5-浸蝕される心

時期的にいえば、出立して殆ど間もなく……十日もしない内に出された書簡だと言える。

滞在を切り上げて可及的速やかに帰国せよとの、それは命令に近かった。

父は何とも苦々しい顔をして、母は困ったようにため息を吐く。

エデュラは手紙を覗き込むようなはしたない真似はしなかったが、エリシャは容赦なく実行した。

そして、彼女は怒り出す。


「まあ!何て勝手なのかしら!」

「……俺はこの国に残ろうと思う」


だが、怒れる妹を他所に兄のディンキルは静かに言った。

皇子と共に勉学や剣を学びたいのだろう。

ここは学ぶのに良い環境だ。

エデュラは兄を見て頷いた。

父も、暫く考えた末に頷く。


「明日帰国する旨をお伝えする際に、お前のことも陛下に申し上げておこう」

「有難く存じます」


兄は嬉しそうな顔を見せると思ったが、やや厳しい顔のまま頷いて見せる。

そして、エデュラとエリシャの頭に大きな手を載せた。


「兄は強くなって戻るから、父上と母上の言う事をきちんと聞く様に」

「はい、お兄様」

「もう、お兄様も自分勝手ね!」


エデュラとは対照的にぷんぷんと怒るエリシャの髪を、ディンキルは殊更乱すように撫で回した。

それで余計にエリシャが怒ることを知っていて。


「ちょっと!髪型が崩れるじゃございませんの!」

「猛々しい妹がいるのだから、エデュラの護衛も任せられるな」

「勿論ですわ!お兄様よりも役に立ちますわよ!」


本当は寂しい。

きっとエリシャもそうだ。

けれど、二人はその気持ちを吹き飛ばすかのように振る舞う。

エデュラはその優しさに微笑んだ。


「頼りにしているわ、エリシャ。お兄様も、ご武運をお祈り致します」

「……おう」



そうして侯爵一家は、長男のディンキルを帝国に残して、帰途に就いた。

船が港に入ると、待ち構えていたように王家の馬車が待機しており、連れ去られるかのように王宮へと運ばれたのである。

行き帰り共に船旅は順調で、移動だけで二週間。

滞在は結局八日ほどだったので、王国を離れていたのはほぼ一か月。

でもその一か月の間に、色々な変化が王宮では起こっていた。


何より劇的な変化を遂げたのは、エリンギル王子だ。

久々に会ったエリンギルは、会うなりエデュラを抱きしめた。


「何処に行っていた!お前のせいだぞ!」

「……は……ええと、申し訳ございません」


何を責められているのか分からないけれど、以前のように冷たい目で見られると思っていたエデュラは、その王子の行動に面食らった。


強く抱きしめられて、じんわりと体温が移ってくる。

そして、あの病のような幸福感に満たされていく。

何もかも塗りつぶしていくようなそれに、エデュラは初めて恐怖を覚えた。

忘れたくない事があるはずなのに、埋もれさせるような。

まるで思考を奪われるかのような酩酊感に、エデュラは涙を零した。

決して良い気分だった訳でもない。

でも唇は勝手に、エリンギルへの思いを告げる。


「お会いしたかったです、殿下」

「俺もだ、エデュラ」


初めて思いを返された喜びに、エデュラは全ての思考を投げ出してしまった。

そして、また暫くは穏やかな日々が続く。

再開された王妃教育も、エリーナ姫の我儘も。

今までとは違う、何か違和感を感じながらも、エデュラは一心に学ぶことでそれを振り払おうとしていた。

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