◆ 九月

◆ 九月


 私は今、苦しいのだろうか。はたまた、別にどうということもないのだろうか。

 そんなもの、誰がわかるのだろうか。自分でも、わかっているのだろうか。

 自分でわかっているのなら、どうしてそれを解決しないのだろうか。自分でわかっていないのなら、どうして誰かに助けを求めようとしないのだろうか。

 求める相手がいないからだろうか。助ける相手すらいないからだろうか。

 私に残されたものは、一体何なのだろうか。


 それは、たぶん、虎藤虎太郎だ。

 私に残されたのは、虎藤虎太郎ただ一つだ。


 でも、何かおかしくないだろうか。虎藤虎太郎は人であるのに、なぜ私は「一つ」なんて言葉を使ったのだろうか。普通「一人」と言うところを、なぜ私は「一つ」なんて表現でつくろったのだろうか。

 いや、逆の発想もあり得る。そもそも虎藤虎太郎は人ではなく、「一つ」という表現が相応しい「物」だったのではないか。私が勝手に勘違いしていただけで、虎藤虎太郎とは誰かの失くした物であったり、或いはペットやぬいぐるみなんかにつけていた名前なのかもしれない。

 だとしたら、誰の失くし物だったのかは深刻な問題である。大家だったり隣に住むあの男だったのなら別に話はややこしくないが、私の部屋の前の住人だったとしたら、それを回収しにその人物が帰ってくるかもしれない。それで見つからなかったりしたら、私の責任にならないとも限らない。どこかが破損していたりしたら、修理費用を請求されるかもわからない。

 例えばそれがどこぞの怪盗が盗んだお宝だったりして、その怪盗が実はこの部屋を身を隠すために使っていて、虎藤虎太郎はその部屋に盗品が隠されていることを外部に悟られないための暗号であったりして、ということは私の部屋にそのお宝が隠されていたりして、だから虎藤虎太郎という名前は知る人ぞ知る名前なのであって、私は知らないうちに警察や裏組織から目を付けられていたりして、挙句そのお宝を傷つけたなんて言い掛かりをつけられて多大な負債を背負わされて、それを返済するために地下での労働を余儀なくされる運命を辿るのかもしれない。一回部屋にある物を整理した方がいいだろうか。身に覚えのない物が出てきたりしたら、慎重に保管した方がいいだろうか。逆にそれを見つけ出して上手くお金に換えられたりしたら、一生遊んで暮らせる生活もあり得る。そう考えると悪い状況に置かれたとも言い切れない。

 いや、そもそも虎藤虎太郎の発端は私の部屋の前の住人であって、その情報が嘘でなかったなら人であることは間違いない。ということは、虎藤虎太郎とはお宝を部屋に隠した怪盗の名前ということであろうか。いや、それもなんだか違う気がする。そもそも怪盗というワードは虎藤虎太郎は物の名前じゃないかという考えから生まれたのであって、そこから盗品やお宝という発想に至ったわけだから、その前提がないとなると怪盗の選択肢も自然となくなるだろう。

 結局虎藤虎太郎は、私の部屋の前の住人であり、忽然と姿を消して以来行方不明になっている、未だに正体不明の謎の男である。色々なことをこの日記に書いてきたが、書き始めてから今までその事実は何も変わっていない。居所も、職業も、生まれ育ちも、見た目も、鼻の高さも、声の高さも、血液型も、洋食派か和食派かも、字幕派か吹き替え派かも、好きな映画も──、何一つとして、未だに私は虎藤虎太郎を知らない。今日までこんなにも長い時間が流れたにもかかわらず、私は、虎藤虎太郎に一歩として近付いていない。つまり私は、今日という日まで何も変わっていないということだ。

 今日という日まで、一体私は何をやっていたのだろうか。今日という日まで、なぜ私はこんなにも歳月を無駄にしてしまったのだろうか。一体私は、何を追いかけていたのだろうか。こんなにも日々を必死に生きてきたにもかかわらず、なぜ私は全てを無駄にしてしまったのだろうか。

 それは仕方のないことなのか。不条理など何一つなかったのか。虎藤虎太郎を探し出すことなど、そもそも不可能だったのだろうか。

 全てをなげうって虎藤虎太郎ただ一人を探してきた末がこんな結果になっても、私に救いなど何一つなかったのか。ただ単になるべくしてそうなったから、私にはどうすることもできなかったのか。虎藤虎太郎など、誰一人として見つけられる人間などいなかったのだろうか。


 それを解決する答えが、一つだけある。

 世界から不条理をなくし、不可能をなくし、虎藤虎太郎を求める全ての人間を救う答えが一つだけある。戦争をなくし、貧困をなくし、世界中を幸せの光で包み込む答えが、ただ一つだけある。

 なぜならこう考えれば、私の望みも、そして、私と同じく虎藤虎太郎を求めているあの男の望みも叶うのだから。望みが叶えば、二人の今日という日までが、今日という日までの人生の全てが、報われることになるのだから。


 私はもしかしたら、虎藤虎太郎なのかもしれない。

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