百合紋の拳銃

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百合紋の拳銃

 街の一角に少し寂れた道があった。

 その道は、昼間こそ賑わっているが、夜になると途端に人通りが少なくなる。

 街灯が点々と並び、その光が冷たいアスファルトに薄く広がっている。

 コンビニの看板照明がひときわ目立つが、その光も夜の闇に吸い込まれてしまうかのように、ぼんやりと輝いている。コンビニの明かりが漏れ出すガラス扉の向こうには、商品の棚が規則正しく並び、店員がカウンターでスマホを見つめている姿が見える。

 そのコンビニから一人の青年が値引きされた弁当の入った袋を手にして出てきた。

 身長は平均より少し高いぐらいで、体格的にも華奢な感じがしないでもない。

 顔はどちらかというと童顔で、まだ二十歳そこそこといったところだが、その瞳には常に微かな眠気が宿り、覇気のない表情が特徴的だ。

 髪は無造作に伸ばされ、風に吹かれるまま自然な形を保っており、どこか気だるげな印象を受ける。

 服装自体は黒のパンツと白のTシャツ、オーバーダイデニムジャケットを羽織っというシンプルな組み合わせなのだが、よく見るとところどころ皺や汚れがついていて清潔感がなかった。

 名前を加藤かとう真之まさゆきという。

 高校を卒業後、大学にも行かず、定職にも就いていない。

 親の資産であるボロマンションの名ばかり管理を任されているが、事実上一人暮らしをしているようなものだ。

 当然、毎月振り込まれる生活費はわずかであり、少ない金額でやりくりするには廃棄直前の値引き商品を買うしかない。

 そんな生活を続けていたらどうなるかなど火を見るよりも明らかだろう。

 しかし、真之は特に現状に不満を抱いていなかった。むしろ楽な暮らしだとさえ思っている節がある。

(このままいけば来月あたり餓死するかもな……)

