最終話 少年の行く末

 時の流れに苦しむ、一人の少年がいた。


 高々と連なる集合住宅の一室で、まるで猫のようにベッドの上で身を丸め、己の胸に手を当てながら鼓動の音に、耳を欹てていた。


 静寂極まる自室でも、ほんの小さな雑音が行き交い、少年の耳に煩わしく響いていた。


 段々と眉間に皺を寄っていき、次第に頬に強張りが生まれていく。


 そして、遂に耳に枕を覆い被せて、力一杯に瞼を閉ざしたまま、眠りについてしまった。


 少年の日々の生活には、常に無機物なる存在が胸に纏わりついて離れずいて、ふと、心が平常心から外れてしまうと、唐突に心臓が騒がしくなっていってしまう。


 夢の中でさえも、見せてくれる光景は、現実の延長線上に過ぎず、いつものように、冷や汗を滲ませて目を覚ますと……。


 小鳥の囀りと水縹なる空色が迎える筈の夜明けには、その涼しげな色合いを失い、まるで灰色に覆い尽くされたかのようであった。


 けれど、少年にとって唯一、絢爛な色を付けて、心の安らぎとなっていたものがあった。


 それは、父からのたった一つの贈り物。


 カチカチカチ。と、無機質に淡々と時を数えていくだけの存在が、自身の胸に強く押し当てている時だけ、全ての事を忘れられていたからに他ならない。


 闇夜を恐れて目を瞑り、夜明けに震えて、現実から目を逸らし続けている。


 少年はそんないつ何時に心が壊れてしまうかもしれない、真っ白な日々を送っていた。


 そして、またいつものように日常を繰り返すのだと、徐にベットから立ち上がった瞬間、体が大袈裟な音を立てて床に臥した。


 不意に、唐突に、己の意識とは乖離して。


 ただ、部屋に行き交う雑音と、爆ぜるのではないかと思うほどの鼓動と、慌ただしく近づいてくる足音だけが鮮明に聞こえていた。


 次第に視界が闇に覆い尽くされてゆき、次に目が覚めたのは、見知らぬ天井であった。


 傍には物憂げな顔を浮かべた父が居座り、視界の端では、小鳥たちが小さき翼を羽撃かせ、天高く飛び立っていく姿が映っていた。


 分かっていた。分かっていたことなのに、理不尽なる死の宣告に一寸先の道行きでさえ迷ってしまいそうになっていた。


 しかも、募りに募った感情を爆発させんと居間に歩みを進めていけば、父が己よりも先に、テーブルに突っ伏し、泣き頻っていた。


 ……。


 そのせいで感傷にも浸れずに、渋々、真っ暗闇に覆い隠された自室の枕に顔を埋めた。


 父の嘆きに心が満たされたのだろうか。いや、きっと違う。多分、実感がなかったんだ。


 ただ、朦朧としたこの現状に。


 自分の思い出のアルバムの中には、母の記憶が全くとしてなかった。母と同じ病に罹るくらいには繋がり深いのにも関わらず、声はおろか、顔の一パーツでさえも覚えていない。


 目を瞑った先でも明瞭に頭に浮かぶのは、黄金色を帯びていて、僅かなサビでさえも、綺麗な色彩の懐中時計だけであった。


 不思議と頬にとめどなく雫が伝っていき、枕を濡らし続け、寝苦しい夜に陥れていた。

 

