● 四月
● 四月
人というものは、思い込みを始めると簡単に周りが見えなくなる。特に不確定だったり未確認のものには、好奇心やら
もうこの年齢になると、そういうことでしか胸を高鳴らせられない今日この頃である。
親から受け継いだ大家の仕事も、収入は安定しているが特にやることもない分暇を持て余しているし、入居者の中に目ぼしい若い女性などがいれば、立場を活かして唾をつけておこうと考えたこともあるが一向に冴えない男連中しか集まらないし、小平の街も相変わらず代わり映えする気配もないし、とりあえず何が言いたいのかというと、とにかく私は、毎日が退屈だった。
そんなときに、ある妙案を思い付いた。
架空の入居者を作って、周りの反応を見てみよう──。
そうして始めたのが、以前に入居していたが突如として行方不明になった謎の男、「虎藤虎太郎」の話だ。アパートのどこかしらにある空き部屋に以前住んでいたという想定にして、ある朝部屋を出て行ったきり戻ってこなかったという設定にして、各入居者と顔を合わせた際に、頃合いを見計らって話すことにした。あくまで大事にするつもりはなく、ただ大家としてそのようなことが以前あって困っていて、その
私が狙ったのは、まさにその好奇心であり、そんな人間が本当にいるのかという、猜疑心であった。私のように日常に退屈している心情を煽り、私のように他人の話をまず疑いを持って聞く
そして一年前、二人の男が私の撒いた
結果として、二人はそれぞれ自分の結論を導いたようだ。一人の男は相手の男を虎藤虎太郎だと思い込んだ末、それが勘違いだったと思い直した上で、世界のどこかにいる虎藤虎太郎を探すためにアパートを去った。
もう一人の男は、自分自身が虎藤虎太郎だと思い込んだ。相手が自分を虎藤虎太郎だと思い込んだことに触発されて、自分が虎藤虎太郎であると信じた。仮にそれが否定されでもしたら、自分自身が何者であるかがわからなくなるくらい、自分が虎藤虎太郎であると哀れにも信じ込んだ。
そしてそれが正しいかを確かめるために、もう一人の男を追いかけるかのように、彼もまた、このアパートを去った。
つまり二人は、虎藤虎太郎はこの世界に存在すると、信じて疑わなかった。
実際には虎藤虎太郎なんて男は存在せず、私が作り出した真っ赤な噓だと、今現在も知らぬまま。
「ちょっと君、ここは個人のアパートだから、部外者は勝手に入らないでくれるかね」
掃き掃除のためにアパートの敷地に出ると、見知らぬ若い男がそこにいた。
「あ、すみません」
若い男は私の言葉に応じてそこから移動しようとしたが、
ここ最近アパートの住人ではない人間の出入りが激しいという報告が入っていて、こういう見知らぬ人間には警戒を強めていた。友人や恋人が遊びに来るとかであれば好きにしてもらって構わないが、何かの取引に使われていたり、どこかの組織のアジトなんかにされた際にはたまったものではない。厄介なトラブルに巻き込まれるのは勘弁してもらいたいが、大家とはいえ全ての状況を把握し、管理できるわけではない。
「あの、ちょっとお訊ねしてもいいですか?」
若い男はアパートを眺めながら、唐突に私に何かを訊ねてきた。
「ここに以前虎藤虎太郎氏が住んでいたと聞いたのですが、それは本当ですか?」
男は再び唐突に、その名を口にした。存在しないが
「いえ、人違い……、というか、そんな人は存在しませんよ」
「あれ、おかしいな、確かにここだって聞いたんだけどな……」
男は
「こらこら、君、そんな風にしたら失礼じゃないか」
するとどこからともなく、違う男が現れた。白いTシャツにジーンズというシンプルな出で立ちのその男は、シンプルな格好をしているのに、若い男よりもどことなく濃い雰囲気を発している気がした。
「ああ、大家さん、お久しぶりですね」
「あ、あんたは……」
「お変わりなくお元気そうで何よりです」
その男は紛れもなく、以前ここのアパートに住んでいた男だった。
出ていった二人の内の後者の方、つまり私の創り出した虎藤虎太郎に翻弄されて、人生を
「あの、もしかして、この方が虎藤虎太郎氏を世界に広めた方ですか?」
「そうだよ。我々が、最も尊敬すべきお人だ」
しかし今この男は、哀れさなど微塵も感じさせない、独特のオーラを
それはまるで、何かのカリスマ、いや、誰かの教祖のようだった。
「ちょっと待ってくれ。さっきから、何の話をしているんだ? そもそも、虎藤虎太郎なんて人間はこの世に存在しないんだぞ?」
しかしだからといって、現実が変わるわけではない。
虎藤虎太郎は私の創り出した空想上の人物であって、世間に広めたも何も、そもそも存在しない人間なのだ。
「確かに以前、私もそう思っていた時期がありました。虎藤虎太郎は空想上の人物ではないか、これだけ探しても見つからないのだから、本当は存在しないのではないか──」
男は独特の間を空けながら、一つ一つの言葉をゆっくり口に出している。
私個人に話すのではなく、彼らの言う「世界」に聞かせるかのように、言葉に重みを乗せる話し方をしている。
「しかし、時を経て、自分自身に問い続け、私は気付きました。虎藤虎太郎は、必ず存在する。いえ、私たちがそう信じれば、必ず存在を表す」
そのとき、男は私の方を向いた。今までとは違って真正面から、私の視線を捉えた。
「だから私たちは、虎藤虎太郎を探すのです。たとえ火でも、水でも、草でも、森でも、土でも、雲でも、どんなに入ってはいけないものの中でも、虎藤虎太郎を探し続けるのです」
話しながら男は、私から少しずつ視線を外した。
しかし私は無意識のうちに、男の外した視線の先を追いかけていた。
「そして私は、宣言する──」
そして、私の頭は真っ白になった。
今までずっと何を考えていたのかを全て忘れるほど、いつの間にか、男の言葉を聞き入っていた。
「私は、虎藤虎太郎だ。もしくは、虎藤虎太郎の
虎藤虎太郎。それは、私が創り出した存在しない人物。
いや、違う。ここに、虎藤虎太郎がいるではないか。私が存在しないと思っていた人物は、今ここに、姿を現しているではないか。
「さあ同志たちよ、偉大なる大家さんのために、今ここに集うのだ!!」
すると、アパートの部屋のドアが次々と開いた。そこからここの住人たちと、ここの住人ではない見知らぬ人間たちが、次々と出てきた。
彼らは自然と私を中心にするように輪を作り、高らかに声を上げた男の次の言葉を待っていた。
「是非、あなたも一緒に、虎藤虎太郎を探しませんか?」
男は満を持して、そう言った。
周りの人間たちは何も言わなかったが、その眼は等しく私を捉え、その視線は等しく、それから神々しいほどに鋭かった。
「今まで気付かなかった本当の自分を、きっと、見つけられますよ」
男の言葉は、とても静かに、私の中に入っていった。
まるで、この世界にまだ何物も存在しなかった、そのときのように。
そして、私は気付いた──
この世界には、きっと、虎藤虎太郎は存在する、と。
虎藤虎太郎 八尾倖生 @kousei_yao
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