虎藤虎太郎

八尾倖生

★ 四月

★ 四月


 おはよう諸君。人によってはこんにちは諸君。こんばんは諸君。もしくは初めまして、諸君。

 私は、ある人物を探している。

 その人物の名は、虎藤虎太郎という。読み方は「とらふじこたろう」だ。私の住んでいるアパートの隣の部屋に以前住んでいた男らしいのだが、数年前に忽然と姿を消してしまって以来ずっと行方不明になっているらしく、特に直接的なきっかけはないのだが、私も探すことにした。見つけたからといって彼の家族からお金を貰えるとかそういうのはなさそうだが、まあちょっとした人助けのつもりで探し始めた次第である。

 こんな軽い感じで虎藤虎太郎を探し始めた私だが、いざやると決めたからには自分でも驚くぐらい、虎藤虎太郎を見つけるためにその身を捧げた。全国津々浦々というわけではないが、今思えば様々な場所に足を運んだものだ。私が今住んでいるアパートは東京の小平という町にあるのだが、そこから北へ電車に乗って三十分で埼玉の入間へ足を運び、虎藤虎太郎を探した。しかし、虎藤虎太郎はいなかった。気を取り直して小平から西へ電車で約一時間の南大沢に足を運んだが、やはり虎藤虎太郎はいなかった。再び気を取り直して小平から南へ電車で約二時間の横浜ベイサイドに足を運んだが、再び虎藤虎太郎はいなかった。またも再び気を取り直して小平から東へ電車で約二時間半の木更津に足を運ぼうと思ったが、さすがにそこまでファッションには関心がないので木更津は断念した。何の話をしているかわからない人は、今話したその四地点の名前をインターネットで検索してみるといい。どうやら人が集まりそうな場所だということは、おそらくおわかりいただけるだろう。

 まあ今の話は半分冗談だとして、結局のところ何が言いたいのかというと、私は虎藤虎太郎を見つけるためならどんな場所へも足を運ぶつもりだ。サッカー日本代表の試合でも、年末の有馬記念の競馬場でも、海外の大物アーティストのライブでも、虎藤虎太郎がいるとわかれば迷わず雑踏の中にその身を委ねる覚悟がある。たとえハロウィンの渋谷でも、花火大会の隅田川でも、火でも、水でも、草でも、森でも、土でも、雲でも、あの娘のスカートでも──、とにかく虎藤虎太郎がいるとわかればどんな中へも飛び込んでいく、それが私の掲げている、絶対に曲げることのない明確な信念である。


 しかし実は、私は虎藤虎太郎についてほとんど何も知らない。私が虎藤虎太郎について知っているのは、虎藤虎太郎という名前と、大家から聞いた虎藤虎太郎の外見的な特徴だけだ。大家によると虎藤虎太郎は背が高いらしく、身長で言うと180センチ近くあるらしい。その一方で体型は瘦せ型らしく、体重は63.2キロらしい。キックボクシングで言うとスーパーライト級に該当するが、喘息持ちらしいのでたぶんキックボクシングはやらないであろう。また色白らしく、冬でも天気が良い日は欠かさずに日焼け止めをつけていたらしい。肌へのケアの意識が高くて感心する次第だ。

 大家から聞き出せた情報はこれくらいだが、そもそも私が虎藤虎太郎という人間を探そうと決めたのは、今から一年ほど前に空室だった隣の部屋はどんな状況なのかと大家に訊いたところ、虎藤虎太郎という男が以前住んでいたが突如として失踪してしまったので今は空室になっていると聞いて、無性に興味が湧いたからだ。隣の部屋だというが、私が入居するより前に失踪したらしいので本人に心当たりはさっぱりなかった。

 そのような状況のため、現時点で私には、虎藤虎太郎に関する情報が少ない。ケチなラーメン屋のサービストッピングの量よりも少ない。その話を聞いた後からもう一年近く虎藤虎太郎を探し回っているのに、未だに消息を掴むどころか、写真一枚入手することすらできない。

 なので私は、虎藤虎太郎がどんな顔をしているのかわからない。電車で隣の席に虎藤虎太郎が座っていても、身長が高いと思ってもその人物が虎藤虎太郎だとは気付かない。ケチなラーメン屋の隣の席で虎藤虎太郎がラーメンをすすっていても、体重が63.2キロでスーパーライト級の試合に出れば高身長のリーチを活かして有利だろうなと思っても、その人物が虎藤虎太郎だとは確信が持てない。病院の待合室で虎藤虎太郎の名前が呼ばれたらさすがに気付くだろうが、診察を妨げてまで虎藤虎太郎の尻尾を掴む勇気はない。そうなった場合、虎藤虎太郎が診察を受け終わったタイミングを見計らってその後をけるというプランは考えているので安心してほしい。自分の診療は受けられなくなってしまうが、それぐらいの犠牲は致し方ないだろう。

