第9話
梅雨。それは常にじめじめしていて、朝起きるだけでうげーってなる季節。まぁ年がら年中朝起きたタイミングでうげーってなってはいるんだけど。
特に今日はそのうげーって感情が大きい。
額の辺りから、つーっと顎の下にかけて猛烈な熱を感じ、違和感を覚える。胸元もぐるぐるぎゅるぎゅるって変な感じ。一言で言うなら気持ち悪い。それだけ。
「あー、これやっちゃったかもしれんなぁ……」
薄めの布団に包まりながら、額に手の甲を当ててつぶやく。
とある可能性がぽつりと浮かび、そうでなければ良いな、と浮かんできた現実に近い可能性から目を逸らす。多分十中八九そうだろうって、わかっているからなおさら目を背けたくなる。
額に当てた手の甲はすぐに熱を持った。あれ、ホッカイロでも持ってたっけってほどのスピード感である。
じわじわと手の甲から腕、肩へと伝っていく。
冬であれば嬉しいが、梅雨の時期に身体が温まったって嬉しくともなんともない。むしろウザイ。
「あっつ……」
と、無意識のうちに声を漏らしてしまうほどだ。
変な汗もかいてくる。額からはもちろん、胸の谷間や肩甲骨の間、腰あたりにも汗が溜まっている。ベタベタした感覚が気持ち悪さを増幅させる。
なんかもう色々な気持ち悪さが襲ってきて嫌になり、目を閉じる。そしてふーっと息を吐く。その息さえももやもやした感じで、気持ち悪さがあった。なにをしても気持ち悪さが付き纏う。最悪だ。
とりあえずベッドから降りる。気分転換も兼ねる。このまま寝そべっていてもどうせ気分は晴れない。
床に足をつけた。ただそれだけなのに、ふらっと目が回る。倒れそうになってしまった。生理の時でさえ、ここまで露骨な立ちくらみは起こったことはない。壁に手を当てて、一息吐く。
壁が冷たい。まるでコンクリートでも触っているかのようだった。
「水飲めばどうにかなる……はず。多分、きっと……」
と、つぶやきながらキッチンへと向かう。
足取りは重たい。物理的に。両足に重りでもつけているような感覚だ。
頭では動かしているつもりなのだが、身体が言うことを聞いてくれない。踏み出しているつもりなのに、全然動いていない。
「あっ……」
足がもつれた。もつれたら当然バランスを崩すし、この調子では体勢を立て直すことなんて難しい。ふらふらと揺れて、これはもう転ぶしか選択肢はないんだなと悟る。だから受身を取る。せめて痛くないように転ぼう、と。
どんっ!
という激しい音が響く。しっかりと転んでしまった。しかし痛みはさほどない。上手い転び方ができたのだろう。強いて言えば手のひらがじわじわと痛むくらい。
立ち上がることすら億劫で、フローリングに頬をつける。
「つめたっ」
ピタッと付けたのと同時に全身にフローリングの冷たさが駆け巡った。
ひんやりしていて気持ちが良い。
一生このまま、ここで眠れたら、どれだけ幸せなんだろうなぁ。なんて思いながら。私はゆっくりと意識を手放した。
背中はふわふわしていた。身体の節々が痛むことを覚悟していたのに、それもない。
ただ胸元から足先にかけて、若干の重たさを感じる。誰かが乗っている……みたいな重たさではない。本当に若干の重み。
額には熱さがなく、代わりにひんやりとした感覚があった。ピタッとなにかが貼り付けられている。多分。
さっきまでフローリングでうつ伏せになっていたはずだった。気のせいではない。絶対にそう。だって頬が冷たいなとか思っていたもん。でも、この感覚はどう考えてもベッドだ。フローリングではなく、ベッドで眠っている。しかも律儀に布団までかけて。
記憶と現実に差異があって、なにがどうなっているのか、考える。
倒れた時に頭を打った記憶はない。でも、もしかしたら頭を打ったのかもしれない。でもその時の記憶すら飛ばしているので、正解はわからない。頭を打ったのなら問答無用で病院へ行くという選択ができるのだが。そうじゃないので、ふむと足踏みしてしまう。
「河合さん。おはよう」
目を開ける。私の視界に入ってきたのは新垣紗優であった。目を細め、眉を顰め、目を擦り、瞬きを数回してみる。それでも新垣紗優が見える。
居ること自体にそんな驚きはない。
おかしな話ではあるが、彼女は私の家に神出鬼没であるから。
「おはよう」
とりあえず挨拶の返事だけはしておこうと思って、挨拶を返した。
「起きて早々だけど、食欲はある? もしもあるならなにか作ってあげよーかなーって思ってるけど」
「食欲……?」
ストーカーが家政婦に進化した。なんか料理を振舞ってくれるらしい。
さゆちゃんが料理……と、一瞬躊躇した。料理スキルがどんなもんかは知らない。ただストーカーが作る料理とか、なんかヤバそう。変な薬入れられたりしそうだし。
「ない?」
私の心配を他所に、彼女はぐいぐいくる。
「お腹は空いてる……」
「じゃー作っちゃうかー。お粥とうどんどっちが良い?」
「ハヤシライスが食べたいかも」
「病人にハヤシライスはちょっと重たすぎるんじゃないかなー。今日はお粥かうどんにしておいた方が良いよ」
私は首を傾げる。
そういえば、フラフラしてフローリングで寝ることになったんだっけ。
なんだか風邪引いたかもしれないなーって感じだったのを思い出した。
なるほど、なるほど。