 願わくば、明日が来ないで欲しいと、心の底から強く祈って、懐中時計を握りしめる。


 けれど、無情に時は進みゆく。


 今の俺に掛け替えのない存在がそうであるように、明日はいずれ訪れてしまうだろう。


 胸のざわめきが疲労に伝播したのか、定かではないが、意識が途切れていくのに、そう時間は掛からなかった。




 寡黙で厳かな面持ちを常に浮かべていた父は、純白にして空虚なケーキの上に立てられた、幾つもの揺蕩う炎を前に、悶々とする。


 まるで、正しさを追い求める主人公のように、自らの二者択一に狐疑逡巡としていた。


 蝋燭に灯された僅かな焔でさえも、その姿が明瞭に浮かび上がり、小さな箱を差し出したり、退かせたりの往来を繰り返していた。


 結局、泥濘に嵌ったかのような歪な笑みで、小さな一つの箱を渡してくれた。


 包み紙を破らぬように丁寧に剥がし、徐に中身を開けば、其処には懐中時計があった。


 死に際に立たされたかのような、古びているのに、何処か真新しさを感じさせる時計。


 父の優しさに溢れた指導の下に、リューズを何度も巻いていると、落とせば失うような小さき針が強かに歩みを進めていった。


 その姿に息をするのさえ忘れしまい、目を奪われてしまう。


 流れるように胸に押し当てれば、さながら己の心臓に成り変わったかの如く、無機質に淡々とした鼓動が響いていた。


 ……。


 雑音のしない、芯のある鼓動の音がする。


 一歩ずつ踏み締めていくような音色を奏でていく内に、瞬く間に光景が移ろっていく。


 パッと目を見開いて、見慣れた天井が出迎えるとともに、身体中に煩わしいほどに響き渡る音が、俺を武者震いへと誘っていた。


 いや、喜びに打ち震えていた。


 胸の高鳴りが次第に頬を緩ませて、苦笑混じりの感銘のお陰で突然と絶倒に襲われた。


 なのに、まだ大粒の涙が止まらなくって、色んな膨らむ感情が脳裏を錯綜としていく。


 父のドタドタとした足音が次第に近づいてゆき、緩やかに扉に目を向ければ、憔悴した顔つきで思春期の息子の部屋に許可もなく、上がり込んできた。


 そして、焦点の定まらぬ双眸は部屋中を駆け巡っていき、床に蹲った俺に向けられる。


 抱きしめる寸前にまで戦慄く父を止めんと、一心不乱に空いた左手を差し伸ばした。


 それからの今日という日に、おかしくなるくらいの数多の感情が狂喜乱舞し、街には雑多な色が溢れかえり、目を痛めるほどの絢爛豪華な彩りが広がっていた。


 今日あった全ての事が喜びに満ちたまま、暖かなベットに眠りにつく。


 けれど、その日、俺は思い知った。


 理想とはオセロのように現実と繋がって、決して切り離すことができないのだと。


 同じようでいて少し違う夜明けに、目を覚ますが……。


 窓辺に囀る小鳥たちが、自動車の行き来が、子供達のあどけない喧騒が飛び交う。


 いつもと変わらぬ音に、感触に、光景に、漠然とした恐怖が頻りに襲った。


 その靄の掛かる現状を打破し、俺を深い暗闇に突き落としたのは、父の一声であった。


「大丈夫か?」


 まるで3歩進めば忘れてしまう鶏のように、昨日の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。


「は?」


 己の心臓に成り変わったかの如く存在が、今も重鎮の立ち振る舞いで、鼓動を秒針を淡々としながらも、しっかりと進めていた。


 けれど、もう時は進みはしない。


 何日も何十日も、決して、記憶の片隅に留まり続けるであろう一日を繰り返していた。


 駆け巡っていく感情に何度となく踊らされ、父が慌ただしく迫って来る様を傍観し、外を眺めながら、たわいもないことで父と笑い合って、食べる朝食に舌鼓を打つ所まで、その寸前の一秒一秒が、瞬く間に蘇っていた。


 そして、惰性のままに繰り返しが百を超えたとき、もはや俺は、異なる形で今日という日を楽しんでいた。


 父の言動を逐一報告したり、他の生徒の気持ちを見抜くフリや、雨の降る瞬間を当てる。


 そんなことを何度も、何度も何度も何度も記憶に留められぬほどに只管に繰り返した。


 そんな憂鬱とした日を告げんと、周りの人や父なんかに語り掛けたが、まるで痛いげな仔猫を憐れむ姿に、喉まで出掛かった問いを、悔いる事なく胃に流し込んでしまった。


 ぼーっと見飽きた並木道を進んでいく。


 ふと、瞬きを忘れてしまった視界の端で捉えたのは、冬の影が薄らと残った桜の木。


 まだ、いや、もう時期、咲くであろう桜が、いつ散るやも知れぬのに、蕾が開花の時を静かに待ち侘びている姿だった。


 ずっと眠っていれば、いつまでもその美しさを秘めたままでいられるのに、むざむざと地に臥すような真似をするのだろうか。


 俺には分からない。昨日も今日も。

 きっと決して来ない明日でさえも。


 そう思っていたのに、異変は唐突に……。


 訪れてしまう。


 チカチカと目に悪く点滅する蛍光灯の下で食卓を囲い、カチャカチャと食器の擦れ合う小さな音ばかりが響き渡っている。


 目を泳がせる父と度々視線がぶつかるが、交わす言葉はなく、妙な間が続くばかり。


 そして、その重苦しき沈黙を破ったのは、懐に仕舞い込んでいた懐中時計が、ほんの小さな音を立てて、テーブルに臥した瞬間であった。


 父に視線を向けるまでもなく明確に、俺たちの視線はその一つの時計に注がれていた。


 静寂。


 怒号を飛ばす訳でも、掌で顔を覆う事もせずに、ただ、茶碗に箸を置き、目を向けた。


 僅かな澱みさえも見せぬ真剣な眼差しで、睨み付けず、触れ過ぎずに、俺の眼を見る。


「約束して欲しいんだ」


「な、何を?」


 恐る恐る、訊ねる。


「どっちかが本当に苦しくなったときは――――」


 精一杯相手を抱きしめて、嫌がられても、本音を吐き出すまで、ずっと傍にいること。


 身勝手な言葉を並べ立てる様に、今までにない程に憤りを露わにしながらも、尚沈黙。


 俺がこの時計に込めたのは、そんな邪な考えじゃない。ただ、羨ましかったから。


 この懐中時計の針が、あの桜の木の蕾が、惜しみなく過ぎてゆく日々が、ただ只管に。


 きっと、それだけに過ぎないんだ。


 だから、今度は俺の心が満足するまで、延々と、何十年も、何百年も、ずっと……。





 もし、もしも、仮にそんな日に、一日に、俺が飽きてしまったら、その時は、あの桜を最期を父さんが嫌と言うまで存分に見てやろう。


 寂しげな片手とともに。

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