◆ 八月

◆ 八月


 皆様、ご機嫌いかがだろうか。

 今回はまあ色々あったが、まあ、特段書き記すことがあったわけでも、なかったわけでもない。人並みに外出もしたし、その外出もそれなりに楽しんだ。外出をしたと言っても、先日のラーメン屋に普通に夕食で訪れたのと、あとは日常的な買い物でスーパーやコンビニを数軒回ったくらいだろうか。

 それらが外出に含まれないと言われるならば、それはそれでいい。もう私はご近所付き合いの問題で悩んでいるわけではないし、無理にご近所との関係性を構築しようとも思わない。この近所で暮らせなくなったのならば、最悪それでもいい。今以上に暮らしづらい場所に引っ越すことを余儀なくされるかもしれないが、最悪それでもいい。別に今だって特別暮らしやすいところに住んでいるわけじゃない。確かに近所にはスーパーやコンビニが程々にあって、個人経営の安い飲食店も比較的あって、同じアパートには騒音だとか異臭を放つ人間もいないので特にストレスもなく、大家ともそこそこに話せる間柄だ。身近に特別親しい人間がいるわけではないが、恨まれるだとか会いたくもない人間がいるわけでもない。悪くないといえば悪くないし、良い方といえば、それは否めないかもしれない。ただ「それでもそういうときが来たのなら仕方ない」といったくらいの心持でいられるのが、今私が身を置いている環境だ。居心地以上、未練未満、といったところだろうか。去ったら去ったで寂しい感情も湧き起こるかもしれないが、自分の人生までもを巻き込ませるほどではない、といったところだろうか。


 こんなことを冒頭から書いていると何かあったのかと思われるかもしれないが、まあ、なかったわけではない。それがご近所付き合いに関係することかといえば、一概に否定はできないが、直接関係があるかないかで言うと、ない部類に入るだろう。

 というのも私は最近、この日記をかの喫茶店かどこかでじっくり読み返そうと思い外に持ち出したのだが、帰って部屋に着いたときにバッグの中を確認してみると、一部のページがなくなっていることに気付いたのだ。

 これは由々しき事態だ。門外不出中の門外不出案件だったあの日記が、バッグはおろか部屋のどこを探しても見つからない。住所や電話番号や貯金額なんかよりもよっぽど深刻な、まさにプライバシーの全てを書き記していた日記を、なんと私は失くしてしまったのだ。

 冒頭で支離滅裂な文章を羅列していた訳も、これで理解していただけただろう。私は今、ものすごく動揺している。他人の目に触れることなどあり得ないと思い好き放題書いていた日記が、今ではどこの誰かもわからない人間に読まれていると思うと、それだけで居ても立っても居られなくなる。よく女子中学生なんかがそういうのを黒歴史なんて言葉で形容しているが、とっくに成人を迎えた冴えない男がその境遇にあると想像してほしい。

 ……どうだろう、救いようがないと理解していただけただろうか。

 とにかく私は、良くも悪くも様々なことを書いていた日記を失くした。どこで失くしたのか見当もつかないし、ついたとしても探す気概はない。「ああ、これあなたのだったんですか」なんて言われて苦笑いされながら返してもらうよりかは、その拾った人間に笑い話か何かのネタとして大いに使ってもらった方がマシだ。おそらく私個人を特定する情報は書いていないはずであるし、失くしたといってもいつかの一回分の内容だけのはずであるし、もしかしたら運の良いことに、誰の手にも渡らないで誰かが紙くずとしてゴミ箱に捨て、今頃は灰になっているかもしれない。その部分を読み返せないのは少し残念だが、吐き出したかったものは吐き出せたはずだ。そうやって何でもかんでも書いていた日記だからこそ、他人の手に渡っていないことを祈るばかりの今日この頃である。


 それにしても、なぜ私が今になって日記を読み返す気になったのか、疑問に思う方々もいるだろう。読み返すにしても家の中ですればいいのに、わざわざ紛失するリスクを冒してまで外に持ち出す必要があったのか、疑問に思う方々もいるだろう。

 まず外に持ち出す必要があったのかについてだが、これは率直に言うと、持ち出す必要はなかったと言っていい。なぜなら日記を外で読もうと思ったのは、完全に気分の問題だからだ。初めて訪れて以来何度か通っているかの喫茶店で、段々と常連の肩書きが板についてきたと内心浮かれていた矢先だった。スマートフォンやパソコンで作業するのではなく、書物や文献のような読み物で時間を潰していると店員から一目置かれるのではないかと、内心浮かれていた矢先だった。

 つまり、ただ単に格好つけたかっただけなのだ。そういう場所にあまり足を運んだことがないから、自分の思う格好の良いことを実践してみたくなっただけなのだ。これでもし紛失したその部分が店に落ちていたりしたら、もうあの店には通えないだろう。それが誰のものかを特定することなど、デザートで食べるために取っておいたプリンを家族の誰かが勝手に食べた際に、誰が食べたかすぐ見当がつくくらい簡単なことだ。ちなみに我が家の場合、大抵は兄だった。なぜなら兄が同じように何かを取っておいた場合、大抵勝手に食べるのは自分だったからだ。

 とりあえず、外に持ち出した件についてはこれ以上話す必要はない。完全に私の慢心が原因である。となるともう一つの疑問について話す必要が出てくるが、これがどうにもこうにも説明が難しい。単純に今まで何を書いたか読み返したくなったというのもあるし、次に書く内容の参考に以前のものを読もうと思ったというのもあるし、あとはなんていうか、自分がどんなことを書いていたかについて良くも悪くも向き合おうと思った節もある。

 というわけで外に持ち出した件と違って明確な理由がないというのが私からの言い分であるのだが、今述べたものとは少しだけ、調子の違った理由がもう一つある。それにははっきりとしたきっかけがあって、あの虎藤虎太郎を探しているという男のブログである。最近は忙しかったのもあってまだ全てを読み切ったわけではないが、いくつか記事を読み進めるにあたって、やはりあの男は私を虎藤虎太郎だと思い込んでいることを改めて思い知らされた。私としてもそれについては複雑な感情が湧き起こり、この日記に書こうにもどう言葉で表していいかわからなくなった。

 そんなときに今までの日記を思い出し、そういえば自分はどんなことを書いていたのかを、ふと読み返してみたくなった。どうして私はこの日記を書き始めたのか、どうして私はこの日記に好き放題物事を書くようになったのか、そして、虎藤虎太郎の話は何がきっかけでするようになったのか、そもそも虎藤虎太郎とは一体どのような人物だったのか、どうして私は、虎藤虎太郎だと思われるようになったのか──、この疑問が全て、日記に書いてあると思ったのだ。

 結果的に納得がいったのは一部の問いだけだったが、頭の中でスッキリした感覚が起こったのも事実だ。どんな内容が書かれていようと、自分の書いた文章は不思議と嫌いにはなれない。喫茶店で読み物をしていると周りからの見栄えが良いという痛々しい勘違いと合わせて、なかなかに気分の良い時間を過ごしたものだ。

 その代償はとんでもない悩みの種という形で充分に払わされたわけだが、日記を書いたことに後悔はない。心臓をえぐられるような文章が他人の目に触れられるとしても、書いたことそれ自体には決して後悔しないだろう。あの男もそうやって、誰でも見られるインターネットという媒体を用いて、思いの丈をぶつけているのだろうから。あの男もそうやって、虎藤虎太郎という存在に、自らの思いの丈をぶつけているのだろうから。

 彼も私も、結局は、同じ穴のむじななのだろうから。


 それでは。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る