 他人事のようにそう考えつつ、帰路につくべくジャケットの裾を揺らした。

 夜道を歩く真之の足音だけが響いていたが、そこに別の足音が加わったような気がした。

 気がした。

 ――ではない。

 実際に増えているのだ。

 しかも、確実にこちらに向かっている。

 最初は気のせいかと思ったが、徐々にはっきりと聞こえるようになり、それが複数の人間の足音が聞こえるものだと確信した。

 真之は立ち止まって耳を澄ませた。

 すると、後方から聞こえてくる足音が止まったかと思うと、今度は前方から数人の話し声が聞こえてきた。その声はだんだんと大きくなり、やがて前方に1つの人影が現れた。

 後方に2人。

 計3人。

 3人とも若い男のようだ。

 前方の1人は背が高く、細身で金髪。

 後方の2人は背が低く、どちらも茶髪だった。

 3人は真之の姿を見つけると、ニヤニヤ笑いながら近づいてきた。

 そして、前方の金髪が口を開いた。

 年齢は二十代前半といったところだろうか。髪を金色に染めており、耳にピアスをしている。顔立ちは整っている方だが、目つきが悪く、軽薄そうな雰囲気を漂わせていた。

 彼は馴れ馴れしい口調で話しかけてきた。

「よお、兄ちゃん」

 その言葉を聞いた瞬間、真之の表情が嫌悪感で歪んだ。

 真之は無視して立ち去ろうとしたが、後ろから肩を掴まれてしまった。

 振り返ると、3人のニヤついた顔が目に入り、思わず顔をしかめてしまう。

「俺に、お前のような弟なんていねえよ」

 真之が吐き捨てるように言うと、男は肩をすくめた。男達は彼の言葉を聞いても特に気にした様子もなく、むしろ面白そうに笑っていた。

「下手に出てりゃいい気になりやがって……」

 そう言って、男は懐から一丁の自動式拳銃オートマチックを取り出した。

 真之は一見してコルトM1903/32口径、8+1発ということを見抜く。撃鉄ハンマーは起きていない。

 金髪男は銃口をアスファルトに向けると、一発だけ撃った。

 乾いた銃声と共に空薬莢が飛び散り、地面に転がる音が響く。

 真之は驚く。

 目が大きく見開かれ、動揺を隠しきれない様子だった。

 そんな真之に金髪男は、せせら笑う。

「モデルガンじゃねえぞ。本物だ」

 金髪男がそう言うと、後ろにいた二人が調子づく。

「分かったら、財布ごと置いていけや!」

 2人がかりで凄まれ、真之は弁当の入った袋をその場に落とす。肩を震わせながら、ゆっくりと両手を肩の高さまで上げ、降参を意味するホールドアップの姿勢を取る。

「ご、ごめんなさい。命だけは助けてください……」

 恐怖のあまり震える声で懇願する真之に対し、金髪の男はますます愉快そうに笑い声を上げた。もう一人の男と相方の男はゲラゲラと笑うだけで何もしない。それどころか男達の視線はまるでショーでも見ているかのように興味津々といった様子だ。

 金髪男は、コルトM1903を片手で持ったまま真之に近づく。

 その中で、伏せがちな真之の目が細くなった。

 獲物を狙う猛禽類の鋭さ。

 刹那、金髪男は右手の人差し指がへし折れたかと思うと、コルトM1903は真之の手にあった。


 一瞬のことであった。


 真之が、あまりにも鮮やかな動きだった為、金髪男も何が起こったのか理解できていないころか、俯瞰ふかんしていた2人も何が起こったのか理解できなかった。

 真之はホールドアップしていた両手でコルトM1903を掴むと同時に遊底スライドを少し引かせる。自動式拳銃オートマチックの特徴として、こうすると薬室チャンバーに初弾が装填されていても発射不可能となる。

 更に銃口を上に向けることで発射されても射たれないようにする。

 真之は、コルトM1903を両手で握ったまま男の方に倒す。男が片手でコルトM1903を持っていたこともあって、あっさりと真之はコルトM1903を奪い取っていた。なお金髪男の指がへし折れたのは引き金トリガーに指をかけていた為だ。

 突きつけられた銃を、素早く奪い取る護身術・ディスアームであった。

 その速さはトップクラスとなると、0.08秒で行う。

 人間の瞬きは0.5秒で行われていることを鑑みれば、その速度の異様さが分かる。

 真之はコルトM1903を格好をつけた片手持ちはしない。両手でしっかりとホールドすると同時に、奪われなないよう肘を曲げて身に引き寄せ銃口を金髪男に向けた。

 真之の顔に先程までの穏やかさはない。目は鷹のように鋭く光り、口元は冷たく引き締まり、どんな動揺も微塵も見せない。表情はわずかな変化すら見せないが、その目に宿る冷徹で冷酷な光からは、尋常ではない緊張感と明確な敵意が滲み出ている。

 その視線を受けた者は、一瞬にして全身が硬直し、逃れようのない殺気を感じ取らずにはいられない。

「消えろ」

 冷たい一言は、真之だった。

 しかし、そこには有無を言わせぬ迫力があった。

 3人は顔を見合わせると、一目散に逃げだした。

「……ったく。クソガキ共が」

 3人を見送りつつ、内心ため息をつくと、改めて手にしたコルトM1903を眺める。

 外観からコルトM1903と思ったが、遊底スライドに刻印が入っていなかった。

 正規品でない証拠だ。


 ◆


 湖の水面は静かに波打っていた。

 微かに湖面に映る日の光が揺らめき、幻想的な光景を生み出していた。

 ここは森の奥にある小さな湖畔で、周囲に人の気配はなく静謐な雰囲気に包まれている。

 風が吹く度に木々の葉擦れの音が心地よく響き渡り、鳥のさえずりが耳に心地よい音楽を奏でていた。時折、遠くの方から獣の遠吠えのようなものが聞こえてくるが、それもまたこの森の静寂さを演出しているように思えた。

