天の川を割って

小鷹竹叢

天の川を割って

 彦星は目の前に広がる天の川を眺めて放心していた。滔々とうとうと流れる乳色の川は広く、余りにも広く、その川幅は海よりも広く、世界を丸ごと飲み込めるほどだった。対岸など見えるはずもない。この向こうに織姫はいるはずだったが、世界の両端ほどにも懸け離れた距離では姿を望むことなど決して出来ない。


 人の短い腕を伸ばして彼女を求めた。しかし影も見ない相手はそれを知ることもないだろう。川に一歩でも踏み入れば五体は砕かれ天の果てまで流し去られる。


 この川は言わば世界の境界だった。彦星がいるのは人の世界。織姫のいるのは天人の世界。地と天とがこの川によって隔てられていた。


 人の身にして天女を恋うなど不相応であったのか。いや彼女は応えてくれた。彦星の身分を蔑みもせずその誠心を受け取ってくれた。だが天神はそれを好しとはしなかった。彼らは天の川によって隔てられた。


 年に一度の天の川が干上がる夜には会うことは出来る。しかし飽くまでそれは一夜だ。一緒にはなれない。夜が明ける頃には再び川の水は溢れ出し、天と地とが別けられる。地人は天人に憧れながらも想いが叶えられることは決してない。それは天地、男女、陰陽、絶対的な区分だった。


 それでも彼女は彼を愛したのだ。世の理など存在しないかのように。彼女は秩序以前の存在だった。世界が始まるよりも以前、天地開闢以前の混沌をすら思わせた。


 朦朧として、彦星は川へ足を踏み入れようとした。だが、そんな彼の裾を引いて留めようとするものがいた。彼の脚にはいとけない二児がしがみついていた。


 二児は彦星達の子供だった。その子らが、父が何をしていようとしているかも知らぬまま、裾を引いて彼を見上げた。


 星光のように純粋に輝く四つの瞳に見詰められ、彦星は足を止め、しゃがみ込んで子らを抱いた。この子らがいる以上、天の川に入水は出来ない。裾を水には浸けぬままで頬を濡らした。


 二児は彼を現世に繋ぐ足枷だった。彦星は地上で生きるしかなかった。


 彦星はもう一度天の川を眺めやった。朧ぐ視界に川面の煌めきがちりばめられた。綺羅の如き光景を目に焼き付けた。


 彼は二児の手を曳いて自分の世界へ帰って行った。


 地上に戻ってからの彼は、生活の合間々々に子供達に母の話を語って聞かせた。愛情と憧憬と彼女の美しさ麗しさ。子供らは永久なるものへの思慕を募らせた。


 彦星が死んでからもその子らは自分の子らに織姫の話を語って聞かせた。更にその子もその子に語った。子々孫々と織姫の話は語り継がれた。


 しかしそれも何時かは終わった。次第に語られなくなり、織姫の話も彼女自身も忘れ去られた。



◆◆◆◆◆◆◆



「システム、オールグリーン。自動操縦へ移行」


 タツミは操縦席の背凭れを倒して伸びをしてから、手摺の横にマジックテープで固定されていたタンブラーを手に取った。ストローでオレンジジュースを飲みながら、三百年振りの点検作業に漏れがなかったかを頭の中で確認した。


 もしも万が一があったとしても安全策は取られているが、それでもミスがあったなら、そして安全策が機能しなければ、即死だ。自分だけではない、乗組員全員がだ。


 チェックリスト一覧の冊子を捲り直して大丈夫だと自分に言い聞かせると、ようやく彼はコクピットの正面に広がる星の海を眺めやった。


 彼は宇宙飛行士だった。宇宙船ユグドラシル号に乗っていた。この船は人類史上初の銀河間飛行に挑戦していた。


 乗組員は六十名。コールドスリープを繰り返しながら定期的に船の点検整備をして運航して行く。点検整備作業はコールドスリープから起きた後のリハビリ期間を含めても二十日もあれば充分に終わる。もちろん異常がなければだが。


 その後は各自の自由時間だ。最長で半年まで起きていても良いことになっている。しかし殆どの者はそれだけの余暇を味わうことはない。原則的には一度に三人起きることになっているのだが、それでもこの笹舟のように頼りない宇宙船で遠大な宇宙空間を漂っているという事実は彼らに強い孤独感を与えた。大抵の場合は三ヶ月もすれば各々の冷凍睡眠槽へと帰って行った。


 と、背後のドアが開き、同僚のリュウチェンが入って来た。


「おう、タツミ。そっちの調子はどうだ? 問題はなさそうだな」


 モニターを覗き込んでそう言った。片手にはタンブラーを持っている。中身はおそらくベリージュースだろう。彼はいつでもそれを飲んでいる。


「ああ。何事もない。前任のレポートを遡っても全くもって没問題メイウェンティだ」


「それは良かった。で、こっちの方はどうだ。ルームへ行くか?」


「いや、いい。こっちも問題ない」


 リュウチェンはカウンセラーでもある。起床の度に必ず一度、また任意のタイミングでカウンセリングを受けることが出来る。


 返事を聞いて、そうか、と頷き、タツミの肩に手を置いた。


「しかしお前はタフだよ。もうそろそろ不安になる乗員が出て来てもおかしくない頃合なのに、お前はそんな様子が全然ない。寝るのだって俺達に促されてやっとだ。俺達が言わなければ本当に半年起きていたいんじゃないか?」


「まあな」


「俺も含めてここの連中は全員、熱意を持って乗り込んでいる。世論の下らない反対を押し切って、危険性を承知の上でな。それでもお前は抜きん出ている。特別なんじゃないかと思うくらい」


「そんなことはないだろう。皆と同じだ。銀河の外へ行ってみたかった。絶対に、どうしても、何としてでも。この憧れは叶えたい。皆と同じだ」


「皆と同じか。まあ、俺も行きたくてこれに乗ったし、宇宙飛行士を志したのもそれが理由だが」


「そうだ。皆、外の世界に憧れているんだ」


「慕っているとさえ言っていい」


「ああ」


「この銀河の殻を割って、生まれ出したい」


「リュウチェン、お前は詩人だったんだな」


「笑うなよ。お前に合わせてやっただけだ」


「そうだな。卵を出たいと思うのは本能だ」


「銀河を卵に例えたか。詩人だな」


「笑うなよ。お前に合わせてやっただけだ」


 クスクスと笑い合い、それからリュウチェンはタツミの肩から手を離した。


「そうだ、これからジェイデンとゲームをするんだ。お前も来ないか? 二十世紀のヴィデオゲームだ。面白そうだぞ」


「後から行くよ。俺はもう少し宇宙の景色を見ていたい」


「分かった。しかし来るなら早くしろよ。つまらなければすぐに止めるからな」


「ああ」


 リュウチェンは出て行き、タツミは改めて星々の鏤められた光景に見入った。


 自分自身でも理由を知らない情熱が彼の胸を満たしていた。これこそが人生の目的であるように思っていた。物心が付く前からずっとだ。先程口にした「本能」という言葉は本心だった。そうとしか思えなかった。


 この欲求は言わば魂に組み込まれていた。欲求は受け継がれ続けていた。本人も親も知らない間に。何世代にも渡って。名前も分からなくなった祖先から。そのずっと前から。


 彦星の子らの想いは彼の中にも残っていた。母への思慕。自身ですら知らない織姫への懐旧が彼を動かし、本能的な希求が全身に満ちていた。


 この銀河を、天の川銀河を飛び越えて、彼らは母なる宇宙うみを求めて行く。

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