第16話 仕事中でも、空気は壊れる
結衣は、バイトの日は余計なことを考えないと決めている。
学校での出来事を引きずったまま働くと、
手が止まる。
お釣りを間違える。
注文を聞き逃す。
何より、笑顔が固くなる。
それが怖いから、制服を脱いでエプロンをつけた瞬間に頭のスイッチを切り替える。
注文を取る。
作る。
運ぶ。
片付ける。
声を出す。
単純で、分かりやすくて、考える隙を与えない。
今の結衣には、その単純さがちょうどよかった。
「……あ」
その単純さは、出勤してすぐ崩れた。
レジ横で備品を整理している人影に気づいた瞬間、足が止まる。
エプロン姿。
動きはテキパキしているのに、表情には余裕がある。
そして、こちらを見つけた瞬間に笑う、あの癖。
月城碧。
結衣にとっては、バイト先の先輩であり、からかい担当であり、厄介な人。
「……先輩?」
思わず声に出すと、相手は当然のように頷いた。
「おはよ、結衣ちゃん」
呼び方が軽い。
軽いのに、言われると妙に意識してしまうのが悔しい。
「お、おはようございます……」
結衣は反射的に敬語で返す。
職場だから、という理由もあるけれど、実際のところはそれだけじゃない。
先輩の前だと、自分のペースが崩れる。
崩れるのが分かっているから、
せめて言葉だけでも丁寧にしておきたくなる。
「今日、びっくりした?」
先輩は棚の整理を続けながら、何でもないように聞いてくる。
「はい。シフト、聞いてなかったので」
「聞いてないだけ」
「その通りです……」
正論を投げられると、反論ができない。
結衣は軽く頭を下げて、自分の持ち場へ戻った。
ここは職場。
考えるな。
仕事をしろ。
そう思ってレジに立ち、最初のお客さんをさばき、袋を渡す。
その繰り返しが始まれば、頭は勝手に現実モードになるはずだった。
けれど今日は、視界の端がうるさい。
先輩は別の作業をしている。
それなのに、時々こちらを見る。
一瞬だけ。けれど、その一瞬が刺さる。
結衣は気づかないふりを続けた。
続けたつもりだった。
忙しい時間帯が来ると、結衣は注文を取りながら必死になる。
手を動かしていれば考えずに済む。
なのに、ふとした瞬間に思い出す。
昨日は沙耶に会って少し落ち着いた。
結菜の言葉を受け止めて、胸の奥のざわつきも少し収まった。
玲とはまだ「知ってほしい」の入口で、無理に近づく段階じゃない。
澪は……相変わらずで、結衣のツッコミが追いつかない。
整理したつもりだった。
だから今日は、何も考えない日にしたかった。
それなのに、先輩がいるだけで空気が変わる。
先輩は、学校の事情なんて知らない。
在学生が誰とどうとか、そういう話も、知る立場にない。
なのに、この人は結衣だけを見る。
事情じゃなく、顔だけを見て突いてくる。
「いらっしゃいませ」
声を出しながら、結衣は心の中で自分に言い聞かせた。
仕事。仕事。仕事。
少し落ち着いた時間帯に入り、バックヤードで水を飲む。
そのタイミングで先輩も入ってきて、
同じようにボトルを手にする。
「結衣ちゃん」
背中越しに呼ばれて、結衣は小さく肩が跳ねた。
「はい」
振り向くと、先輩は笑っている。
「今日、顔固い」
一言だけ。
あまりにも短くて、逃げ道がない。
「仕事中ですので」
無難に返す。
無難に返したのに、先輩はすぐに重ねてくる。
「いつもより」
結衣は言葉に詰まった。
否定したいのに、自分でも分かっている。
今日は笑顔が硬い。
声のトーンも少し低い。
「大丈夫です」
便利な言葉が口から出る。
大丈夫。
これさえ言えば、会話を終わらせられる。
そう思った。
「大丈夫って顔じゃない」
先輩はさらっと言う。
「……分かるんですか」
「分かる」
即答だった。
「でも、結衣ちゃんの学校のことは知らないよ」
先輩は続ける。
「誰がどうとか、何があったとか」
「だから、決めつけはしない」
その言葉は、少しだけ意外だった。
からかい担当のくせに、こういう時だけ妙に誠実な言い方をする。
「ただ」
先輩はボトルのキャップを閉める。
「結衣ちゃんが考えすぎてるのは分かる」
結衣は息を吐いた。