 湖畔にはボートハウスがあり、ボート遊びを楽しむ恋人同士や家族連れなどが訪れている。中にはカヌーを楽しんでいるグループもいた。彼らはみな笑顔で楽しげに声を上げながら、思い思いの方向に漕いでいた。

 そんな平和な風景の中、一人の女がベンチに腰掛けていた。

 黒いチュールワンピースに、黒のブラウスを羽織り、肩にはストールを掛けていた。

 足元は白のサンダルを履いており、首元からはネックレスが覗いている。

 髪は長く、艶やかな黒い髪を腰まで伸ばしている。

 そして、彼女はどこか浮世離れしたような雰囲気があった。

 整った顔立ちをしており、目鼻立ちがくっきりとしている。

 まるで人形のような印象を受ける女だ。

 名前を月宮つきみや七海ななみという。

 七海は、ボート遊びをする恋人同士を眺めては、少し不機嫌でいた。

 だが、拗ねた様な、その姿も美しくもあり可愛らしくもあったのだが、同時に儚げでもあった。今にも消えてなくなりそうな危うさと美しさを兼ね備えていた。

 そんな彼女の目の前に一人の男が現れた。

 加藤真之だ。

「待たせたな。月宮さん」

 七海は手首の時計を眺めた。

「時間通りね。自宅警備員にしては良い心がけだわ」

 真之は少しムッとした表情をするが、特に反論はしなかった。

 事実だからだ。

「それで。こんな所に呼び出して何の用? 会うだけなら街中のカフェの方が良かったんじゃない?」

 七海はそう言ってため息をついた。

「人前で堂々と出せる物じゃなくてね。見て欲しい拳銃がある」

 真之は立ったまま、懐からコルトM1903を取り出す。あの夜に手に入れたものだ。彼は続けて説明し、七海に手渡す。

「弾は抜いてある」

 七海はコルトM1903を受け取ると、慣れた手つきで弾倉マガジンを抜き取り弾が入っていないことを確認。遊底スライドを引いて薬室チャンバーに初弾が装填されていないことを確認した。

 七海は拳銃を眺める。

「刻印がないことから密造拳銃ね。……でも、塗装や作りが良いわ」

 七海は感想を漏らす。

「俺は先日、そいつでチンピラに狙われて驚いたものだ」

 真之の言葉に、七海は笑う。

「元少年兵の自宅警備員とは思えない言葉ね」

 そう言ってクスクスと笑う七海に、真之は真顔で答える。

「俺が驚いたのは、拳銃で狙われたからじゃない。そいつはコルトM1903の外観をしながら、作動方式がシングルアクションから、素人でも扱いやすいダブルアクションに改造されていることだ」

 あの夜。

 真之は金髪男が持っていた拳銃を、コルトM1903と踏んでおり撃鉄ハンマーが落ちたままでいたことから脅威に思わなかった。

 なぜなら、作動方式がシングルアクションの自動式拳銃オートマチックの場合、薬室チェンバーに初弾が装填されていても撃鉄ハンマーが起きていなければ引き金トリガーを引いても発射されないからだ。

 アメリカ軍の制式拳銃として第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争で用いられたアメリカのコルト社製造のコルトガバメントM1911は、1911年の制式採用から1985年までの長期間用いられたが、以降イタリアのベレッタ社が製造したベレッタM92に変わったのは、ベレッタM92の作動方式がダブルアクションだったことも理由の一つという。

