ある雨の日に
椥辻姫子がそのことに思い至ったのは、ある夏のことだったけれど、実際に行動に移したのは、その夏も終わりつつある頃だった。
その日は雨だった。
上七軒のいつもの喫茶店は、天気が悪い所為なのか、扉を開け、パッと見た限りでは、他に客はいないようだった。尤も誰かいようとも、姫子が座る席は決まっているのだが。
カランコロンというドアベルの音に反応し、カウンターでタブレット端末とにらめっこをしていた少女が、「いらっしゃいませ~」という甘ったるい声を出す。彼女が「少女」と形容できる年齢でないことは、姫子にとって既知の事柄だったが、いつ見ても本当に若々しいな、と思う。大学生くらいに見えるのだ。
そんな、若作りの彼女は東准と言って、京都に越してきてほんの数ヵ月である姫子の、数少ない友人だった。
いや、十以上も年の離れた相手を「友人」と呼称するのは、少なからず違和感があるけれど、それ以外に、この関係性を表す単語を姫子は知らない。親戚関係である同居人の古い友人、という紹介は正しいけれど、他人行儀過ぎる。
「きゃーっ!姫子ちゃん! よく来たね!」
扉を開けたのが姫子であると気付いた准は、カウンターから出てくると、これまた猫可愛がりな声でそんなことを言いながら、姫子をむぎゅうと抱き締めた。
いつものことだが、ちょっと、恥ずかしかった。他人から抱き締められる、ということがまずないし、同性だとしても、鼻腔に届くシャンプーの甘い匂いとか、その身長差から必然的に顔を埋めることになってしまう豊満な胸部の感触とか、そういうあれこれが全部、恥ずかしい。
あの雨のような目の同居人がいないことだけが幸いだった。
「可愛い、可愛いねぇ! 食べちゃいたい! キュートアグレッション!」
言葉の意味は分からないが、がぶーっ、と声に出しながら耳を齧る真似をしてくる准を手で押すことでそれとなく距離を取りながら、「こんにちは、准さん」と、挨拶をした。
ようやく姫子を開放した准は、今度は少しばかり落ち着いたトーンで言う。「よく来たね」。
「注文は何にする? なんと! 今なら! お水が無料だよ!?」
「……カフェオレを、お願いします」
「はーい」
語尾にハートマークが付いていそうな調子で応じた准は、素早く水とおしぼりを机に置くと、牛乳を暖め始める。姫子はその様子をぼーっと眺めていたのだが、そう言えば用件があって来たのだったと思い出し、
「……准さん」
と、声を掛けた。
カフェオレを作る手を止めないまま、「なーに?」と答えた准に、姫子は、「今日、時間ってありますか?」と問い掛ける。彼女は、
「今日なら空いてるよ。このカフェオレを作り終わったら、だけど」
とにっこりと笑う。
営業スマイル全開の彼女を、なんとなしにじっと見つめていると、准は何かを察したらしく、コーヒーカップを運んでくると、そのまま姫子の前に座り、シュシュを外してサイドテールを解いた。
それが本音の時間の合図だということを、もう姫子は知っていた。
「どうしたの、姫子ちゃん? 恋の相談?」
「いえ……」
「じゃあ、また、霖雨のこと?」
何故か自分の分もカフェオレを用意していた准は、それを一口、飲むと、美味しいよ、と笑う。
勧められるままに姫子もコーヒーカップを口へと運ぶ。苦味の中にほのかな甘みがあり、その温かさが身体中に広がっていくようだ。季節外れの冷たい雨の日には、温かな飲み物が欲しくなる。
姫子は言った。
「准さんは、霖雨の好きなもの、知ってますか?」
「知ってるよー。長い付き合いだからね」
「どんなものがありますか?」
「意外なところだと、『MOTHER3』とか好きだよ。あのゲームのね。一時期……高校の頃かな? えらく感銘を受けたみたいで、ずっと原始共産制と役割理論について考えてた」
「……?」
「『ウルトラマン』も好きだよ。特に実相寺昭雄が監督した回が好きみたい」
「???」
「姫子ちゃんは、ゲームはしないんだっけ」
「あんまり……しないです。子どもみたい、って思われるから……」
「アニメとかもあんまり見ない?」
「それも、あんまり……」
「霖雨はね、意外と好きなんだよ、そういうの。子ども向けのコンテンツ? みたいなものが」
「どうしてですか?」
カフェオレで口を湿らせ、准は言った。
「そこには明確に意図があると考えているから、かな。子ども向けであるが故に、その作品は、『そのコンテンツを作った大人の側が子どもに何を伝えたいか』が明確に出ていると考えてるんだね。だから、子ども向けの作品を見るけれど、その根底にある大人の意図を見てるの」
「……ちょっと難しい、です」
姫子の正直な感想に、准は、「あはは」と笑い、
「結局、学術的な見方をするのが好きなんだろうね。私は、アニメやマンガって、『面白い!』『楽しい!』だけで十分だと思ってるけど。それで救われる人って、沢山いるだろうから」
と続けて、「そのことがどうかしたの?」と問い掛けた。
姫子は、言う。
「少し前に……。また、霖雨に、無理なお願いをしちゃって……」
「小山さんのこと?」
頷き、続ける。
「だから……。何か、お礼をしたいな、と思って……」
「お礼かー。あんまり、そういうのは好きじゃない奴だけどね」
「……好きじゃ、ない? どうして?」
「んー、他人行儀に思うからかな? 矛盾したことだけど、霖雨は、『他人とは分からないモノ』『自分と他人とは別』と考えながら、それでも、何か伝わる部分があると思ってるの」
「そうなんですか……?」
驚き、目を見開いた少女に、准は頷く。
「多分、自覚はしてないんだけどね。あ、でも、姫子ちゃんからプレゼントを貰ったら、凄く喜ぶと思うよ? あんなようでいて、姫子ちゃんのこと、凄く大切に思ってるから」
「そう、ですか……」
頬がかあっと熱くなるのを感じ、姫子は俯く。
大切に思っている……。それは、どんな意味合いだろう? どんな存在として、自分のことを大切に思ってくれているのだろう? じゃあ、私は? 私は、彼のことを、どう思っている?
