★ 九月

★ 九月


 わからない。もう、私にはわからない。もう、私にはどうしたらいいかさっぱりわからない。私のやってきたことは、もしかしたら無駄だったのかもしれない。私のやってきたことは、もしかしたら全て間違っていたのかもしれない。私は、全てにおいて、何か大きな勘違いをしていたのかもしれない。


 文字だけでは諸君らに状況が伝わらないと思うので、単刀直入に言おう。

 私の手元には今、虎藤虎太郎の日記がある。それも前回書いた一部のものではなく、おそらく今日まで書いていた全ての内容が私の手元にある。入手方法は、おおよそ諸君らの想像通りだ。最初の一部は本当に偶然拾ったものだったが、今私の手元にある残りの全てのものは、綿密な予測を立てて在り処を特定し、周到な計画を練って在り処に侵入し、そうして何一つ私だという痕跡を残すことなく、私の手中に収まった。虎藤虎太郎が白地に刻んだ一つ一つの言葉を、私は遂に手に入れることに成功した。

 しかし、なんだこれは? これが、本当に虎藤虎太郎の言葉なのか? 私がずっと追い求めていた、あの虎藤虎太郎から生まれた言葉なのか? これではまるで、虎藤虎太郎を探し出す側の記録ではないか。私と同じように、虎藤虎太郎を見つけ出そうとしている人間の書いた内容ではないか。虎藤虎太郎本人がなぜ、虎藤虎太郎を探し出そうとしている? 虎藤虎太郎本人がなぜ、虎藤虎太郎を見つけ出す必要がある?

 わからない。虎藤虎太郎。貴方の考えていることがわからない。貴方がなぜこの日記を書いたのかわからない。貴方はなぜ、貴方を探す私の存在に気付きながら、それでも自分は虎藤虎太郎ではないと頑なに信じているのか、私にはわからない。


 しかし、それを説明する事実が一つだけある。

 いや、それはまかり間違ってもあり得ない。なぜならあの男は、虎藤虎太郎で間違いないからだ。確かにあの日記の内容は、あたかも虎藤虎太郎を探し出そうという趣旨が所々に書かれていた。しかしだからと言って、自分が虎藤虎太郎ではないなどとは一言も書かれていなかった。あくまで自分探しの体で、そういう事柄を自分しか見ない日記に書いているに違いない。虎藤虎太郎は悩める人間だ。だから一度姿を消したのだし、今でも何か吐き出したい情緒があるから、日記に思いの丈をぶつけているのだろう。

 何もおかしくはない。何も間違っているはずがない。虎藤虎太郎は虎藤虎太郎であり、虎藤虎太郎を探す私は、やはり私だ。お互いがそう自覚しているから、お互いの存在を認め合える。怪盗と刑事が心の奥ではお互いを求め合っているように、私たちの中にもそういったおもむきがあったはずだ。あったはずだから、お互い言葉という手段での表現を選んだ。その表現にいつからか、私たちは引き寄せられていった。

 だが、虎藤虎太郎の日記を読んでわかった。

 私たちは全く違う人間だ。同じ言葉という表現を用いていても、私たちは全く違う方法で感情を吐き出そうとする。語彙ごいだとかそういう問題ではない。上手く言い表せないが、文章を書く心持ちが全くもって違うのだ。

 それはまるで、私と虎藤虎太郎が違うように──、すなわち、探す側と探される側が違うように、在るべき姿のすれ違いを続けてきたのだ。決して交わらなくとも構わない、けれどもそこに在ることをお互いが認めている、そういった違いが、私と虎藤虎太郎の腹の中には芽生えている。そういった違いが、同じ表現手段だからこそにじみ出ざるを得ない。

 だから、虎藤虎太郎は間違いなく、虎藤虎太郎だ。そして虎藤虎太郎を探す私は、間違いなく私だ。この関係は決して崩れない。この関係は、決して崩れるわけにはいかない。太陽が顔を出すときには必ず影が生まれるように、虎藤虎太郎がいるから、虎藤虎太郎を探す私がいるのだ。虎藤虎太郎は虎藤虎太郎だから、私は私で在り続けられるのだ。虎藤虎太郎は虎藤虎太郎だから、私たちは、この世で存在を掴むことができるのだ。


 だから私にはもう、虎藤虎太郎しかないのだ。虎藤虎太郎には、虎藤虎太郎しかないのだ。それでなかったら、私は何者でもなくなる。虎藤虎太郎は、虎藤虎太郎ではない何かに成り果てる。

 それが秩序だと言うのなら、私たちに明日はない。明日という日を、虎藤虎太郎なしでは迎えられない。それが私たちの秩序であり、私たちのことわりだ。私たちの理には、虎藤虎太郎が必要なのだ。虎藤虎太郎がいたから、私たちは理を持つことができたのだ。

 だとしたら、秩序とは何だろうか? 私たちが持っていた理とは、果たして一体何だったのだろうか?

 その答えはきっと、私と虎藤虎太郎とでは違う。私にも虎藤虎太郎にも、それぞれの答えがある。何者かになりたい私と、虎藤虎太郎である虎藤虎太郎には、それぞれの異なる答えが必ず生まれる。

 その先に、私たちは何を視るだろうか。私たちの目に映る景色は、どんな色彩に溢れているだろうか。


 ただ一つだけ言えるのは、ただ一つだけどうしても言いたかったのは──、

 私たちは今、きっと、同じ景色を見ているということだ。

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