切り替わっていると判断したのだ。


「ああ、寝ているさ。今日も車の中で寝れた」


「またお母様に怒られるわよ」


 それは勘弁してほしいな、と彼方は肩をすくめた。


 有朱は彼方の前まで歩いて行った。


「学園のことはなんとかなったのかしら?」


「難しいな。詳しくは話せないが、まだしばらくゴタゴタが続くだろう」


「そう‥‥」


 やはりそうかと有朱は目を伏せた。


 進展があれば、彼方も、もう少し明るい顔をしていただろう。


 話を変えるように、彼方が「そういえば」と口を開いた。


化蜘蛛アラクネを倒した生徒がいるんだろう。学校内部の調査が主で詳しく聞けなかったが、何か知っているか?」


「えっ⁉︎」


「どうかしたのか?」


「え、ええ。いえ、なんでもありません」


「どうして敬語なんだ」


「あまり細かいことを気にしていると、ハゲてしまうわよ、お父様」


「はっ──⁉︎」


 娘からの衝撃の一言にフリーズする父を横目に、有朱は呼吸を落ち着けていた。


 まさか父からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。


 化蜘蛛アラクネを倒した生徒といえば、間違いなく真堂護のことだ。


 あの最後の戦い、格好良かった──じゃなくて、普通に答えればいいのだ、普通に。


「し、しし真堂君のことかしら?」


「真堂?」


 スッと彼方の目が細くなる。すわ声が上擦ってしまったことがバレたかと有朱は身構えたが、聞かれたことはまったく別のことだった。


「名前はなんと言うんだ?」


「真堂君? ま、ままま、護だけど」


「護、真堂護か」


 混乱する有朱を置いて、彼方は「そうかそうか」と頷く。それは父にして珍しく、とても嬉しそうな顔だった。


 どうして、と思うと同時に、ある考えが頭を浮かんだ。


「真堂君を知っているの?」


「ああ、知っているとも」


 ――嘘。


 有朱はポカンと、彼女にしては珍しく呆けた顔をした。もしも真堂護が剣崎王人や日向、雲仙といった名家の出、あるいは内部生であれば、彼方が知っていてもおかしくはない。


 しかし彼は外部生だ。


「‥‥そうか、やはり来たのか」


 そう呟く彼方の表情は先ほどから一転、嬉しいような悲しいような、形容し難いものだった。


 そして呆けている有朱に気付いたらしい。答えを口にした。


「護君は、旧友の息子だよ」


「‥‥真堂君のお父様と交流があったの?」


 何とかフリーズから立ち直った有朱は震える声で、確認するように聞いた。


「ああ。学生時代からの付き合いだ。いい男だった」


 そんな人がいるなんて、初耳だった。彼方はあまり昔の話をしないし、仕事ばかりで友人と会っているのも見たことがない。楽し気に語る父は、有朱の知らない顔をしていた。


 しかし有朱が気になったのはそこではなかった。


 ――だった。


 そう過去形で語られた言葉の意味に気付いた有朱は、息を呑んだ。


「まさか、真堂君のお父様は‥‥」


守衛魔法師ガードだった父の旧友という点からも、その予想は正しく思えた。


 しかしそんな有朱の考えは、次の彼方の一言でどこか遠くに吹き飛ぶことになる。




「あいつはこの別荘に来たこともあるんだぞ。護君とも会ったことがあるだろう、覚えていないか?」






「────え?」

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