浮気す
ネプ ヒステリカ
浮気す
今日も遅くなったと、机の上を片付けならH氏は、思った。
残業で遅くなると、家路が遠のく。
子供たちが幼い頃は、少しでも早く帰ろうとした。しかし、思春期になると、部屋からほとんど出てこなくなり、なにを考えているのか解らなくなった。
家族との会話が減り、話しても続かなくなった。
ときどき子供たちと出かける妻は、ある程度コミュニケーションが、取れているのだろう。
あるとき、妻にそのことを話したら、
「あの子たち、わたしを便利な家政婦か、財布だと思っているのよ」
と、自嘲気味いった。
H氏には、それさえもうらやましい。
父親とは寂しいものだ。
そんなことを思いながら、街灯りで白けている都会の夜空を見上げた。
帰るのが億劫だ。
仕事帰りにときどき行く居酒屋でも、行こうかとH氏は、歩き始めた。。
駅前の歩道橋で、足下の広い道路をたくさんの車が流れていた。
「みんな忙しそうだ」
そんなことを思いながら、雑踏をぼんやり歩いていたら、スーツ姿の女性にぶつかった。
倒れそうになった彼女の荷物が、歩道に散らばった。
慌ててH氏は、その荷物を拾い、
「ごめんなさい。ぼんやりしていました」
と、いった。
それに、彼女が、
「すみません。私の方こそぼんやりしてました」
と、いって、荷物を拾ってくれているH氏に、頭を下げた。
40歳くらいのだろうか。
その女性を見てH氏は、思った。
こんな時間まで、残業か……。
お互い、お疲れ様なことだ。
H氏は思った。
「じゃ、お気を付けて」
互いにそういって、歩き始めた。
少し歩いてH氏は、振り返った。
人混みの中に、スーツ姿の少し疲れた感じのする中年女の姿が見えた。でも、それは、すぐに人混みに紛れた。
「どこかで会った気がする。どこで会ったのだろう……」
H氏は思った。
が、その思いは白けた都会の夜空に消えた。
休みの日、妻と子供たちが、買い物に出かけた。いつも通りH氏は、留守番をした。
H氏に妻が、いった。
「買い物に行っても、退屈そうにしているでしょ。欲しいものも、ないっていうし」
だから、無理して付き合ってくれなくても良いのよと。
言われたときは、少なからずショックだったが、長い買い物に付き合わなくても良いのかと、思った。
家族が出かけて、しばらく一人でぼんやりしていた。
少し早いけど、昼食でもいこうかと、H氏は家を出た。
さて、なにを食べようかと考えながら、H氏はターミナル駅まで行った。
「昼メシには、少し早いな」
H氏は、時間つぶしに大型書店に入った。
そこの1階は、新刊やビジネス書が置いてあり、いつも混雑していた。
人混みを避けて、H氏は上の階に行った。
上の階に行くほど専門性が高くなり、最上階は、ほとんど人がいない。
そこにかなり以前から「数理的解析の演繹法則」と、いう本が売れずにあった。この本を必要とする人種をH氏は、想像出来なかった。
この本が棚に残っているのを見ると、H氏はホッとした。
売れることを前提に仕入れたのだろうが、好奇心から買うには、高価すぎた。
でも、置いている……。
これが、この書店の矜持なのだろう。
この本を見る度にH氏は思った。
本は、売れないことにも意義はある。
専門書の森を散策していたら、並んだ書棚の先に一人の女性が立っていた。
本を手に取るわけでもなく、H氏と同じように書棚のあいだを歩いていた。
その女性に、見覚えがあるような気がした。
だれだろうかと、H氏は考えた。
得意先の人でもないし、どこかの店員でもない。
だれだろう……。
気にはなったが、誰だかわからないまま、話しかけらるほど図太くはない。
書棚の向こうに女性の姿が隠れた。
H氏は考えるのをやめた。
