第七話 未来への期待

 身体中に痛みを走らせるほど、大粒の雫が絶え間なく降り頻って、もう陽が隠れた大空にも関わらず、視界は雷光によって、真昼時のような明るさで満たされていた。


 けれど、その輝きは瞬く間に失われ、元のさながら暗雲立ち込めた景色へと戻っていく。


 俺はそれを、ただ茫然と立ち尽くして見上げていた。


「大丈夫ですか?」


「……?」


 煩わしい雨音とともに全身を濡らした大雨を、一人の少女が眼前に傘を翳して凌がせた。


 大柄な俺に合わせんと背伸びをしながら、必死に頭上に手を伸ばして身をすり寄せる。


「あっ、あの! なるべく早めに、でないと、転けちゃいますのでっ‼︎」


「ぁぁ、ごめん。…………ありがとう」


 バス停前のベンチに腰を下ろして、懐に仕舞い込んだ手拭いを躊躇いなく差し出した。


「どうぞ!」


 半袖から華奢で小麦色の肌を晒して、中学生らしき少女は外の様子を眺めていた。


「ありがとう。でも、自分に使っていいよ。俺はどうせ、風邪なんて引かないから」


 そうだ。恵まれた環境に育ったから、心身共に簡単に壊れたりはしない。どれだけ叩いても、殴っても。


「優しいね、君は」


「いいえ! 当然の事ですから!」


 その言葉とは裏腹に、したりげな表情を浮かべながら、えっへんと言わんばかりに胸を張った。


「中学生?」


「はい、中学三年生です! でも、来年から、待ちに待った高校ライフ‼︎」


「そっか、それは良かったね」


 来るはずもない明日未来に、目を眩くほどに輝かせ、淡い期待を胸に抱いていた。


「お兄さんは……」


「高校3年だよ」


「じゃあ、来年から大学生なんですね! もしかして一人暮らしとかしちゃうんですか?」


「かも知れないね」


「えぇ、良いなぁ。私の親って未だに門限だとか、勉強勉強ってうるさくって……もうホントにヤになりそうです」


「言ってくれる内が花だよ。気に掛けてくれているのは、君の事を大切に思っているから……」


「そうなんですかねー。私って恵まれてる?」


「でも、まだ夏なのに、少し気が早いね」


「何せ、夏休みですから。皆んなと会えなくって、色々と考えさせられまして、ははは」


 ……。


「まだ止みそうに無いですね」


「そうだね」


 徐に一瞥する。


「いきなり初対面でこんな事を訊くのは、凄くおかしな話なんだけど……」


「……?」


 不思議そうに小首を傾げる。


「もし、君が病気で来年には死んでしまうかもしれないって分かっていて、そんなことに絶望していると、突然毎日を何度も繰り返せるようになったら、どうする?」


「そうですねぇ、私はそれでもきっと、明日に行きたいと思うんじゃないですかね」


「死ぬかもしれないのに?」


「はい」


「どうして?」


「死ぬのはやっぱり怖いですけど、でも、おんなじ時間を何度も繰り返していると、いつか、自分自身を見失っていくような気がして……な、なーんて」


 両手を重ね合わせて、少し照れくさそうに彼女はそう言った。


「それが大切な誰かでも」


「え?」


「それが掛け替えの無い人だったとしても、君は同じ事が言える?」


「その人の願うままにしますかね。私って、優柔不断で即決できませんから、あはは」


「ごめんね、変なことを訊ねてしまって」


「いえいえ、むしろ気が紛れて助かりました!」


「俺は先に行くね。君も気をつけて」


 そう言い放って、徐に立ち上がった。


「あの! 濡れちゃいますよ!」


 慌ただしく制止する彼女を尻目に、天を仰ぐ。灰色の大雲の中を、稲光が颯と駆け抜けていく。


「大丈夫だよ。どうせ俺は、風邪なんて引かないんだから」


 爪を立てるように拳を握りしめ、今もまだ大事に片手に持った懐中時計とともに、暗き帰路に向けて、歩みを進めて行く。


 静寂極まる寝室は雑音が行き交っていた。


 畳の上に横たわって、雨垂れが瓦屋根から滴り落ちていく様を、障子の隙間から茫然と窓の外を眺めていた。


 鼠色の大空に黄金色を帯びた雷が迸り、障子を音を立てて揺らして、耳を劈くような雷鳴が響き渡る。


「ハァ……」


 カチカチカチ。


 掌に収まる程度の本の小さな懐中時計が、無機質に淡々と時を進めていく。


 眠気があった訳じゃない、突然疲労が襲い掛かってきたとも思えないような、段々と、真っ暗闇に引き摺り込まれていくように、緩やかに意識がブツブツと途切れていく。


 このまま眠ってしまいたい。


 ずっと、いつまでも。


 何もかも忘れて、夢の中で……。

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