「考えないように、仕事をしてるんです」
「それ、余計考えてる」
即答。
「先輩、容赦ないですね」
結衣は苦笑いでごまかす。
「容赦したら、結衣ちゃんもっと固まる」
それも即答。
「なんでそんな自信満々なんですか」
「経験」
「何のですか」
「結衣ちゃんの」
さらっと言われて、結衣は一瞬言葉を失った。
その言い方はずるい。
事情を知らないのに、知ったように言うのは違う。
でも先輩の言い方は、「事情」じゃなく「結衣だけ」を見てきた人の言い方だ。
「先輩は、空気読むの苦手ですよね」
結衣が言うと、先輩はにやっと笑った。
「そう。苦手」
「じゃあ、読もうとしてください」
「読めないから、壊す」
宣言された瞬間、結衣の理性が少し揺らいだ。
「壊さなくていいです!」
思わず声が大きくなって、結衣は慌てて口元を押さえる。
バックヤードに誰もいないのが救いだった。
先輩は楽しそうだ。
「ほら、今」
「顔、戻った」
「そういう計算ですか」
「結果論」
「絶対違います!」
ツッコミの勢いで敬語が薄れそうになり、結衣は急いで言い直す。
「……違います、です!」
自分でも変だと思う。
先輩は肩を震わせて笑った。
「今の、かわいい」
「言わないでください!」
結衣は顔が熱くなるのを感じる。
仕事用の仮面が、簡単に剥がされていく。
「結衣ちゃんってさ」
先輩は少しだけ声を落とす。
からかいのトーンなのに、目は妙に真剣だ。
「頑張りすぎると、顔が頑張りすぎる」
「頑張りすぎる顔って、なんですか」
「全部ちゃんとしようとして、眉間が寄る」
「そんな」
「する」
即答。
「結衣ちゃん、自分のこと分かってない」
その言い方に、結衣はむっとするはずだった。
でも、むっとしきれない。
なぜなら、図星だからだ。
結衣は誰かの気持ちを受け止めるのが癖になっている。
相手が真剣なら、自分も真剣に返さなきゃいけない気がする。
その結果、どこかで自分が疲れる。
「先輩は、何も知らないのに」
結衣はぽつりと言う。
「どうして、そこまで言えるんですか」
先輩は少しだけ首を傾げた。
「知らないからだよ」
「え?」
「事情を知らないから、余計な意味をつけない」
「結衣ちゃんが今、疲れてる。それだけ」
「だから、どうにかしたくなる」
結衣は、胸の奥が少しだけほどけるのを感じた。
理由や背景を聞かれないのが、こんなに楽だなんて思わなかった。
「……でも」
結衣は言う。
「先輩の“どうにかする”って、だいたいからかいですよね」
「うん」
肯定するな。
「……やめてください」
「やめない」
「そこは譲らないんですね」
「譲らない」
即答が早すぎる。
結衣は思わず笑ってしまった。
悔しいけれど、さっきより息がしやすい。
その後、忙しさが戻り、結衣は持ち場へ戻る。
不思議と手が止まらなくなっていた。
先ほどまでの重さが少し薄い。
営業終了後、片付けを終えてエプロンを外す。
結衣は大きく息を吐いた。
「お疲れ、結衣ちゃん」
「お疲れさまです、先輩」
敬語に戻すと、先輩は満足そうに頷いた。
「うん、戻った」
「……何がですか」
「結衣ちゃん」
先輩は軽く言う。
「無理してる顔、少しマシ」
「……それ、先輩のせいですか」
「そうかも」
「自信満々ですね」
「自信ある」
結衣は呆れたように笑う。
店を出ると、夜風が少し冷たい。
先輩は手を振って、先に歩き出す。
別れる直前、先輩が振り返った。
「結衣ちゃん」
「はい」
「私は学校のこと知らないし、聞かない」
「だから、結衣ちゃんの“答え”も聞かない」
一拍置いて、続ける。
「でも、結衣ちゃんが考えすぎる顔は好きじゃない」
それだけ言って、先輩は去っていった。
結衣はしばらくその場に立ち尽くす。
事情を知らない。
深入りしない。
でも、今の自分だけは見ている。
「ほんとに、空気壊すのうまいなぁ」
小さく呟き、少しだけ笑った。
先輩は、正解を出さない。
代わりに、結衣を現実に戻す。
それが今の結衣には、妙にありがたかった。
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