イルメニア編 第7話 和平交渉➁

 和平交渉当日。

 ツムギとアリシアは予定より相当早く会場入りしたが、会場にはすでに王国の兵士たちが陣取っていた。

「早いな。宰相マーズ様とヨハン将軍代理はまだ到着していない。少し待つことになるが良いか」

 教会正門を見張っている兵士はやや横柄な態度であった。しかし、アリシアは「問題ない。中で待たせてもらう」と涼しい顔で見張りの脇を通ろうとした。

「待て! 貴様ら、二名だけか?」

「二名だけだが、何か問題でも? 私の参加が条件であれば、私がいればよかろう」

「問題はないが……普通は最低限、護衛等をだな……」


 アリシアはぶつぶつ言う護衛を無視して通ろうとしたが、護衛は後ろに続くツムギの胸を看過はできなかった。

「待て待て! 貴様、その胸はダメだろ!」

 さすがに赤く光る胸はだめだった。ツムギが何かを言おうとする前にアリシアがものすごい剣幕で怒鳴った。

「はぁ!? 赤く光る胸のどこがだめなんだ!? 貴様らがあげた条件には胸について何も書いてませんけど!? きちんと、『赤く胸が光る男の参加を禁ずる』と書いておくべきではないか!?」

「し、しかしだなぁ……普通では考えられないぞ……胸もはだけてるし、よしんば胸が光ってないとしても、交渉の席に胸が露出した男が来ちゃダメだろ……」

「ぐぬ! 正論!!」


 アリシアのすごい剣幕にも折れず、見張りは己の任務を全うしようとする。逆にアリシアが劣勢であった。そんな二人にツムギは微笑んで口をはさんだ。

「では、今すぐ、貴方の上官に尋ねてください。『赤く胸が点滅して光る男が交渉の席に立とうとしてますが、通していいですか?』と」

「ぐっ!!」

 そんなことを言えば「いかれてるのか?」と返されるのか関の山だ。悩んだ末「通っていいぞ……」と男はアリシアとツムギを通した。


 教会内を見回す。ツムギはこの世界の宗教には詳しくないが、キリスト教の教会に近いように思える。教会内部は王国が交渉に使うために手を入れているのだろう。おそらく長椅子が並んでいた形跡はあるがすべて撤去され、中心には不釣り合いな立派なテーブルといすが置いてあった。

「……どうです?」

「ふーむ……」

 ツムギは着席すると小声でアリシアに聞く。アリシアはその大きな耳で周囲の気配を感じ取ようと集中していた。エルフは目と耳が異様に良い。ツムギは何度かアリシアの狩りに同行したことあるがツムギの認知より遥かに早く、エルフたちは獲物を認識し、弓を構える。早めについて、着席したら、待ち伏せしている敵の数を計測するのは手筈通りの行動である。


「……多分だが、見えてるだけで四名。二階に五名。奥にもう三名、屋敷周りに二十名前後かな……奥の部屋の一名以外、全員重装備だ。これはハメられたな」

「やる気満々ですねぇ……逃げます?」

「逃げるだけなら、練習した技でいつでもできる。交渉の席には立ってやるさ」

 アリシアはふんぞり返って、居直る。ツムギは腹を決めて相手を待つことにした。

「では、手筈通り、交渉の席で出された飲食物は絶対に手を出さないでください」

「わかってるさ。私を犬か何かだと思っているのか?」

 そうして待つこと数十分。やがて外があわただしくなり、王国側の交渉人がやってきた。


 ツムギの見たところ、王国側の丁重に扱われている重要そうなポストの二人はどちらもまだとても若い。精悍そうな青年とにこやかな男性だ。精悍そうな青年が口を開く。

「待たせてすまなかったね。俺はヨハン・クレディール。幸運なことに現在、イルメニアの将軍代理をやって……ねぇ君その胸どうなってるの!? 大丈夫なのそれ!?」

 ヨハンはツムギの赤く発光する胸を見て、心配そうに叫ぶ。ヨハンは将軍代理にしてはまだ若く、髪の短い、いかにも軍人然とした体格の良い筋肉質な三十代半ばあたりの精悍そうな青年であるが、軍人的な体格の割にはその顔つきから温和さや人柄の良さが抜けきっていない。