 だがこれだけ探し回っても、虎藤虎太郎は見つからない。苦労に苦労を重ねても、虎藤虎太郎の尻尾の影さえ掴むことはできない。そもそも本当に存在しているのかと疑心暗鬼になりさえする。そういうときは今まで自分のしてきたことが全て無駄だったのではないかと、心の底から恐怖を感じる。今まで私は性質の悪い悪魔に騙されていたのではないかと、目の前が真っ暗になるほどに追い込まれてしまうのだ。

 ただ、人間はこうやって悩みに悩み抜いて、そうして最後の最後に答えを見つけるものだ。およそ一三八億年前、非常に高温高密度だった状態が爆発的な膨張によって低温低密度となって宇宙が誕生して以来、約四十六億年前、原始太陽のエネルギー放出によって合体したガスやちりたちが五〇〇〇万年程の時間をかけ次第に巨大化することで地球が誕生して以来、約四十億年前、有機物を用いて深海の熱水噴出孔の周りで最初の生命が誕生して以来、紀元前七〇〇〇年から紀元前五〇〇〇年、大陸に四つの大きな文明が誕生して以来、紀元前十三世紀、モーセがイスラエルの民を救うために海を割って奇跡を起こして以来、紀元〇年、聖母マリアが天使ガブリエルのお告げによって処女のまま子を身籠り、ナザレの地で生まれ育ったその子イエスが貧しき人々を中心に隣人愛を施すことで救世主と呼ばれるようになって以来、西暦六一〇年頃、四十歳になった商人ムハンマドがメッカ郊外で唯一神の啓示を受けて以来、紀元前六世紀頃、ゴータマ・シッダールタが生と死の究極の問いに答えを出すために出家し、その末に悟りを開いて以来──、人間は、絶えず自分の中の葛藤と戦ってきた。自分の中の矛盾に打ちってきた。

 結局のところ何が言いたいのかというと、要はこのとんでもなく長い歴史の中において、私の前に立ちはだかった困難なるものはただ一つの通過点に過ぎない。人類はそれこそ様々な「歴史」を残してきた。モーセは奇跡を起こし、イエスは隣人愛を施し、ムハンマドは啓示を受け、ゴータマ・シッダールタは悟りを開いた。そうやって現代まで続く思想は形を成してきたが、虎藤虎太郎という存在はまだ、人々の悩みに達するには尚早だったのかもしれない。この世界で虎藤虎太郎を探している人間など、私ただ一人だったのかもしれない。

 それでも、私は虎藤虎太郎を探す。なぜならそれは、私の中に芽生えた初めての信念だからだ。悪魔にも天使にも歪めることなどできない、私を造り上げた信念だからだ。いつからか虎藤虎太郎は、私の中でそういう存在と化していったのだ。


 とは言ってみたものの、肝心の虎藤虎太郎に関する情報はやはり少ない。幾つかの情報筋を探ってみても、浮き上がってくるのは彼、もしくは万一の場合を考えて彼女の、東京近郊で所縁ゆかりのある場所があるという曖昧な情報しかない。逆に言うと、彼、もしくは万一の場合を考えて彼女は、以前住んでいた私らのアパートからさほど離れていない場所を、今でも彷徨さまよっているのかもしれない。ということは東京近郊、或いは広く見積もっても神奈川、埼玉、千葉のどこかに潜んでいる可能性が高い。千葉県民の方々は県名の記載の順番に不服があるかもしれないので一言付け加えておくと、この順番は五十音順なので、くれぐれも私の個人的感情による意図的な操作だと誤解しないでもらいたい。私には充分千葉県を思いやる気持ちがあることをくれぐれも頭の片隅にでも置いておいてもらいたい。

 しかし、虎藤虎太郎とは一体何者なのだろうか。謎は深まるばかりだ。マリアナ海溝より深い謎だ。何しろ名前の中に二つの「虎」を携えている人物だ。只者の筈はない。いつの日か、マリアナ海溝より深いその謎の真相に辿り着きたいものだ。そのためには一日たりとも無駄にはできない。明日にだってその謎は、誰かの手によって暴かれてしまうかもしれないのだ。

 ちなみに私は近日、千駄ヶ谷駅の近辺に行こうと思う。その近辺で用事があるというのもそうだが、ある情報筋から、と言っても大家からだが、虎藤虎太郎はかつて明治神宮の外苑エリアが好きだったという情報を手に入れたのだ。なので、千駄ヶ谷駅周辺を含めて、神宮外苑と呼ばれているエリアを見ておこうと思う。虎藤虎太郎に関する新たな情報が手に入るかもしれない。あんまり朝早くに行くと通勤ラッシュに巻き込まれるから、向こうに着くのは十一時くらいになるようにしよう。最近は暖かくなってきたから、服装は半袖でもよさそうだ。

 今回の報告は以上だ。次回の報告では何かしらの消息が掴めていることを願う。諸君らの中にも虎藤虎太郎についての情報を掴んだ者がいたら、是非ともコメントか何かで情報を共有してほしい。皆で協力して、是非とも虎藤虎太郎の真相に辿り着こうではないか。


 それでは、また会う日まで。

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