◆ 十月

◆ 十月


 おはよう。人によってはこんにちは。こんばんは。もしくは、初めまして。

 挨拶は人の心に安らぎを与える。「おはよう」と言われれば自分は目が覚めたのだとわかるし、「こんにちは」と言われれば人と会ったのだとわかるし、「ありがとう」と言われれば自分はその相手に対して何か善いことをしたのだとわかるし、「ごめんなさい」と言われれば、相手は私に対して何か悪いことをしたのだとわかる。

 だが、全てが当てまるわけではない。「おはよう」と言われたって夢の中で言われたのかもしれないし、「こんにちは」と言われたって自分ではない他の誰かに言ったのかもしれないし、「ありがとう」と言われたって相手はその気などないのかもしれないし、「ごめんなさい」と言われたって、自分に身に覚えがなければ何が何だかさっぱりわからなくなってしまう。


 つまり何が言いたいのかというと、私は先日、身に覚えのない謝罪を受けたのだ。それも謝罪をしに来た相手は、隣に住むあの男だった。

 しかし、私にはそれがよく理解できなかった。と言うのもその内容は本当に身に覚えのなかったことであるし、何より相手のしたことが、悪い行ないだったとは到底思えなかったからだ。法律に触れたわけでも倫理にもとるわけでもない、ただその相手と私の間に起きた事案によって私が不利益を被ったと言うので謝罪をされたわけだが、私は何の不利益も受けていないし、気分を害されたということもない。むしろ謝罪に訪れるという行為自体に不自然さを覚える始末であって、つまり私は彼の謝罪など、一片たりとも求めていなかった。


 なぜなら彼の謝罪は、私が虎藤虎太郎であると錯覚したことについてだったのだから。

 すなわち彼は、私は虎藤虎太郎ではないと言っているのだから。


 最初は何を言っているかさっぱりわからなかった。私は虎藤虎太郎ではない、だから彼は謝罪をしている、この一連の流れを理解するのに相応の時間がかかった。私が虎藤虎太郎ではないことを理解するのに、幾分の時間を費やした。「なぜ私は虎藤虎太郎ではないのか?」、この謎の答えを出すのに、私は人生の一部を捧げた。

 だが、確かにそうなのだ。私は虎藤虎太郎ではない、これは紛れもない事実である。そもそも私は虎藤虎太郎を探している人間であって、その私が虎藤虎太郎本人などとぬかすものなら、まさに「ミイラ取りがミイラになる」のようなものだ。これでは本末転倒なのは、虎藤虎太郎を知らない人間ですらおわかりいただけるだろう。

 それに私は、虎藤虎太郎を探すのが好きだ。以前にも同様の内容を書いたが、私は虎藤虎太郎を探しているとき、もう少し具体的に言うと虎藤虎太郎のことを考えているとき、どこか清々しい心地を覚える。本当の自分なるものに、出会えた気がするのだ。

 だからこそ私が虎藤虎太郎になってしまっては、虎藤虎太郎はもはや探せなくなる。本当にやりたいことを、自らの手で潰してしまうことになる。

 そういう意味も含めて、私は虎藤虎太郎であってはならない。虎藤虎太郎を永遠に探す身でなくてはならない。それが私の宿命であり、同じくそれを背負ったあの男が与えてくれた、私への答えだ。自分は虎藤虎太郎なのかもしれないという誤った考えに陥りそうになった私に、差し伸べられた手であった。

 つまりあの男が言うように、私は虎藤虎太郎ではない。謝罪という体は少し重すぎるとは思うが、あの男が言っていることは事実だ。あの男が事実を言ってくれて、私は大いに救われた。私はまだ、本当の自分に出会える瞬間とこれからも向き合い続けられるのだ。

 だが、私が虎藤虎太郎ではないことによって生じる問題が、一つだけある。


 だとしたら、私は一体誰なのだ? 本当の自分とは、一体何のことを指すのだ?

 虎藤虎太郎ではないとしたら、一体私は、何者になってしまったのか?


 そうだ。虎藤虎太郎ではないとしたら、一体私は誰なのだ。

 事実かどうかなど関係ない。虎藤虎太郎でなかったら、私は何者でもない。虎藤虎太郎の他に、私の人格を司るものなど存在しない。あの男が私を虎藤虎太郎だと錯覚することによって、初めて私は人格たるものを得た。虎藤虎太郎という存在に、自分を当てめることができた。それを取り上げられてしまったら、もはや私は人間でも何でもない。

 でもそれなら、またあの頃のように虎藤虎太郎を探す人間になればいい。以前の私はそうやって自分を保っていたのだから、ただただ事実に則って日々を生きればいい。そうやっていつの日か、本当の自分を探し出せばいい。虎藤虎太郎が見つかるいつの日か、私もきっと、本当の自分と出会える日が来るはずだ。


 しかしそれは、虎藤虎太郎が見つかるということ。

 すなわちそれは、虎藤虎太郎をそれ以上探せなくなるということ。

 そして私は、再び、自分が誰だかわからなくなるということ。


 これが、虎藤虎太郎を探す宿命を背負った人間の、避けようのない末路に他ならない。虎藤虎太郎が見つかってしまえば、どうやったって私たちは路頭に迷う。自分が誰だかわからない人間が、否応なく放り出されるのがこの世界の摂理なのだ。

 だがもし、私が虎藤虎太郎だったなら?

