あ!
青木一人
あ!
午前八時。そろそろ学校が始まるとき、望は走っていた。
「何で目覚ましが鳴んないんだろうなー」
しばらく走っていると、クラスメイトの智香が見える。足の回転数が見る見るうちに上がっていく。
「おはよー!」
「うわっ!?」
望が抱き着いて挨拶すると、智香は驚いていた。
「あんたねー、毎日びっくりするわ」
「えへへー」
「もー。ってか今日体育祭だけど、今日体操着持ってきたの?」
「あ!」
望がカバンを覗くと、そこには体操着がない。
「あれー?」
地面にカバンを置いてひっくり返す。が、見当たらない。
「あー、アンタ、もしかして中に着てきた?」
「えー?」
望が立ち上がってワイシャツを引き上げ、スカートとの隙間に手を突っ込むと、指定ジャージの感触がした。
「おー、すごいね智ちゃん、名探偵だ!」
「まーねー」
カバンのジッパーを締めると、勢い良く立ち上がる。
「待たせてごめんね、ほら、急ご」
「うん」
そういって2人は歩き出す。
教室についたときには既にホームルームが始まっていたが、望は一切逡巡することなく扉を開けた。
「はよー」
「おい如月、それに木崎。もう始まってるからさっさと席付け」
「はーい」
2人は途中から連絡事項を聞いた。とはいっても、それはプログラムをなぞるだけだったので何の支障もない。クラスTを受け取って、着替えを済ませる。
「はー、何でクラスリレーなんかに選ばれちゃうかな。走るの苦手なのに」
「しょーがない、じゃんけんで負けちゃったんでしょ」
「まーねー」
「うちが全員抜くから!」
「それは助かる」
「智ちゃんは絵がうまいでしょ」
望はクラスTを引っ張って智香に見せる。中心に描かれたキャラクターの笑顔が引きつっていた。
競技自体は順調に進行した。望が1年生にして200メートル走で一位になったことを皮切りに、他のクラスメイトも好成績を残していったのだ。
「あー、全然だめだった」
「お疲れ、智ちゃん。まさか一周差つけられるとはね」
「まじで尾崎さんがリレー走ればいいのに」
尾崎は望たちと同じクラスで、1500メートル走で5位。しかしクラスリレーに出場するのを拒否している。
「それぞれでしょ。それよりのど乾いた! 一緒にジュース買いに行こ」
「アンタ水筒持ってくんの忘れたからね」
「へへへ」
「お金は持ってきたの?」
「うん! あ、財布忘れた。一回教室戻ろー」
「はいはい」
教室に戻ったものの、望は財布を持ってきていなかったので、智香は自分の財布から150円を渡す。
校内にある自動販売機からは、スポーツドリンクは姿を消していた。水筒の残量はまだあったので、智香はお手洗いに行った。そして帰ってくると、望は何かを手に持っていた。
「望、アンタは何にしたの?」
「んー、つぶつぶのやつ」
そう言って見せたのは、みかんの果肉が入った長い缶飲料。
「え? どうすんのそれ、アンタ水筒ないじゃん」
「あ!」
「……はあ。私が飲み終わったら水筒かすから、ちゃんと持ってなさいよ」
「はーい」
正午を回っても気温が落ち着くことはなく、最終協議であるクラス代表リレーの時間が来てしまった。
「ああああどうしよう、今からでもお腹痛いとか言おうかな」
智香たちは一人100メートル、アンカーである望は200メートル走る。他のクラスは勝つための布陣をそろえているので、智香だけが不釣り合いに遅い。
「ねー望、あたしちょっと」
声を掛けようとしたその時、智香は気付いてしまった。望の顔が、かつてない緊張感に包まれていることを。
「ちょっと、頑張ってくるね」
「……おう!」
足元に注がれた、その視線の歪さに気が付いた智香が声を掛ける。
「何見てんの?」
「ん、足元の蟻」
「心配して損した!」
「えー」