「なるほど。別の意味での改造拳銃ね」

 納得いったように頷く七海に対して、真之はさらに付け加える。

「家で分解したんだが、その時に妙なものをみつた」

 真之は七海の手からコルトM1903を預かると、遊底スライドを分解して、遊底スライドの内側を見せた。

「これがどうしたの?」

 七海の問いに、真之は答えた。

「よく見てくれ。ユリの花の様なマークが付いているだろう」

 七海が目を凝らして、遊底スライドの内側を見ると確かに小さなユリのような紋があった。

 真之の意図を七海は読み取った。

「この紋について調べればいいのね」

 真之は静かに頷いた。


 ◆


 店内には静寂が支配していたが、工具が金属に触れる微かな音が響いていた。

 陽の光が柔らかく店の窓から差し込み、細かい埃の粒子が静かに舞う中、彼の手元に光を当てていた。

 周囲には様々な宝石や工具が整然と並べられ、店内はまるで宝石の博物館のような雰囲気を醸し出している。

 一人の男が黙々と作業に没頭している。

 年齢は50代半ばだろうか。

 白髪交じりの頭に、口周りに整えられた髭が生えている。鋭い眼光と目元には皺が刻まれており、どこか厳格そうな印象を受ける男だった。

 名前を西田修一しゅういちという。

 修一は慎重に彫刻刀を銀に当て、一つ一つの細かな模様を丁寧に刻み込んでいく。銀の表面に微細な花びらが浮かび上がり、それが百合の形を成していく。

 修一の手つきは確固たるものではあるが、その動きにはまるで芸術家が筆を運ぶかのような優雅さがあった。

 柔らかい布で優しく磨く。

 銀の表面が輝きを増し、まるで湖面に浮かぶ白い花のように美しく輝いた。修一はその出来栄えに満足すると、ゆっくりと息を吐き出す。

 その時だった。

 カランコロンとドアベルが鳴り響き、店の入り口から一人の青年が入ってくるのが見えた。

 オーバーダイデニムジャケットを羽織った青年だ。

 修一はメガネを外し訪ねた。

「どちら様ですか?」

 問いかけると青年は、懐から一丁の自動式拳銃オートマチックを取り出して、修一の前に置いた。

「これを作ったのはアンタだな。西田修一さん」

 その言葉に修一は反応しつつ、青年の姿を見た。

 言ってきたのは20歳前後の若者だった。

 黒髪を短く刈り込んでおり、目つきが悪いのが特徴的だった。服装こそラフだが鍛え抜かれた肉体をしており、隙の無い立ち振る舞いをしていた。

 そんな男に対して、修一は特に驚くことなく口を開いた。

「……アンタ。警察じゃないな」

 そう答えると、青年・加藤真之はニヤリと笑って見せた。

 その表情からは余裕さえ感じられた。

 おそらくこの男は警官ではないのだろう。修一はそう確信する。警察官であればこんな舐めた態度は取らないはずだからだ。

 それにこの男から漂う雰囲気が、ただの一般人とは思えなかった。

 彼は何者なのか。

 修一が考えている間にも、真之は話を続ける。

「3年前までアメリカ、カルフォルニア州にてガンスミス(銃職人)として活動してたみたいだな」

 真之の言葉に、修一は驚きの表情を見せる。

 真之はさらに続ける。

「先日、俺はその銃を持ったチンピラに襲われた。密造拳銃だと分かったが、デッドコピーにしては妙に高性能で、改造が施されているみたいだったんで、色々と調べてようやくたどり着いたって訳だ。どうしてアメリカの店で使っていた百合紋を遊底スライドに彫り込んだんだ」