「ヨハンさん、失礼ですよ。初対面の相手に大声を出し……。……病院を紹介しましょうか?」

 そのあとから、入ってきた身なりの整った貴族然とした銀縁眼鏡のにこやかな男は、ヨハンのように叫びはしなかったが、さすがに怪訝そうな表情は浮かべた。


「あ、私の胸のこれはお気になさらず。話し合いを始めましょう」とツムギは穏やかな笑みを浮かべる。

「いやいやいや、気になるよ! そんな胸がビカビカしてる人、あったことないもん!」

 ヨハンは軽く恐慌すら起こしかけていたが、横にいた男は冷静であった。

「その、何か羽織ったらいかがですか? お召し物を貸しましょうか?」

「いえ、例え鎧を着ても、胸の部分が絶対に裂けてしまいますので、意味がありません」

 ツムギの返答にヨハンはさらにパニックを起こす。

「ねぇ、どういうことなの、それ!?」

(この人、面白いな……)

 パニックを起こしているヨハンをしり目に冷静な方の青年は、にこやかにツムギに手を伸ばす。

「ああ、申し遅れました。小生はマーズと申します。しがない文官です。役職としては政務宰相と呼ばれていますね」

「ええ、私は今回のアドバイザー役、神野ツムギです。よろしくおね……」

 神野ツムギは(この人が噂の卑劣なマーズか)と思い差し、出された手を握りかえし、初めて相手の顔をきちんと見て、そのまま硬直する。


「エルフ……」

 思わず呟いてしまった。マーズはエルフであった。エルフ特有の美しい金髪をオールバック気味にしており、尖った耳に銀縁眼鏡をかけ、エルフ特有の美貌を持っていた。ツムギの知るエルフとの大きな違いは恰好である。軍服のアリシア、質素な格好の他エルフとは違い、洒脱なスーツ風の服を身に着け、煌びやかな装飾品も多くつけている。いかにも「お金持ってます」という風な服装だが、ギリギリ下品にはなっていない。

「む、言ってなかったか? マーズはエルフだぞ」

 アリシアが口をはさむ。

「言ってませんね……あの、もしかして、マーズさんってアリシアさんたちの同郷だったりします?」

「そうだ。マーズは二十年ほど前に森を出ていってなぁ……ツ、ツムギ殿。顔が青いが、マーズが同郷なのはそんなにまずいことか?」


 ツムギは頭が痛くなってきた。アリシアは族長の割にあまりに危機感がなさすぎる。

「普通にめちゃくちゃまずいですよ。この会談自体が悪くなるわけではないのですが……後で説明します」

 当のマーズはツムギたちのやりとりを見て、にっこりと微笑み返す。小声でのやり取りであったが概ねの内容は察せられているようだ。

「ええ、小生はエルフですよ。アリシアさんと同郷ですが、街に出ているいわゆるいわば『シティエルフ』というやつです」

「なーにが『シティエルフ』だ。しゃらくさい! 自然賛美を捨てた卑怯者にして、今は森を攻撃する裏切り者だろうが!」

「やれやれ、相変わらず姉さんは手厳しいですね。ですが、確かに人間の陣営にエルフが所属し、森を開こうとしているのですからね、言葉通りではありますが」

 何気ないやり取りにツムギはさらに驚く。

「姉さん!? アリシアさんとマーズさんは姉弟なんですか!?」

「ああ。不出来な弟で恥ずかしい」

 ツムギが抱いたここまでのマーズの印象は、礼儀正しく慇懃だが、どこか、裏を感じさせる男であった。短気で、猪突猛進だが裏表のないアリシアとは全てが正反対であった。


「む、ツムギ殿。なんだその顔は。さっさと、交渉を始めよう」

「えー。本当に始まっちゃうの? 俺としてはその胸のビカビカを解決させたいんだけど……どうにもならない? そっかー……」

 ヨハンの抵抗むなしく、会談が始まった。王国側はマーズやヨハン、護衛を抜かしてほかにも四名帯同している。書記役や法務上の専門家だろう。対して、北部エルフはアリシアとツムギの二名であった。アリシアは数の差に全く気後れしていないようで、腕を組み、椅子にふんぞり返っている。

「まぁ、とりあえず、飲み物を持ってこさせます。喉が渇いたでしょう?」

 マーズがそう言うと給仕をしている従卒の少年がお盆にのったグラスを二つ、ツムギたちの前に置いた。


「冷たいコーヒーです。アイスコーヒーというらしいですよ。宮廷の魔術師に冷やしていただきました」

(え?)