昼食を摂っていたら、フッと、あの女性のことを思い出した。
「この間、歩道橋でぶつかった女の人だ。……居酒屋でも見かけた気がする」
話しかけなくて良かったと、H氏は思った。
得意先の人なら声をかけないと失礼だし、逆に、居酒屋ですれ違うだけの女性に話しかけるのは不謹慎だ。
気になっていた胸のつかえが取れ、H氏は、ほくそ笑んだ。
週明け、雑務が重なって残業になった。
他の誰かに頼めるものではないので、H氏は一人、部屋に残った。
難しくはない、ただ億劫なだけの仕事だった。
いつもの居酒屋に行った。
H氏が一人で飲んでいたら、女性が入ってきた。
「あっ」
と、H氏は彼女を見た。先週、歩道橋でぶつかった女性だった。
彼女は、H氏に気付いて、
「こんばんは」
と、やって来た。
軽く会釈をして、
「わたしのこと、憶えていらっしゃいますか」
と、いった。
「歩道橋でぶつかった……」
そう、H氏が言うと、
「そう。憶えていて下さったのですね。それと、この店で良くお見かけする人だと思って」
そういって、彼女は微笑んだ。
「よろしいですか」
彼女が、いった。
「どうぞ」
と、H氏は応えた。
彼女は、H氏の前に腰掛け、
「偶然って面白いですね」
と、いった。
結婚してから、こんな風に女性と差し向かいで飲むことはない。
この感じ、忘れていたなあと、H氏は思った。
彼女は、西田圭子といった。駅前の歩道橋近くの会社に勤めているらしい。
「最初にぶつかったところの近く。良いところですね」
H氏が言うと、
「場所が良いだけの、小さな会社です」
西田圭子は、言った。
H氏も、自己紹介した。
「でも、みんなわたしをHさんと、呼ぶのですよ」
と、いって、なぜそう呼ばれるようになったかを話した。
それを聞いて、西田圭子は、楽しそうに笑った。
それで打ち解けた。
彼女は、大学生の息子が二人いるといった。二人とも学校近くのアパートを借りていて、ほとんど帰ってこないらしい。
夫は、出張がちの忙しい人だといった。
だから、たまに残業すると、ここで飲むのだといった。
「残業すると、家が遠くなりますね」
H氏が、いうと、
「そうなの」
西田圭子は、笑った。
気が付いたら、かなり飲んでいた。
酔っている。
帰りましょうかと、店を出た。
「ちょっと酔ったかな」
と、H氏が言ったら、圭子も「わたしもです」と、言った。
H氏は、西田圭子と、肩を並べて歩いた。
女性と、こんな風に歩くのは、何年ぶりだろか。
酔っているせいか、気持ちが浮き立つ。
「終電まで、まだ少し、時間がありますね。せっかくだから少し遠回りしませんか」
西田圭子が、言った。
表通りから離れて、住宅街を歩いていた。
夜風が、酔いで火照った頬に心地よかった。
と、
「迷いました」
圭子が言った。
「えっ?」
H氏も、考えなく歩いていた。
少し考えて、
「線路脇にでて、それに沿って歩いたら駅に着くはずです」
H氏は、いった。
こっちかしらと、圭子が歩き始めた。
「こんなふうに道に迷うのも非日常で面白いですね」
H氏が、いった。
「わたしもです」
と、圭子は、明るく答えた。
少し行って、列車の線路が見えた。
「あっ」
H氏は、声が出そうになった。
その線路脇にラブホテルが建っていた。
酔いが醒めた。
弁解を頭の中で思い巡らせた。
初対面同然の女性とホテルなんて……。
気の付かないふりをして、通り過ぎるしか……。
眼が合った。
西田圭子は、コクリと頷いた。
浮気が、こんな簡単でたやすくて良いのだろうか。
H氏は、圭子の肩を抱いた。
浮気す ネプ ヒステリカ @hysterica
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