婚約破棄されたけど、私は幸せです
平瀬ほづみ
婚約破棄されましたが、私は幸せです
「そういうことなら、君との婚約を破棄したい」
バラが美しく咲き乱れる初夏の庭園にて。
サラは目の前で優雅に微笑むジョエルに困惑の眼差しを向けた。
「どうして……」
「前から考えていたことなんだ。いつ切り出そうか、悩んでいた」
相談したいことがあるから時間を作ってほしいと頼んだのはサラだ。
そういうことなら、外を歩きながらのほうがいいかもしれないねと時間を調整し、バラの咲く庭園にサラを案内してくれたのはジョエルである。
「……その理由をおうかがいしてもよろしいでしょうか、ジョエル殿下」
「そうだね。……僕には好きな人がいる、というのが一番の理由だな」
ジョエルの告白にサラは目を見開いた。
ジョエルはこの国の王太子、サラはこの国の侯爵令嬢。二つ違いの二人は十五歳と十三歳の時に婚約をした。
年齢と家格が釣り合う令嬢が、サラ以外にいなかったというのが理由だ。
国王と議会が決めた結婚だった。
ジョエルにもサラにも拒否権はない。
ジョエルのことは以前から知っていた。
この国の王子様なのだから、当然だ。
金髪碧眼、とても整った顔立ちをしており、華がある。どこにいても目立つ。文武両道のうえに性格は穏やかと、非の打ち所がない少年だった。
サラが婚約者に決まった時も、「君とならうまくやっていけると思う」と微笑んでくれたものだ。
それ以来、サラはすべての行事でジョエルのパートナーを務めてきた。
一方の自分は黒髪黒目、地味顔。性格も内向的。
とても完璧な王子様の隣にふさわしいとは思えない。
年齢と家柄以上の取り柄がない。
だから、ジョエルのパートナーとしてふさわしくあろうと、サラ自身も学問だけでなく礼儀作法や教養を身につけるために努力してきた。
見た目が地味だから、ジョエルの隣に立っても笑われないようにと、美容にも気を付けてきた。
……けれど、そうした妃教育はサラにとっては苦痛で……
ジョエルは何も言わない。
何も言わないけれど彼は常に完璧な王子様。
彼は生まれついての王子様。
一方の自分は、家格と年齢だけで白羽の矢が立っただけの地味な女の子。
ジョエルの隣に立つのにふさわしいとは思えない。
でも拒否権はない。ジョエルとの結婚は国が決めたことだから。
たくさんのことを知らなければならない。教養は多いほうがいい。その中に絵画があった。
楽器は練習が大変。ぜんぜん指が動かない。
詩は本当に才能がないみたい。美しい言葉が思いつかない。
でも絵は楽しい。才能はないけれど、混ぜ合わせた絵具をキャンバスに塗り込んで色が広がっていく様子が楽しい。それに絵を描くと、心の中のざわざわがすっきりする。
言いたいことが言えない代わりに、絵の中に言いたいことを塗りこめる。
「君には才能があるよ、サラ」
絵を教えてくれていた老画家は常にサラを褒めてくれた。
「君がジョエル殿下の婚約者でなければ、カルネンへの紹介状をいくらでもしたためたところだ。あそこには私の知り合いがたくさんいるからね」
カルネンは異国にある芸術の都の名前だ。
「君は才能あふれる芸術家だ。カルネンで学べば大きく羽ばたけるだろうに」
「もったいないお言葉ですわ。でも、無理です。私はこの国から出られません」
「そんなことはないさ。学園の最後の一年だけでも留学してみたらどうだい? 留学くらいはできるんじゃないか? というより、そこで留学しなければ二度とカルネンで絵を学ぶ機会はないだろうね」
老画家の言うことはもっともだ。
学園を卒業したら、ジョエルと結婚することが決まっている。
結婚したら、サラは正式な王太子妃。
好きなことを好きなだけ思いっきりやる、なんてことはまず無理。
王太子妃には王太子妃の役割があるし、スケジュールは分刻みだ。
この国では離縁は認められない。サラは死ぬまでジョエルの妃の役割を果たさなければならない。完璧な王子様、そして王様になるであろうジョエルの隣で、ジョエルにふさわしい妃でいなくてはならない。
それはサラにとってとてつもない重圧だった。