 ツムギは目を見開く。些細な違和感だが今「コーヒーが出てくる」のはおかしい。

「おお。ありがとう! コーヒーは大好物なんだ!」

 そして、事前の話を忘れ、嬉しそうにそれを平然と飲もうとするアリシアもおかしい。

「アリシアさん!! めっ!」

 ツムギにしてやや粗暴ながら、アリシアのコーヒーを持っていない方の手をはたく。

「お、おお! そうだった! 敵陣で出るものを口にしてはいけなかったな!」

「アリシアさん、しー! しー!」

 いくらなんでも、和平交渉の席で相手の毒殺を疑う発言は失礼極まりないが、しかし、マーズは涼しい顔をしている。ヨハンは無表情ながら。少しだけ顔色が悪い。必死にポーカーフェイスを作ろうとしているようにも見える。

(本当に毒が入ってそうだな……)

 そちらで飲んでみてくださいよ等いくらでも言えたが、ごまかし方もいくらでもありそうだし、本当に毒であったら敵とはいえ飲ませるわけにはいかない。


 ツムギは咳払いして話を始めた。

「不勉強で申し訳ありませんが、今回の会談にいたり、エルフと王国の衝突の経緯を聞かせてください。エルフ陣営で話は聞いていますが、そちらからもう一度概要をお話ししてもらっていいですか?」

 ツムギの言葉に王国陣営の書記官たちは「和平会談に参加してるアドバイザーが何も知らないのか?」と眉をひそめたが、マーズはにこやかに快諾した。

「ええ、いいですよ。今回の問題はどこにでもあるものの、根深い問題。土地の問題だと我々は解釈しています。まず、そちらのアリシアさんが住んでいる森、あの森は王国の領地なんです。王国側である我々からみれば、エルフは領民、しかも税も払わず勝手に住み着いている状態なんですよね。だから、今、森の開発や開墾を計画しているので、この際、領土問題、領民問題をすっきりさせたいのですよ。具体的にはエルフにも王国民として税を払い、街で暮らしていただきたい」


 穏やかに知的にスラスラ説明するマーズにアリシアは机をたたいて怒鳴り声を上げた。一見するとツムギ側が悪者である。

「何を言う! あの森は二千年以上前からエルフが住んでいるんだぞ! 後から来たのは人間じゃないか!」

「ほうほう、住んでいるから森の権利は、エルフのものですと?」

 マーズは不敵に笑い、その笑みを見て、ツムギは「これ、何かあるな」と察する。ツムギはこの世界のどころか、元居た世界でも「土地関連」は不勉強だ。色々と勉強家のツムギだが、さすがにまだ高校生なので「不動産」は不勉強である。しかし、ツムギには己の至らなさを埋める武器がある。チートスキル『神託』である。


(ピクシーさん、私、自分の世界でも土地の所有権等には詳しくないのですが、少し解説してもらっていいですか?)

 しかし、いつもなら快活に説明をするピクシーが珍しく『うーん……』と渋る。

『不動産の話かぁ……。この世界における土地の所有権についての歴史を話すと殆ど世界史になるからね……また今度時間があるときに。というか、ぶっちゃけ僕もそんな詳しくないから、僕が勉強してからね。どや顔で話した解説が外れているほど恥ずかしい話はないからね』

 ピクシーの煮え切らない返答にツムギは少し呆れる。

(ピクシーさん、自ら『和平交渉は僕に任せなよ』と言った割にあまり頼りならないですね……)

