天袋
祐里
『山中温泉へ行ってきました!』
宿泊中の温泉宿の部屋に、フロントから内線電話がかかってきた。
『大橋様、田中様とおっしゃる方からお電話なのですが、お部屋番号はおわかりにならないようで、大橋様に繋いでくれとだけ告げられて……。お繋ぎしてもよろしいでしょうか』
「あ、はい、繋いでください」
『かしこまりました。ではどうぞ』
「……もしもし?」
『きっ、きみ、誰と一緒にいるんだ……! スマホの電源切ってるのか!』
「一人だけど。前にあなたがいい温泉宿だって教えてくれたから来たのよ」
電話口の向こうで男の声が上ずっているのが楽しくて、あたしはいつもより明るく言う。
『そ、それは……』
「先月、家族で来たのよね? お土産配ったんでしょう? うちの部署にも届いたの。一個だけ、あたし宛に」
『一個だけ、って……』
あなたがどうして言い淀むのかわからない。あたしが何も知らないとでも思っているのかしら。
「新しく入った派遣の事務の子」
『……えっ?』
「あたしのこと話したの?」
『あ、ああ、話したかもしれない……きみは優秀だから』
「ふぅん、そう。だから当てつけにお土産持ってきたんだ。わざわざ『山中温泉へ行ってきました!』なんて印字されたパッケージの。……ねえ、あの子、あなたが既婚者だって知らないわよね」
しゃべってもいないのに、ふー、ふー、と聞こえる息遣いが鬱陶しい。
「なんて言ってお土産配らせたの? 温泉行くのが趣味なんだけど付き合ってくれる友達も彼女もいないんだ、寂しいだろ、これよろしくって言った?」
『……何で、そ、んなこと、まで……』
あたしは電話口で笑う。おもしろくて仕方がない。
「ちょっと考えればすぐにわかるわよ。ああいう清純そうな見た目の子、あなた好きでしょう?」
あはは、と高らかな嘲笑を一気に浴びせると、あなたはまた息遣いだけを聞かせてくる。このおかしな電話、もうやめたい。気持ち悪くて仕方ない。
「あたし、もうこういうのうんざりなの。別れて」
『えっ、いや、ちょ……、ま、待ってくれ、俺もそっちに行く』
「もう夕方よ? それに、あたしが素直に待つとは限らないけど」
『今すぐに出れば、三時間で着くから』
「奥さんと子供は放っておいていいの?」
『いいんだ、問題ない』
「……あっそ。なら来れば? あ、そうだ、風呂桶持ってきてくれる?」
『風呂桶?』
「この部屋、お風呂が付いているのに風呂桶がないの。フロントに電話するのも面倒で」
『わかった、持っていくから、今すぐ出るから、だから頼む』
「んー……、ま、いいわ。待っててあげる、田中さんのこと」
『……やめてくれよ、そんな言い方……。いつものように
「ふふっ。慎也さん、愛してるわ」
『俺も、愛してるよ。待っててくれ、
自分の名を呼ぶ男は、やはり鬱陶しかった。でもそれを隠して「寂しいから早く来てね。お願い」なんて心にもないことをかわいらしく言ってのける。
電話を切って外を見ると、もう夕方の鮮やかな紫がかった紅色があたしの目に飛び込んできた。
あたしは今日、そんな鬱陶しい男に抱かれる。拒否なんてしない。きっと自分から湯上がりの肌を露わにして誘うだろう。長い髪はわざとゆるく上げておいて。でも、交わるのは一回だけと決めている。風呂桶へのご褒美は少し足りないと思わせるくらいがちょうどいいから。
「
たかが三歳年下というだけで、勝ち誇ったように「どうぞ」とお土産を手渡してきたバカな女の、ナチュラルメイクという名の厚化粧が目に浮かぶ。最初から負け犬だなんて、全然わかっていない。滑稽にもほどがある。
「……ふふっ。おもしろいわ」
あたしも『山中温泉へ行ってきました!』というパッケージのクッキーを買って帰ろう。バカ女はまるで一緒に行ったかのように振る舞いたかったのだろうけど、あたしの場合は本当に一緒だったんだから。
「奥さんにはどうしようかなぁ」
考えるだけで楽しいけれど、本当はもっといい男に鞍替えしてもいいのかもしれない。ちょっと別部署の男に当たりをつけてみようかな、なんて思いながら、あたしは部屋付き露天風呂の風呂桶をそっとテレビの上の天袋に隠した。
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