だからこそ、老画家の「学園の最後の一年だけでも留学してみたらどうだい?」という言葉が胸に刺さる。
そう、最後の一年だけ。
ジョエルの婚約者になって、ずっと我慢してきた。ワガママなんてひとつも言っていない。「ジョエル殿下にふさわしい女性になりなさい」そう言われた通りにしてきた。
この夢が叶えばあとは我慢する。
だから、行きたい。
どうしても行きたい。
考えに考え、誰に相談するかも考え……考えた結果、まずはジョエルの許可がとれなくては話が進まないと思い至り、
「学園の最後の一年間、絵を学びにカルネンに行きたいのです。帰国したら、ジョエル殿下のお妃様を頑張りますから、最後の一年だけは」
つい先ほど、サラは思い切ってジョエルにそう切り出した。
そして返ってきた言葉が「そういうことなら、君との婚約を破棄したい」だったのだ。
「……ジョエル殿下には、その、好きな女性が……いらっしゃったのですか……」
呆然と呟くサラに、ジョエルはいつも通りの微笑を浮かべたまま頷いた。
ジョエルの表情はあまり動かない。常に穏やかで、微笑んでいることが多い。付き合いの長いサラでも、ジョエルの本心はよくわからない。
「私との婚約は、命令でしかたなく……?」
「それは君も同じだろう、サラ」
「……そう、ではありますが……」
ジョエルもサラと同様、この国の上流階級が通う学園に籍を置いていたから、たくさん友人がいることは知っている。けれど彼らとの付き合いは最低限で、常にサラが優先だった。
特定の女性と仲良くしている気配も感じたことがない。
これはサラや相手に誤解させないために気を付けていると、ジョエル自身が言っていたことだ。
ジョエルは婚約者としてサラに敬意を払ってくれている。
それが嬉しくもある一方、自分は果たして彼にふさわしいレベルにあるか? それは常に思っていた。ジョエルの女友達のほうがよっぽど妃にふさわしいと思ったことは一度や二度ではない。
そうか、ジョエルも命令だからしかたなく優しくしてくれていたのだ。
本当は好きな人がいたのに、サラがいるからその気持ちを押し殺して……恋を諦めて……
「僕が優柔不断で君につらい思いをさせたね。僕たちの婚約は破棄しよう。父上にも議会にも僕から話を通す」
国の決定だからこの結婚からは逃れられないと思っていた。
でもジョエルは「その人のため」なら、国の決定も覆そうというのか。
その人のためなら、ジョエルは国にも楯突けるというのか。
彼にはそんなに強い想いを寄せている女性がいたのか。
全然気づかなかった。
どうしてだろう、胸がチクチクする。
チクチクが広がっていく。
「……ジョエル殿下は、その方がとても大切なんですね」
「そうだよ。とても大切だ。そのせいで彼女をずっと苦しめていたし……君にも悪いことをしたと思っている。長い間、すまなかったね、サラ」
ジョエルが微笑む。
どこか寂しそうな微笑だった。
それがジョエルに会った最後となった。
その後、ジョエルは国王と議会をなんと言って説得したのか不明ながらサラとの婚約破棄は認められた。
サラは婚約破棄された令嬢として学園や社交界でクスクス笑われるはめになり、娘の心を思いやった両親によってしばらく外国にいる伯母夫婦のもとで過ごすことになった。
行き先はカルネン。
老画家からの推薦状があったので、現地の美術学校で学ぶことにした。
外国からの留学生が多い学校だったので、サラの生まれ育ちは特に注目されることはなかった。
一年で帰るつもりだったけれど、一年目の終わりに、大きな工房にアシスタントとして誘われた。
そんな小間使いみたいなことを侯爵令嬢がするなんて、と伯母は眉をひそめたが、サラは無視して引き受けた。確かに小間使いみたいな仕事だったけれど、古い絵画の修復や、新規着工する市庁舎を彩る絵画の作成に関わるのはとても楽しかった。
工房で一緒に働く男性に告白もされた。
ドキドキした。
でも断った。
どうしてもジョエルと比べてしまうからだ。
留学して一度も連絡はとっていない。
それどころか、帰国すらしていない。
ジョエルはどうしているだろう。
好きな人と一緒になれた?
幸せになれた?