『なんだとぉ! 僕は司法書士じゃないんだぞぉ!』


 至らなさは埋まらなかった。ツムギは仕方なく、自らの考え方でマーズと向き合う。

「しかし、土地問題でエルフは出ていかせるのはともかく、その後のフォローは考えているのですか? エルフは森を出てどこで過ごせばいいのですか?」

 ツムギは相手側が返答を用意していないつもりでそう尋ねたが、マーズの返答はよどみないものであった。

「ご心配なく。さすがに全エルフに個人個人の住宅は用意できませんが、集合住宅のようなものを用意できます。これも無償提供はできませんが、三年間は無償で貸し出しましょう。必要ならば、都市部での働き口も斡旋します」

(お、思ったよりも相手が提示している条件がいい……)

 アリシアの言い分からもっと劣悪な条件かと思ったが、相手の提示している条件はそこまで悪いものではなかった。

「と、ここまでの条件を出しているのですが、アリシアさんは首を縦に振ってくれません。手紙にも書いた内容ですが、読んでくれているのかも怪しい」


 ツムギはアリシアの方へ顔を向ける。

「アリシアさん。どこまでなら譲歩できるんですか?」

「どこまでも何も……そもそも、我ら森から退去する気がない! 前提条件から飲めない! 恩着せがましいつらして三年間、無償で貸し出しますだぁ? 我々は森に何百年も無償で住んでるわ!」

「ですから、今日の会談ではその違法性をですね……ああ、平行線」

 姉とはそりが合わないのだろう。マーズの笑みには少し疲労が漏れ出していた。

「……あの、どうにか森の開発を諦めてはくれませんか?」

「そりゃ無理ですよ」

 マーズの顔はにこやかだったが、言葉は即答で圧倒的な拒絶が込められていた。これ以上の話は無駄だとツムギも悟るが、それでも別方向から攻めることにする。


「うーん、そもそも森は全開発しなくちゃダメなんですか? 四分の一程度で済ませて、残りはエルフの領地にするとか?」

「……それもだめですねぇ」

 少しマースの返答に間があく。何か真意を隠していると察したツムギはそこをさらにつく。

「なぜですか?」

「……」

(やはり)

 意外なことにマーズが返答を渋っている。これまで余裕綽々、よどみない返答をしていたマーズが初めて、困っているように見える。

(しかし、なぜ? 今のそんなに変な質問でしたか? ……真意は『森を開きたい』ではなく、あくまでそれに伴う副次的な要素なんですかね)


 ツムギは頭の回転が年齢不相応に早い。ここを追求するべきだろう。しかし、ツムギの思惑は味方側によって邪魔された。アリシアががなり立てる。

「ダメだダメだ、ツムギ殿! たとえ四分の一でも我々は認めん! 次は二分の一と段々森を切り取っていくのが目に見えている!」

 マーズは珍しく姉に救われ安堵する。ツムギは少し困ったが、アリシアの言い分も正論ではあるし、急に森を開墾してきた王国側は十分にアリシアの言う事をそしかねない。

(……切り口を変えるか)

 ツムギは話題を変えることにした。


「あの森が王国側の土地である証拠、土地の権利書とかはあるんですか?」と「権利書はないだろう」という前提でそう尋ねる。

 しかし、この話題は罠だったようだ。マーズは困窮した態度から一転、嬉々として書類を取り出した。

「もちろん。こちらが権利書になります。権利書というか、権利を持っていたエルフの族長からの土地の譲渡書類ですが」

「え、エルフの族長から譲渡されたんですか!?」

 全く聞いていない話だった。ツムギは疑いの目でアリシアを見るが、アリシアは「わ、私じゃないぞ!?」と必死に否定した。エルフの主張は「ここは我々の森だから出ていかない!」だが、その権利をエルフが手放しているのでは、根底から話が変わってしまう。


 アリシアとツムギは権利書を見た。チートスキル「異世界言語マスター」は識字にも影響しているため、問題なく読める。読めるが、内容は形式ばっており理解が難しい。こういうのは「整備文」と呼ぶのだと聞いたことがある気がする。

(読みづらい……)