「まー、おかげで緊張ほぐれたわ。ありがとね」
「うん!」
アンカーである望、その一人手前の智香は、スタート位置へ向けて歩き出した。日差しは、一段と強くなったような気がした。
「がんばって、木崎ちゃん!」
「うん!」
ついに始まったリレー。レースは順調に進み、智香は走りだす。
「あーっと一年一組、ここでバトンを受け取った!」
実況者の声が響く。
「このまま首位をキープできるか?」
クラスメイト達のおかげで、二位とは5秒差がついていた。そこからはダンゴ状なので、あまり悠長にはいられないが。
「あっ!」
懸命に走る智香だったが、二位との距離が詰まり、ついには抜かされてしまう。
あっという間に最下位に転落し、足を止めてしまおうと思った、その時。
「がんばれー!」
喉を鳴らした親友の声が、蒸し暑い空を切り裂いていく。
その声は全身をめぐり、力へと変わる。
せめて、望に繋げば。
重かった足取りを、必死に動かす。うまく地面は踏めないし、視界もぼんやりしているけれど。
ついに望を捉え、バトンパスをするタイミングで。
「あ」
距離感を少し間違えてしまい、虚空を滑るバトン。それを、軌道修正した望の手が捕まえた。
「あとは、任せて!」
見る見るうちに加速する望。それを見て、もう思い残すことはないと、だんだん、視界が暗くなっていって――。
「おい倒れたぞ!」
「熱中症か?」
「誰か担架を!」
「さっきの子を運ぶので使って、今空いてません!」
「……あの、私が運びます」
智香が目を覚ますと、保健室にいた。
「……あれ」
「目覚めたのね、大丈夫?」
「あ、っと、尾崎さん?」
「そうよ」
智香が横たわるベッドの横、椅子に尾崎が座っていた。
事態が呑み込めず、きょろきょろ周りを見渡す。
「走り終わって倒れたあなたを、私が運んできたの」
「そう、なんだ。ありがと」
「小池さんとか、如月さんとか、心配してたわよ」
「ごめん。私が出ることになって、迷惑してたよね」
「いえ? 私は別に」
冷房が効いている保健室は気分が良かった。
「でも、申し訳ないと思ったわ」
「え?」
「私だって、本当は立候補すればよかったのよ。でも、なんとなく避けて居たら、こうしてあなたを傷つけてしまった」
「うん」
「誰が出ても対して変わらないと、高をくくっていた」
「うん」
「けど、違うのね」
なんて返せばいいのか、智香は言葉を持っていなかった。
「あなたが描いてくれたイラストのおかげで、体育祭が楽しかったわ」
「ありがと。尾崎さんも、入賞おめでとう」
そんな話をしていた時、廊下を走る音が聞こえた。
「もう私は邪魔かしらね。失礼するわ」
「……うん」
尾崎と入れ替わりになるように、保健室のドアが勢いよく開く。
「あ! 智ちゃん! 生きてた!」
「生きてるよ」
「もーほんと心配したよ」
「ごめんって」
「ほんっと、智ちゃんはわたしがいないとダメなんだから」
「そうだね。リレーは、どうだったの?」
ピースサインをする望。
「一位だったよ!」
「すごいね、あの状況から」
「すごくないよ。ここまで繋いでくれた、智ちゃんがすごいんだよ」
「そうかなー」
「そうだよ。せっかくだし、賞状見せてあげる。
「おー、すごい」
「じゃーん!」
「個人の賞状だ」
「あれ?」
「ん?」
「もう一枚が……ない」
再び保健室の扉が開く。
尾崎が賞状を持っていた。
「廊下に落としてったわよ。ちゃんと持っときなさい」
望の顔が晴れやかになっていく。そうして息を吸い込んで、空に吸い込まれるほど、大きな声を響かせた。
「あ!」
あ! 青木一人 @Aoki-Kazuhito
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