★ 八月

★ 八月


 おはよう諸君。人によってはこんにちは諸君。こんばんは諸君。もしくは初めまして、諸君。

 ……なんて言ってられる場合ではなくなってきた。と言ってもそう思う何か直接的な動機があったわけではないのだが、色々と考え直してみると、やはり何かおかしいと改めて思うのだ。

 改めて諸君に問おう。私は間違っているだろうか?

 なぜ、虎藤虎太郎は自分が虎藤虎太郎であると信じない? なぜ、虎藤虎太郎は私が虎藤虎太郎であると信じている? だとしたら、なぜ、私は、虎藤虎太郎にはなれないのだろうか?

 答えは決まっている。虎藤虎太郎は、虎藤虎太郎でしかないからだ。私は私でしかないのと同じように、私の追いかけ続けてきた虎藤虎太郎は、私にとって、虎藤虎太郎でしかない。

 私が追いかけ続けてきたのは、何も知らない虎藤虎太郎だった。居所も、職業も、生まれ育ちも、見た目も、鼻の高さも、声の高さも、血液型も、洋食派か和食派かも、字幕派か吹き替え派かも、好きな映画も、何もかも知らない虎藤虎太郎だった。

 しかし今は、少しだけ虎藤虎太郎を知った。居所は知った。職業はなんとなく想像はついた。生まれ育ちはまだ知らないが、これから知ることになるだろう。見た目や鼻・声の高さは私の五感が憶えている。血液型はおそらくAB型だ。根拠はない。たぶん和食派だ。根拠はない。あと、たぶん字幕派だ。根拠は私が字幕派だからだ。すなわち根拠はない。好きな映画は、なんだかんだ『プラダを着た悪魔』ではないだろうか。いや、あのくらいの年齢ならマーティン・スコセッシの『タクシードライバー』も捨てがたい。これだときりがないので、最終的な予想は私の好きな『スクール・オブ・ロック』に決定させてもらう。異論は認めない。

 とにかく今、私の知っている虎藤虎太郎はこの通りだ。かつてなら何を言われても動揺しなかっただろう。なにせ私は虎藤虎太郎のことを何も知らなかったのだから、実は私自身が虎藤虎太郎だと言われても、或いは信じていたかもしれない。

 だが今は、虎藤虎太郎を少しだけ知っている。何を知っているかは今述べた通りだが、最も私が知ったのは、知りたかったのは、虎藤虎太郎は実在する人物だということだ。この世界に実体があり、意思があり、そして私の存在を認識できる、一人の人間だということだった。虎藤虎太郎を追いかけてきた私は間違っていない、なぜなら虎藤虎太郎は存在しているのだから──、それが、私の信じた現実だった。


 それを、虎藤虎太郎は覆した。当たり前に存在する現実を、当たり前ではないと言った。正確に言うと、別の当たり前が存在するとはっきり言った。自分は虎藤虎太郎ではないと、間違いなく、虎藤虎太郎は自らの言葉で言い放った。

 だとしたら、私は何を信じればいい?

 私がこの世で信じていた唯一のものは、何を隠そう現実である。現実こそが真理であり、現実こそが宗教であり、現実こそが、私にとっての神だった。虎藤虎太郎という存在の証明は、私にとって、それほどの価値があったのだ。

それを、たった数枚の紙切れによって、否定された。文字なんていうくだらない産物で、言葉なんていう愚かな革命で、私の生涯は否定された。私の信じていたものは、私の信じていたものによって、微塵みじんになるまで破壊され尽くしたのだ。

 しかし、それが虎藤虎太郎の導き出した答えであるならば、私は信じるしかない。虎藤虎太郎の見ている現実を、私も見るしかない。そうすることで私は肯定され、私の中に蔓延はびこる間違いや嘘も、いつしか消えていくだろう。間違った現実も、正しい嘘も、いつしか紙切れと共に消えていく。私の信じていた真理も、宗教も、神も、それほどの価値でしかなかったのだ。

 私は一体、誰なのだろうか。たった一人の人間を真理だと捉え、宗教だと称え、神だと見誤った私は、もはや一体何者なのだろうか。仮に虎藤虎太郎が虎藤虎太郎だったとしても、その三物にはなりようがないのに、仮にその中の一つだったとしても、私には信じる勇気などないのに、「私にとって」なんて言葉で安心しようとしたのだろうか。私にとって最も欠けていたのは自分自身であるのに、どうして私は、無邪気にすがりつこうとしたのだろうか。最後の最後まで、他者に全てを委ねようとしたのだろうか。

 たぶん、それでもよかったのだ。虎藤虎太郎に裏切られても、きっと私は満足していたのだ。虎藤虎太郎が本当は存在していなくたって、きっと私は、虎藤虎太郎を探している時間に幸福を感じていたのだ。何かを信じられただけで、何かに縋りつけただけで、私には充分だったのだ。


 だが、まだ全てが終わったわけではない。まだ、現実が全て真実に成り変わったわけではない。私が見たのは現実の一部であって、この矛盾を解くためには、残りの現実で少しずつ穴埋めしていく必要がある。その末に真実が浮かび上がり、私が全てを委ねる本物の現実が形作られていくのだ。

 そのための方法はたった一つ、私が偶然手に入れた虎藤虎太郎の日記の、残りの全てを手に入れることだ。嘘だと思われるだろうが、実はこの日記は本当に偶然アパートの周辺で拾ったものであった。なので今のところ残りの日記の所在について見当はついておらず、そもそも残りの日記が存在しているのかについても今のところは不明だ。

 しかし勘の話をしていいのなら、残りの日記は必ず存在する。なぜなら私の知っている虎藤虎太郎は、不思議とどこか私と似た行動を取るような気がするのだ。私がこうしてインターネット上に見解を吐露しているのと同じように、虎藤虎太郎も自分の感情を言語化しているのではないかと、心のどこかで思っていたのだ。

 だとしたら、あとはどのようにしてそれを手に入れるかだ。先ほどは所在の見当はついていないと言ったが、実際はどこにあるかは想像がつく。逆に言えば、私ならどこに日記を置いておくかを考えれば大方の見当はつくのだ。

 これから起こす私の行動は、もしかすると間違っているかもしれない。外の世界から断絶するために書いた自分のためだけの日記を暴こうとするなど、どんな言い訳を用いたって相手から非難されることは免れないだろう。

 だが、ここまで私を追い詰めた張本人こそ、虎藤虎太郎なのだ。そして、虎藤虎太郎と私は、正しく一心同体なのだ。今さら私たちの間に隠し事などなければ、食い違う現実などないだろう。どちらかが間違っていることなどない。どちらもが間違っているのだ。

 それを証明するために、私は最後の行動に出る。私の行動はきっと間違っていない。なにせ私の行動は、虎藤虎太郎の行動と共にあるのだから。私の思想は全て、虎藤虎太郎と共にあるのだから。


 それでは。

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