 ふと横のアリシアを見ると汗をだらだら流していた。

「そんなにまずいことが書いてあったのですか!?」

「いや、全然読めん……正確には読める。読めるが、書いてある言語はわかるのだが、内容がまるで理解できん……なんというか、目や脳を滑っていく……」

 根本的にアリシアは読めていなかった。それゆえの脂汗だった。


『……向こうの言う通りの内容だよ。要約だけど"エルフたちの領地の破棄"、"土地の王国への譲渡"、"不可侵条約の改変"と"代わりに北部の森が他国へ侵略された際は王国が守護するものとする"という内容かな』

「えー!?」

 最初に内容を理解したピクシー・スーの言葉を聞いて、ツムギは思わず声を出してしまう。ピクシー・スーの声はツムギにしか聞こえないので、客観的には突然叫びだしたツムギに会場中の視線が集まる。


「ツ、ツムギ殿! 急に叫んでどうした!?」

「いや、アリシアさん、これ、書いてある内容がですね」

 ツムギはピクシー・スーの受け売りをそのまま話す。

「えー!?」

 アリシアも叫んだ。

「いったい誰がこんな無茶苦茶な条約をしたのですか!」

「む、この権利書に書かれているサインは読めるぞ! 先代、父の名前だな。先代が引退し、私に族長を譲ったのは二百年前だから、つまりは二百年以上前の権利書だ」

 エルフの一世代はイマイチ感覚的につかみにくいが、寿命から考えてアリシアが族長の年代は随分長く感じる。


「何かお父さんの行動でその辺のことを覚えてますか?」

「うーん。覚えてないなぁ。我々の生活は変化が少ないからなぁ」

 アリシアが思い出そうと必死になっていると、マーズが口をはさんできた。

「姉さん、覚えてませんか? まだ我らが五十前後の幼いころ、父上が王宮にまぬかれ、泥酔して帰ってきたことがあったでしょ? あの時に酔った勢いでこの書類にサインしたのでは?」

「そんなことあったかぁ? あったような、なかったような……」

 しかし、アリシアは思い出せない。

「ありましたよ」

「確かに父上は酒嫌いのエルフしては珍しく酒好きで……それでいて酒にはとてつもなく弱かったが……」

 アリシアは記憶をたどるが思い当たる節はあるような、ないような。「王宮にまぬかれた父が泥酔して帰ってきた」のは事実であるだけに、マーズは姉の記憶力にイライラとしてくるが、その態度を出すほど彼は単純なエルフではない。

「どうしましょう?」と困惑したツムギ。

「むむむ……こんな契約書が残っているとは……エルフは先代とはいえ族長の教えは絶対……とはいえ、なぜ、こんなおかしな約束を……」

 アリシアは頭を抱えてしまう。ツムギも「どうするべきか……」と次の一手を考えるが、妙案は浮かばない。


 そんな中、ピクシー・スーが声をあげた。

『あ』

(どうしました?)

『いや。これ多分偽物だよ』

(に、偽物!?)

 ピクシーの言葉にツムギは目を開く。やはりピクシーの声は聞こえないので、客観的には突然表情を変えたツムギを怪訝そうに会議の参加者は見る。

『紙がね、一見古臭いけど、二百年前にあっていい紙じゃない。この紙の台頭は五十年近く前、最初期に転生した元紙漉き職人が流行らせたものだ。そのプロトタイプだね』

(……!)

 ツムギはじっと紙を見て、次にマーズを見る。マーズは相変わらず微笑んでツムギを見ている。


 卑怯で卑劣で非情なマーズ。砦内でささやかれている噂はどうやら真実のようだ。

「……マーズさん。この契約書、偽物ですね?」

「おや、どうしてそう思われるのです?」

 ツムギの問いに、マーズは肩をすくめ、心底心外だと表情を浮かべる。どうもマーズは表情や動きがオーバーリアクション気味だ。マーズは生来、自然な嘘が苦手なのであった。なので、嘘も真実も全てをオーバーに演じることで「すべてが胡散臭い」とし、真実も嘘の中に紛らせて隠しているのである。