答えの出ない問いに迷い込みそうになっていると感じ、無理矢理に思考を打ち切って、本題に戻ることにする。
「じゃあ……。何をあげたら、喜ぶと思いますか……?」
「……イジワルなこと、言っていい?」
「え? はい……。どうぞ」
「私は霖雨が好きなものを知ってるし、何をあげれば喜ぶかも大体分かる。でも、霖雨が一番嬉しいのは、姫子ちゃんが自分の為に考えてくれた、ってそれ自体なんだと思う。だから、教えてあげない」
なるほど、確かに意地悪だ。正解が分かっているのに、それを教えないなんて。
けれど、そもそも、誰かに何かを贈る、ということは、そういうものなのかもしれない。だからきっと、誰かに、何かを贈る、というのは、素晴らしいことなのだ。
……姫子は、ずっと昔のことを思い出した。
幼かった時分、クリスマスを控えた夜に、母に本を読んでもらったのだ。それは『賢者の贈り物』というお話で、奥さんは旦那さんの為に髪を売り、時計の鎖を買って、旦那さんは時計を売り、櫛を買った、というものだった。姫子は悲しい話だと思い、涙ぐみ、けれど母は姫子の頭を撫ぜ、笑った。
「……准さんは、『賢者の贈り物』って話、知ってますか?」
「うん、勿論。翻訳家として、一度、訳したこともある。……あの話って、どんな文で終わるか、知ってる?」
「いえ……。そこまでは覚えていません」
「『Everywhere they are wisest. They are the magi.』――通常、この文章はね、『世界中、何処であっても、彼等のような者が最も賢い者なのです。彼等は賢者なのです』って訳すの。″magi″が、″東方の賢者″だから、それを踏まえて、″wisest″も、″賢者″″最も賢い″と訳すんだけど……」
一拍置いて、准は言った。「私はちょっと、違うと思うんだ」と。
「だって、『賢い』って、スマートでもインテリジェントでもいいでしょ? ここでの″賢い″や、″賢者″は、ただ頭が良いだけじゃなく、思慮深く、相手への思い遣りに溢れている、ってニュアンスだと思うんだよね」
東方の三賢者は――マリアを祝福し、キリストの誕生を喜び。
現代の賢者である二人は――妻は夫を、夫は妻を、想ったのだ。
誰かを想い、何かを贈りたいと思う気持ちこそ、既に、何よりも素晴らしい贈り物なのだろう。ただ正解を知ることではなく、正解を求め続け、自分なりの解答を出すこと。奇しくもそれは、学問に似ていた。
彼は、私のことを、大切に思ってくれている?
どんな存在として?
私は彼のことを、どう思っている?
どんな相手として?
……その答えはまだ、出ないけれど。
相手を想う気持ちだけは、間違いがない事実だ。
そしてそれは、オー・ヘンリーが作中、妻に言わせたように、神様ですら分からない、姫子だけの気持ちなのだ。
「……准さん」
「ん? なーに?」
「ありがとうございます」
姫子の言葉に、准は笑った。
「私は、答えは教えてあげないけれど、一緒に買い物に行くことはしたいな、って思ってる。こんなイジワルな私で良かったら、姫子ちゃんと一緒に、プレゼントを選んでもいいかな?」
「……はい」
よろしくお願いします、と姫子は頭を下げ、准は何故か眩しそうに眼を細めて、また笑ったのだった。
了
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