――義務で優しくしなければならないなんて、つらかったでしょうね。私がもっと早くに気付いてあげればよかった。どんくさくてごめんなさい。
ジョエルが好きな人とは、どんな人なんだろう?
たぶん自分とは正反対。華やかで、きびきび行動して、妃教育に重圧を感じないタイプ。
ジョエルの隣にいてもかすまないタイプ。
ジョエルの顔を思い出すたびに胸の奥がきゅーっとなる。
寂しい。切ない。苦しい。……恋しい……。
そうか、自分はジョエルのことが好きだったのか……。
遠い異国の地で、こんなに時間がたって気が付くなんて、マヌケにも程がある。
でも完璧な王子様の隣に立つには、自信がなさすぎたのだ。
結局、男性の告白は断った。
「そうか。だったら、仲のいい仕事仲間のままでいてくれよな」
そう言っていたくせに、彼は半年もしないうちに知らない女の子と結婚していた。
「あいつ、誰でもよかったのかしら。あんなのと結婚する羽目にならなくてよかったわね、サラ」
デレデレと結婚報告をする男性を後目に、同僚(女性)にそう声をかけられた。
そうね、としか答えようがない。
彼と結婚していても幸せになれたような気がするし、なれなかったような気もする。
未来のことなんて誰にもわからない。
工房にはいろんな仕事が持ち込まれる。
絵を描くことより、絵を描く知識や技術が求められる。
「依頼主あっての絵描きだよ」
とは、工房主がよくこぼしていた言葉だ。
工房に来てから、自分の絵は描いてないな、と気が付いた。
今ならどんな絵が描けるだろう?
どんな絵を描きたい?
毎年、実家から「いいかげん帰国しなさい」という連絡が来る。
サラは侯爵令嬢とはいえ、兄がいるので家のために結婚しなくてはならないという立場ではない。
のらりくらり話をかわしているうちに五年が過ぎた。
サラのいる工房に祖国から絵画の知識を持つ人間を派遣してほしいという連絡が届いた。
なんでも、王宮所蔵の博物館が水害にあって壊滅的なダメージを受けたのだという。
「そういうことなら、サラが適任だな」
工房主、つまり上司に命じられては断れない。
サラは五年ぶりに祖国に戻った。
気になるのはギャラリーの収蔵品よりも、ジョエルのことだ。
あれから五年が過ぎている。
ジョエルはもう結婚しただろうか。
赤ちゃんが生まれているだろうか。
「君が修復の責任者とはね」
泥水が流れ込んだ痕跡も生々しい博物館にて出迎えてくれたのは、ジョエルだった。
真夏の夜に発生した雨雲は丸一日、大雨を降らせて王都を水浸しにしただけでなく、大規模な土砂災害も引き起こしていた。
博物館も土砂に呑み込まれた建物のひとつだった。
豪雨からひと月近く経過しているため、土砂そのものは撤去されているが、それ以外はそのまま。まずは市民の生活の再建が先だからだという。
「立派になったね、サラ」
工房から派遣された修復士なので、サラは作業着姿だ。
「……ご無沙汰しております、ジョエル殿下」
その姿のまま淑女の礼をとるのはちょっと滑稽だなと思いながら、サラはジョエルに対し腰を落として礼をしてみせた。
「カルネンでの日々は楽しい?」
そんなサラを気にした様子もなく、ジョエルが近づいてくる。サラは顔をあげて久しぶりに――五年ぶりに、元婚約者の顔を見つめた。
あの頃より精悍さが増して、より男らしくなったと思う。
あの頃よりは少し疲れた感じがする。
ジョエルは年老いた父親に代わり摂政として国政を執っているそうだから、いろいろと大変なのだろう。
「そうですね。充実しています」
「この国に戻るつもりは?」
「……残念ながら」
「結婚した?」
「していませんが……」
突然の話題の飛躍。
「そうか。でもカルネンには戻りたいんだね。ああ、もしかして結婚を約束した男性が」
「おりません。毎日絵具だらけ埃だらけで働いておりますので」
「……君らしいね。それで君の美しさが損なわれる気はしないんだけど、誰も君の魅力に気が付かないのかな。カルネンの男たちは目が節穴だ」
ずいぶん絡むではないか。
いったいどうしたのだろう。
彼らしくない。
サラが困惑すると、ジョエルが「すまない」と詫びてきた。らしくない自覚はあるみたいだ。
やっぱり疲れているのだろう。
「まあ、それが君の選んだ道なんだ。自分で選んだ道であれば、何が起きても納得できる」
そう言って微笑むジョエルが妙に寂しそうなので、サラは首をひねった。
「ジョエル殿下は、納得されていらっしゃらないのですか? 婚約破棄はジョエル殿下が選ばれたことです。カルネンは遠すぎてジョエル殿下のお噂が届かないのですけれど、ご結婚は」
「していないよ」
「……え? だって」
好きな人がいると言っていた。その人のためにサラとの婚約を破棄したいのだと。
「僕の好きな人は、僕より絵のほうが好きだったみたいでね。今も絵に夢中になっていることはよくわかった」
絵に夢中?