 真之の問いかけに、修一は沈黙を貫くしかなかった。

 しばらく時間が経過するが、やがて修一は大きく息を吐き出し、観念したように口を開く。

「……ワシを殺して欲しかったからだ」

 その口元に笑みがこぼれ、ポツリと呟くように言った。

 その呟きに、真之は眉をひそめた。

 殺して欲しい? 予想外の答えに戸惑う真之に、修一はさらに語る。

 それは懺悔に近い言葉だった。

 西田修一はガンスミスとして活躍をしていた。

 しかし、ある日突然、自宅の家宅捜査が行われたのだ。

 そして見つかったのは彼の工房で作り出された銃器の修理記録や交換した部品であり、それらは全て押収されたのだ。

 警察の事情聴取によって修一は事件を知る。

 それは、自分が整備した銃が無差別乱射事件の犯人に使われたことだった。女性や子供を含む7人もの死者が出した事件である。

 犯人は自殺し事件は終わったが、修一は罪の積年に苛まれた。

 以後、ガンスミスとしての活動を止め、金属細工を行う彫金師となって日本で細々と生活していたのだった。

「ワシはもう二度と銃の整備などせん。そう誓った」

 修一は涙を流しながら、震える声で語った。

 その手は、かつてのガンスミスとしての技術を活かし、細かい金属細工を行っている。彼の目は疲れと苦悩の色を帯びており、深い皺がその顔に刻まれている。銀色の髪は年齢と共に白くなり、その一筋一筋が彼の過去の重荷を物語っている。

 その心には、かつての惨劇が鮮明に残っていた。

「だが、ワシのガンスミスの腕を狙って拳銃の密造を強要する連中が現れた。奴らは、それを売りさばくのが目的だ」

 修一は悔しがる。

 それを聞いて真之の中に疑問が生じる。

「なぜ、組織に監禁されなかったのですか?」

 問いに修一は苦々しく笑う。

「それは、ワシが名うての彫金師だからだ。こう見えて宮中晩餐会に出席する方々から仕事を請け負っておっての、行方不明となれば世間が騒ぐことになる。だから連中は、ワシを野放しにしつつ管理下に置かれている」

 真之は理由を察した。

「……家族を人質に取られているということか」

 その言葉に、修一の表情が一変する。

 目を見開き、信じられないといった表情になる。

「……娘が捕まっておる。だが、ワシには助け出せん。だから、ワシはワシに辿り着くようにしたんだ。ワシが捕まるなり殺されれば、利用価値が無くなって娘は開放れるハズだ」

 苦しい胸の内を修一は述べた。

 それに対し、真之は無表情のまま聞いていた。

「俺は、そうは思わない。若い娘ならなおさらです」

 その言葉に、修一の顔が歪み、机を叩く。

「なら、どうしたらいいんだ……」

 怒りをぶつけるように叫ぶ修一に対し、真之は冷静なまま淡々と答える。それが彼にとって最善策だったからだ。

「俺が助けに行きます」

 その言葉に、修一は一瞬呆けたように固まる。

 修一の表情の変化を見て、真之は小さく告げた。

 ゆっくりと口を開く。

「俺は元少年兵だ」

 それは、とても静かな声だったが、真之の人生の過酷さを表していた。


 ◆


 廃工場。

 薄暗い部屋の中で、一人の女性が地べたに座り込んでいた。

 床の上には毛布が敷かれているのみで、他には何もない部屋だった。

 女性は薄汚れた服を着ており、髪も手入れされていない様子だった。目の下には大きな隈があり、顔色も悪くやつれているように見えた。

 名前を西田沙和さわという。年齢は19歳。

「お父さん……」

 沙和は、かすかに呟いた。

 その声は震えていて、まるで自分自身を励ますための祈りのようだった。彼女の心には恐怖と希望が交錯していた。希望は小さな光のように心の奥底で輝いていたが、恐怖がそれを覆い隠そうとしていた。