 ツムギはピクシーの受け売りをそのまま、マーズに伝える。もちろん、転生した紙漉き職人の部分は避けてだが。

 ツムギはその指摘で多少マーズが慌てるそぶりを見せるかと思っていたが、マーズの表情からほほえみが消えることはなかった。


「おや、バレてしまいましたか」

 マーズは「いたずらがバレてしまった」程度の笑みを浮かべ、悪びれもせずにくつくつ笑い、当然、アリシアは激怒した。

「貴様ぁ! 今、我々だけでなく、亡き父も愚弄したぞ! 交渉決裂だ! 最初から戦争しかなかったんだ!」

 激昂するアリシア。ヨハンも含め、王国側の陣営は気圧されるが、マーズだけは余裕を保ち、笑みを浮かべる。

「交渉が決裂した? だから、なんですか? 何か、勘違いしていますね。今回の交渉は貴方方のための交渉だったのですよ。国はいくらでもエルフをすりつぶす方法はあります。あなた方は逆に我々から良い条件を引き出して、降伏するしかなかったのですよ。エルフも大変ですねぇ。姉さんみたいな猪武者がリーダーで」

「エルフの貴様ががどの口で!」

「ま、こうなってしまっては仕方がない。はまると思ったのですが、紙の歴史に詳しい方がアドバイザーにいるとは。ヨハン将軍代理。お願いします」

 マーズに促され、会談中、殆ど黙っていたヨハンが立ち上がる。


「よし! お前ら、入ってこい! 会談は破談だ!」

 ヨハンの言葉を合図にドカドカと兵士たちが教会に乱入してきた。交渉のテーブルに座っていた文官たちは慌てて、兵士の裏へ隠れる。外にいた全員ではないのだろうが、その数は十名以上に見えた。

「お。おお。なんだ? 最初から暗殺狙いなのはわかっていたが、随分と展開が早いな……!」

 アリシアは驚くが、ツムギはマーズという男に戦慄を覚えていた。搦手が通じないとなると、そこに固執せず、迅速な力技への切り替え。判断力の速さが尋常じゃない。

「貴様ら、抜け抜けと交渉の場にたった二人で現れて、生きて帰れると思うなよ!」

 ヨハンも剣を抜いて叫んだ。

『すごいな、もろに小悪党そのもののセリフじゃん。あれ? ツムギ君、これ相手の武装……』

(え!?)

 思わずピクシー・スーがヨハンの言葉に感嘆を漏らした直後、ツムギと共に驚きの声をあげた。

 やってきた兵士は全員が全身鎧、プレートアーマーを着込んでいた。これが王国兵士のスタンダードかもしれなかったが、戦争のない田舎の小国にしては明らかに重装備。パラライズ対策の様にしか思えなかった。

(……)

 ツムギは先ほども感じていたある疑惑を確信に至らせる。


「ヨハンさん、アリシアは生け捕りでお願いしますよ」そうマーズはヨハンに注文を付ける。

「胸の赤い小僧は?」とアリシアたちの方を見たままヨハンが聞く。

「うーん、この人、誰なんですかね? 小生もいまいちわかりませんが……殺していいのではないですかね?」

 マーズはヨハンに指示を与える。どうも宰相と将軍代理で管轄はまるで違うのに、この二人の上下関係はマーズが上にに見える。マーズは剣呑なことを言い、ヨハンが部下たちに指示を出そうとしたとき……。


「その男は絶対に生け捕りにしろ! 殺すなよ!」

 若いというより、まだ「幼い」と言えるかもしれない少女の声が教会の奥から響いた。奥の小部屋にずっと隠れて会談の様子を伺っていたらしい。

 ヨハンは少女の声に、びくりと身をすくめ、マーズは肩をすくめた。

「……だ、そうです。生け捕りでお願いします」

「……弓は打つな。当たり所が悪ければ殺してしまう」

 ヨハンとマーズは少女の命令に従い、作戦内容を訂正する。意外なことに宰相よりも、将軍代理よりも、奥にいる少女のほうが力関係は上らしい。

 一触即発。誰かが動けばすぐに事態が急変しそうな中……アリシアが叫んだ。

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