ジョエルの好きな人は絵が好きなのだろうか。
「うん。君がものすごく鈍いということを思い出した。……君との婚約だけど、僕がサラを選んだんだ。あの子がいい、って。候補は何人もいたし、サラは内向的だから妃には向かないという声もあった。僕がフォローするといって反対意見をねじ伏せた」
ぽかんとするサラにジョエルが告げる。
「……え?」
「僕が君を選んだんだよ。君に拒否権がないこともわかっていた。だから君のことは大切にしてきたつもりだ。君を悪く言う人間は片っ端から潰してまわったしね。……それでも君はずいぶんつらそうだった。見ていられなかった。このままだと君が壊れてしまうと思ったんだ。僕のわがままのせいで、君が壊れたら大変だ」
「……」
「僕が君の自由を奪っていたんだよね。思った通り、自由になった君はすごかった。びっくりしたよ。異国でバリバリ働いて、修復士となって戻ってきた」
僕が君の足かせになっていたんだね、と……呟く声が聞こえた気がして、サラは首を振った。
「違います。私が至らなかったから。私ではジョエル殿下に足りないと思ったから」
「今なら?」
「今……?」
「いや。いい。君は君の力で翼を得た。君の道を行きなさい。僕はここから動けない。……君の幸せを願っているよ、サラ」
そう言って去ろうとするジョエルの腕を慌てて掴む。
「この博物館の収蔵品の修復には、ものすごく時間がかかると思います。その間はこの国に留まります、私」
「……どれくらいかかる?」
「わかりません。私の一生くらいかかるかも」
「……」
「ですから、私を雇いませんか? この博物館専属の修復士として」
ジョエルが目を見開く。
「……雇うとしたら、僕専属がいいかな。それで」
ジョエルはそこで言葉を区切って呑み込んだ。
「それで?」
「いや、その先はちょっと」
「気になります。言ってくださらないのなら、絵筆で足裏をくすぐりますよ。それとも脇腹がいいですか」
「どっちも筆舌に尽くしがたい拷問だな。サラは強くなったね」
「それは、まあ……。で、『それで』?」
雑談でごまかすなと告げれば、ジョエルは諦めたように笑った。
「……家族の肖像画を描いてほしいなと思ったんだ」
「ジョエル殿下の?」
「そう。……できれば、僕の妃と、子どもたちも」
ジョエルの顔が赤い。
赤い!
ジョエルがはっきりと表情を変えるところを初めて見た。
いつも穏やかに微笑んでいることが多いのに!
「それって、ええと……」
「鈍すぎだろ、サラ」
そう言ってジョエルが手を差し伸べてくる。
サラはその手に自分の手を差し出した。
引っ張られる。抱き締められる。
ああ、サラだ、本物だ……とジョエルが耳元で呟く。
五年前は、この人の隣に立つのが怖かった。
でも今なら?
今でも怖い。もちろん怖い。
でも今なら大丈夫な気がする。
なぜならサラには絵筆があるから。
これで人を殴ろうというわけではない。
サラに自信を与えてくれたものがあるからだ。
五年前の自分たちに足りなかったものはなんだろうかと思いをはせる。
わからない。
時間なのかもしれない。
「………肖像画ですけど、お妃様、すごく盛って描いてもいいですか」
ツケマバーン、胸もバーン、みたいな感じで、とジョエルの腕の中で申請したら、
「なぜ」
ジョエルが呆れた声を出した。
「だって、私をそのまま描いたら、あなたの横でかすんでしまうもの」
「サラ……本気で言っているの?」
***
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