 突然、ドアの外で足音が聞こえた。

 沙和の体は反射的に硬直し、目を見開いた。

 足音はゆっくりと近づいてくる。その音がますます大きくなるにつれて、彼女の心臓は激しく鼓動し始めた。彼女は息を飲み、全身が緊張で固まった。

 ドアが軋む音と共に開き、薄暗い廊下から一筋の光が差し込んだ。

 沙和はその光の中に立つ影を見て、息を飲んだ。

 男はズボンのジッパーを全開にしていたからだ。

 嫌悪感が全身を支配し、吐き気すら覚えた。

 沙和は立ち上がって、後退る。

 そんな中でも男の手は容赦なく伸びてきて、沙和に声をかける。

「よう。あんたが……」

 男が言葉を発し終わる前に、沙和は男の股間を蹴り上げた。

 沙和の予期せぬ行動に男は一発で悶絶して倒れ込み、苦しみもがくが悶絶していないことから、クリーンヒットはしていなかったようだ。

「私に触らないで、この変態!」

 沙和はそう言うと、男は股間を押さえたまま立ち上がって文句を言う。

「何しやがる、この女。せっかく助けに来たのによお」

 男の言葉に、沙和は眉をひそめて反論する。

「助けに?」

 訝しげな表情を浮かべる沙和に対して、男は大きく頷いた。その表情には自信に満ち溢れており、彼が本気であることを告げていた。

「俺は、加藤真之。手っ取り早く言うと、西田修一の知り合いで、人質に取られた娘の沙和さんを助けに来たんだよ」

 真之の言葉に、沙和はさらに困惑した表情を浮かべた。

「酷いのはどっちよ! レディの前にチャック全開で迫って来られたら変態と思うのが当然でしょ!」

 その言葉に、真之は自分のズボンを見て慌ててジッパーを上げた。

「……しまった。ここに侵入する前に立ちションしたんだった」

 反省の色もなく言う真之に対し、沙和は真之のデリカシーの無さに呆れ果て、溜息をつくしかなかった。

「とにかく、ここから出よう」

 真之が不意にドアを開けた瞬間、激しい銃撃音が響いた。銃声と共にドアが激しく揺れ動き、火花が散るのが見えた。

 真之は慌ててドアの陰に隠れていた。

「……クソ。バレたか」

 苦々しげに呟く真之に対し、沙和が呆れる。

「あんなに騒げばバカでも気づくわ。どうするのよ、相手は拳銃を持ってるのよ」

 沙和の心配を他所に、真之はショルダーホルスターからH&K HK45/45口径、装弾数10+1発を抜いた。ドイツ、Hヘッケラー&Kコッホ社が2006年に開発した自動式拳銃オートマチックだ。

「本物!?」

 沙和の問いに、真之は安全装置セイフティを解除して応えた。

「俺が片付ける。お前は、ここを動くな」

 銃撃が終息していくと、真之はドアの隙間越しに威嚇射撃を二発行った。

 これは侵入者である真之が銃器を持っていることを敵に教えると共に、敵に反撃射撃を誘発させるのが目的だ。

 敵が持っている銃器は密造されたコルトM1903。

 口径は32口径。装弾数 8+1発。

 撃ちまくれば、すぐに弾が切れる。

 射撃音が少なくなる。

 それから真之は、床を叩く金属音を聞く。

 何人かが、弾倉マガジンを床に落とし、弾倉交換マグチェンジを行っている証拠だ。

 廃工場内は、一階フロアに廃棄された機材があり、二階にキャットウォークがある広い構造になっていた。

 敵の人数は、侵入時に8人であると確認している。

 火線と跳弾が飛び交う中、真之は小部屋から工場内に飛び出す。

 視線を走らせ、敵の位置を確認する。

 まずはキャットウォークに居る4人を最初の標的にした。

 コルトM1903を構えていた男の発砲に対し、真之も応射を行う。

 男はボディブローを食らったように崩れた。

 通称、《牛殺し》とも称される45口径は、身体のどこにヒットしてもハンマーで殴られたようになる。どんな巨体でも一発で戦闘不能にする威力がある。

 その威力を、男は腹部に受けたのだ。

 1人目。

 真之は脚だけでなく肩甲骨を切るようにして、遮蔽物に身を隠す。

 標的を切り替え、もう一人にも腹に銃弾を叩き込む。

 2人目。

 更に切り替えた標的を射つ。

 手すりに当たり火花が散る。

 そこで、もう一発射つと、胸にヒットし、そいつはキャットウォークから落下した。

 3人目。

 真之は機材の陰にしゃがみ込み隠れる。

 FPSファーストパーソン・シューティングゲームのようにヘッドショットは狙わない。頭部は人体における占有率は5%に満たない。対して胴体は23%もあり、遥かに射ちやすいからだ。加えて45口径という大口径を腹に叩き込めば、即死させられなくとも確実に戦闘不能にできる。

