押しから始まる塩生活。読み切り
縁肇
第1話押しから始まる塩生活。
部屋の中はまるで時間が止まってしまったかのように荒れ果て、重苦しい空気が漂っていた。ゴミ袋があちこちに山積みされ、腐敗臭が充満している。その匂いは、彼が背負っている過去の罪の臭いにも似ていた。部屋の中央で男は静かに立ち尽くしていたが、その顔には疲労と無感情が交じり合っていた。
テーブルの上には、緑色の紙と指輪が無造作に置かれている。それらを手に取った瞬間、男の手は微かに震えた。膝をついて、それらを見つめる彼の心には、重い罪悪感が押し寄せる。しかし、その感情を押し殺し、ただ黙って写真立てに目を向けた。そこには、彼がかつて愛した女性と、その間に抱かれた赤ん坊の写真が収められている。しかし、その写真もまた、埃にまみれて輝きを失っていた。
時計が12時を指し、鳩時計が突然鳴り出す。機械的な音が静まり返った部屋に響き渡り、彼の意識を現実に引き戻した。だが、その鳩の音に続いて、彼の腹が鳴る。それは、単なる空腹を知らせる音ではなく、深い飢えと渇望を暗示しているかのようだった。男はその音に胸の内を締め付けられるような感覚を覚え、そっと目を閉じた。
やがて、彼は何かに突き動かされるようにゆっくりと立ち上がり、部屋を後にした。ドアにかけられた「301」の表札は黒ずみ、過去の名残を映し出していた。階段を下りる途中、男はマンションの掲示板を一瞥した。「空き巣に注意」と書かれた張り紙が貼られているが、それが自分には関係ないことを知っているかのように、彼は無視して通り過ぎた。
階段の途中で、彼は20代の若い女性とぶつかった。彼女の目が男の顔に触れた瞬間、彼女の顔色が一瞬にして青ざめた。恐怖に引きつった表情がそのまま固まり、彼女は言葉を失ったまま、慌てて階段を駆け上がっていった。男はそれを見送るように冷たい目で彼女を見つめ、心の中で何かが壊れていくのを感じた。
人気のない路地裏へと足を運び、彼が辿り着いたのは、一台のラーメン自販機だった。夜の闇に包まれた路地裏で、その自販機だけが不気味な光を放っていた。男は自分がここに何をしに来たのか分からなかったが、手は自然とポケットから硬貨を取り出し、塩ラーメンのボタンを押した。突然、機械の中から金属的な音が響き、取出口から勢いよくラーメンが飛び出してきた。それは、まるで暗闇から解き放たれた怪物のように彼に襲いかかってきた。彼は一瞬、凍りついたように動けなかったが、反射的に手を伸ばし、ラーメンをキャッチした。
「さぁ、俺を食べろ……」
耳元で囁くような声が聞こえた。男はその声に驚き、手のひらを見ると、そこには手足が生え、異形の顔がついたカップラーメンが、邪悪な微笑みを浮かべていた。彼は恐怖に体が硬直し、心臓が早鐘のように打ち始めた。
そのカップラーメンは、どこか馴染みのある顔つきをしていた。それは、かつて彼が愛した住人の面影だった。
「俺を捨てるな……お前が捨てたのは俺じゃないか……」
その声は男の心の奥深くに突き刺さるように響いた。男は恐怖と混乱に包まれながらも、カップ麺を捨てようとしたが、何かに阻まれたように手が止まった。
部屋に戻った彼は、静かにカップ麺をテーブルに置いた。それはまるで生きているかのように、男を見つめ、次の命令を出した。
「掃除をしろ。お前が汚したんだろう?」
その声には容赦がなく、男を追い詰めるように響いた。
男は無言で動き出し、部屋を片付け始めた。しかし、片付けを進めるたびに、まるで何かが彼を見つめているような気配を感じる。ゴミ袋を開けると、中から腐敗した臭いが一層強く立ち込め、彼の胃がひっくり返るような感覚に襲われた。だが、その中で彼が感じたのは、恐怖ではなく、ある種の快感だった。
「何をためらっている?もっとやれ……」
カップ麺の形をしたそれは、男を無情にも急かす。彼はふと、おもちゃ箱に目を留めた。そこには、かつて家族だった者たちの名残が詰まっていた。カップ麺はそれに目をやり、冷ややかに言い放った。
「お前が捨てたのは彼らだけじゃない。お前自身も捨ててしまったんだ……」
その言葉に、男の心の中で何かが崩れ落ちた。彼は急に感情を抑えきれず、テーブルを強く叩いた。その瞬間、カップ麺の中身が飛び出し、男の手にかかった。それを見て、男は冷たい笑みを浮かべた。
「これで終わりだ……」
彼はカップ麺を手に取り、その中身を無情にも口に運んだ。カップ麺は絶叫しながら彼の口の中で砕け散ったが、男は平然とそれを噛み砕いた。塩の味が口の中に広がり、その冷たさが彼の心をさらに冷え切らせた。
男は立ち上がり、部屋の隅に置かれた棚を開けた。そこには、彼がかつてこの部屋に住んでいた住人たちの残骸が、ゴミ袋に詰められて詰まっていた。彼はそれらを引き出し、静かに部屋を後にした。
マンションの掲示板には「空き巣に注意」と書かれた張り紙が、無関心に揺れていた。男はその張り紙を一瞥し、冷酷な笑みを浮かべた。
「もう何も怖くない……俺はすべてを手に入れたんだ」と呟きながら、男はゴミ袋を手に、闇に包まれた路地裏へと消えていった。その後ろには、かつて彼が捨てた者たちの影が静かに揺れていた。
押しから始まる塩生活。読み切り 縁肇 @keinn2016
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