 いや、それは間違っている。確かに私が虎藤虎太郎であるならば、問題の大部分は解決する。私は自分が何者であるかを自覚し、本当の自分を見つけ出し、ひいては虎藤虎太郎を探す宿命をも全うできる。つまり私が虎藤虎太郎であれば、私はいつまで経っても虎藤虎太郎を見つけることなどできない。小平を探したって、神宮外苑を探したって、東京はおろか関東全域を探したって、日本全国隈なく探し回ったって、虎藤虎太郎はどこにもいない。なぜなら虎藤虎太郎は自分なのだから、どこを探したって見つかるはずがないのだ。

 私が虎藤虎太郎であれば、問題は解決する。私が虎藤虎太郎であれば、悩みなど全て解消する。なにせ私が虎藤虎太郎であるならば、私はなりたかった自分になれるのだ。自分が誰なのか、自分が誰に好かれているか嫌われているか、もはや何も関係ない。だって私は、虎藤虎太郎なのだから。虎藤虎太郎である自分にとって、他人などもはや他人でしかない。だって虎藤虎太郎は、私の探しているものを全て与えてくれるのだから。

 しかし、それは現実ではない。なぜなら私は、虎藤虎太郎ではないのだから。

 だから私は、虎藤虎太郎を探した。せめて虎藤虎太郎を見つけ出すことによって、何もない自分の人生に意味を持とうとした。そうしていつからか、虎藤虎太郎を探すことが私の人生の一部になっていた。


 だが何の悪戯いたずらか、世界は私に虎藤虎太郎になることを求めた。虎藤虎太郎であることを求めた。

 最初は偶然と勘違いから始まった。越してきた部屋がたまたま虎藤虎太郎が以前住んでいた部屋で、隣人がたまたま虎藤虎太郎を探していて、その隣人が私を虎藤虎太郎だと思い込み、次第にそれがエスカレートして私も頭を悩ますようになり、実は自分は虎藤虎太郎なのかもしれない、そう思うようになった。最初はそんなことあり得ないと、偶然と勘違いが少し重なっただけだと、あまり考えないようにしていた。でも、その男は確信を持っている、直感などという何の根拠もない言い分で、私を虎藤虎太郎だと断定している。長い間なんの手掛かりもなかった虎藤虎太郎は、もう目の前だと希望に満ち溢れている。

 私が虎藤虎太郎になれば、世界の誰かが報われる。私の存在一つで、世界の誰かの希望を現実に変えられる。その誰かの希望を叶えるのは、私の意志次第なのだ。私が虎藤虎太郎になりさえすれば、誰かが苦しまなくて済む。私は自分の希望を叶えることによって、誰かの運命を変えられるのだ。


 虎藤虎太郎になりたい。虎藤虎太郎でありたい。それが、私の希望だった。

 虎藤虎太郎になってほしい。虎藤虎太郎であってほしい。それが、世界の希望だった。


 そうだ。私は自分のためではなく、世界のために虎藤虎太郎になる。私一人では成せなかったことでも、虎藤虎太郎であれば実現できる。だから私が虎藤虎太郎になって、この世界の希望を叶えるのだ。

 確かに事実とは異なるかもしれない。私が虎藤虎太郎になることを、納得しない人もいるかもしれない。でも、この世には必要な悪があるように、必要な正義がある。誰かがヒールにならなければならないように、誰かがヒーローになる必要がある。たとえ誰からも尊ばれるような輝かしい存在でなくとも、陰で誰かを支えるヒーローが必要である。虎藤虎太郎はそうやって世間から姿を隠し、十字架にかけられてから三日後に復活した救世主のように、いつかまた私たちの前に現れ、この混沌とした時代に救いを与えるのだ。虎藤虎太郎こそが、新しい時代の救世主なのだ。

 そのために、私がその希望を叶えよう。奇跡を求めるのなら、私が起こそう。啓示を求めるのなら、私が授けよう。悟りを求めるのなら、私が開いてみせよう。信仰や信条が薄れている現代だからこそ、病んだ人々の心を救ってみせよう。どんな人間にも穏やかな感情で最期を迎えられるように、在るべき「生き方」を私が教えよう。

 なぜなら虎藤虎太郎は、私たちを見守ってくれる。なぜなら虎藤虎太郎は、私たちを導いてくれる。どこにいるかはわからない。どんな見た目かもわからない。鼻の高さも、声の高さも、血液型も、洋食派か和食派かも、字幕派か吹き替え派かも、好きな映画も、何一つ誰も知らない。


 だが、虎藤虎太郎は存在する。虎藤虎太郎は、今日も日々を生きている。

 春の暖かさも、夏の暑さも、秋の涼しさも、冬の寒さも全て肌で感じながら、今日という日を生きている。

 挨拶という人間にとって最も「当たり前な行動」を誰よりも大切にしながら、今この瞬間を生きることに全身全霊を尽くしている。

 今この瞬間を生きている全ての人々を救うために、ただただ生きることに、全身全霊を尽くしている。


 結局のところ、何が言いたいのかというと──、

 私は、虎藤虎太郎である。

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