 弾倉交換マグチェンジを終えた敵が射ち始める。

 銃声が響く中、真之は冷静に動き、的確に反撃のタイミングを計った。

「どこだ、出てこい!」

 二階のキャットウォークに居た敵の一人が叫び周囲を見回す。

 真之を見失ったのだ。

 叫んで自分の位置を知らせるなど、バカの極地だ。

 お望み通り、真之は出てやると、そいつの腹を射ち抜く。

 45口径が肉を貫く音が響いた。

 これで、二階に居た敵を排除した。

 4人目。

 真之は自問しながら、次の敵の位置を探った。彼の鋭い目は、わずかな動きも見逃さず、敵の位置を正確に把握していた。

 手近に転がっていたパイプの切れ端を手にすると、反対方向に投げてワザと物音を立てる。

 金属が床に響く音が倉庫内に反響し、瞬時に敵の視線と銃口がその方向に向けられた。

「そっちだ!」

 一人の敵が叫び、そちらに火線が集中する。

 その瞬間を逃さず、真之は隠れていた場所から飛び出し、素早くターゲットに狙いを定めた。H&K HK45の銃口から閃光が走り、弾丸が空気を裂く。

 男の胸部に弾丸が突き刺さり、後ろに吹き飛ばされた。

 5人目。

 続いて、もう一人の敵が銃を構えて振り向いたが、その動きは遅すぎた。

 真之の弾丸が男の鳩尾に命中し崩れ落ちる。

 6人目。

 残る二人は混乱の中で互いに視線を交わしながら、慎重に動こうとした。

 しかし、真之は既にその動きを予測していた。彼は陰から身を乗り出し、一人目の肝臓を狙い射つ。

 人体最大の臓器が、銃弾のキネティックエナジー(運動エネルギー)が開放され破裂する。

 7人目。

 そこで真之はH&K HK45の排莢孔エジェクション・ポート空薬莢エンプティケースが噛み込んだことに気づく。

 ジャムと呼ばれる銃の動作不良だ。

 原因として、弾薬不良、薬室チャンバーの汚れによる抵抗、エキストラクター不良、エジェクター不良などが考えられる。真之は、個人でH&K HK45の分解清掃とメンテナンスを行っていたが、専門家ではない故に付け焼き刃では限界があったようだ。

(チッ)

 胸の内で自分に舌打ちしながらも、移動すると倒した敵が使っていたコルトM1903を拾い上げると、宙に浮かせ右片手で空中キャッチ。遊底スライドを少し引いて薬室確認チャンバーチェックを行い初弾が装填されているかを確認しつつ、左手では弾倉マガジンを抜いて、2発残っているのを確認する。

 計3発だ。

 銃把弾倉グリップマガジン部に弾倉マガジンを叩き込んで、弾倉止めマガジンキャッチが噛み合う音を確認した瞬間、沙和が叫ぶ。

「後ろよ!」

 その声に、真之は反射的にコルトM1903を向ける。

 男も同時にコルトM1903を向けてきた。

 互いの視線が交錯する中、引き金トリガーを引く指に力が籠もっていく。

 火線が交差。

 真之は、男の右胸、左胸、頭へと次々と射撃を行った。45口径の様な威力を期待できない、低威力の32口径をカバーする為だった。

 トライアングル射撃ショット

 相手の右胸を射って動きを封じ、続いて左胸の急所を射つ。

 そして、頭部で止めを刺す射撃法だ。

 男は倒れ込み、動かなくなった。

 即死だ。

 8人目。

 全弾を射ち尽くし、遊底スライドが後退停止したコルトM1903の銃口から立ち上る青い硝煙を真之は静かに見つめ、ゆっくりと息を吐いた。

 雷管に使われているジアゾジニトロフェノールの香りが、まだ空気に漂っていた。

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