なんとなくわかってきた。
つまり、私は風邪を引いていたのだろう。で、風邪を引いている中、立ち上がって歩き、体調の悪さに耐えきれずに倒れてしまった、と。そこで偶然やってきた私の推しが倒れている私を見つけて、ここまで運んだ上に看病してくれている、と。概ねこんな感じではないだろうか。
我ながら非常に冷静な分析ができている、と自画自賛したくなる。
「じゃあうどんで」
「あいよー、うどん一つ注文入りましたー」
彼女は口元に手を当てて、キッチンに向かって叫ぶ。
「誰か他にいるの?」
「いないけど」
なに言ってるんだみたいな顔をされる。ん、私がおかしかったのかな。おかしかったのかもしれない。
「作ってきたよー。うどん」
素うどんである。調子的には肉うどんでも構わない、という感じであったが、多分さゆちゃんは食べさせてくれないだろう。余計な労力は使わない。なので掛け合うこともしない。
「ありがとう。いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
口にうどんを含む。
同時にさゆちゃんは近付いてくる。まるでこのまま唇を重ねるんじゃないかってくらいの勢いだ。しかも躊躇もない。迷いが一つもない。目的があって、ただそれを遂行することしか目に入っていない、という感じ。
真っ直ぐ、だ。
手を伸ばす。
目を閉じる。
覚悟した次の瞬間、脇に冷たい感覚があった。
唇にはなんにもない。あるのはさっき食べた素うどんの素っ気ない味だけ。
「体温計……」
「体温計だよ?」
離れた彼女は首を傾げる。心底不思議そうであった。ついに体温計すらわからなくなってしまったか、と思われたかもしれない。
沈黙が流れる。
私はなにも弁明しないし、さゆちゃんはさゆちゃんで特になにも言わない。互いに黙るから、沈黙が続く。そして沈黙が続けば、口を開きにくくなる。なんだか大事なことじゃないなら言っちゃいけない。みたいな気持ちにさせられる。もちろんそんなことないってのはわかっているのだが。
沈黙を切り裂くように、体温計は計測終了の音を鳴らす。そこまで大きい音ではない。なのに響いた。
体温を確認する。
「何度だった?」
「三十七度五分。微熱って感じかな。熱と微熱の狭間って感じ」
平熱三十六度六分の人間からするとなんとも言えない数字だ。まぁ小中高生であれば問答無用で学校を休まされているような体温ではある。
「んー、下がってはいるね。でもまだ高い」
「下がってるって、これで?」
「うん。最初寝かせた時は三十九度四分だったんだよ。死んじゃうんじゃないかって心配してた」
マジかよ。しっかり風邪引いてるじゃん。季節が季節ならインフルエンザとか疑うレベルだ。そりゃハヤシライスの注文を却下するわ。私でも同じ判断を下す。
「そんな熱出てたなら薬飲まなきゃ」
「飲ませたよ。解熱剤と鎮痛剤。市販薬だから、病院行ってちゃんとしたのもらった方が良いかもしれないけどね」
「どうせ行ったって同じの貰うだけだよ。てか、いつ飲んだの? 全然記憶ないんだけど」
「意識朦朧としてる中だったから覚えてなくてもしょーがないよ」
どうやら私は相当酷い状態だったらしい。さゆちゃんが居なかったらもっと辛い思いをしていたはずだ。感謝してもしきれない。
「次は水飲んで」
「そんな喉乾いてないんだけど」
「病人はしっかり水分補給しないと、だよ?」
珍しく正論パンチをぶつけられてしまった。
「というか、さ」
水を飲んでから話題を持ちかけた。うどんが入っていた丼を持って立ち上がった彼女は足を止めて、こちらに顔を向ける。
「なにしにウチに来たの? なんか用事があったんじゃない?」
「用事がないと来ちゃダメなの?」
質問に質問で返された。
しかも面倒な恋人みたいなセリフである。
いつもなら「そうだよ、ダメだよ」って一蹴するところなのだが、今回は助けられている。適当なことはできない。
「そういうわけじゃないけど」
結果として微妙な反応だ。肯定もしないし、かと言って否定するわけでもない。あやふやな答え。
それを聞いて「ふーん」と反応する。
彼女はすぐにスタスタと歩き出す。
「看病しに来たんだよ。河合さんが倒れてるって気付いたから、ね」
角を曲がって背中がすぐに見えなくなった。
なに? 愛の力で倒れてるって気付いたって、こと?
そんなわけないじゃーん、って普通はなるんだけど、さゆちゃんの場合だと違う。もしかしたらありえるのかもしれない……というありえない可能性を考えてしまう。
おー、こわ。
真面目な話、なにか用件はあったんだろうね。
私にとって良い話か、悪い話か、はわからないけど。
うどんを食べてから一時間ほどが経過する。
喋って、食べて、飲んで。
熱がある中、そんなことしていたら当然だが眠くなってしまう。
これは多分人間としての本能みたいなものだろう。
「眠そうだし、私はこの辺りでお暇させてもらおうかなー」
さゆちゃんはそう言って、立ち上がる。
手繋いでてよ、と甘えたこと言いたくなったがやめておく。推しにそんなことお願いできない。それに恥ずかしい。熱に犯されていても、羞恥心はしっかりと残っている。
「こっち来る時に、ゼリー系とスポーツドリンク買っておいたよ。冷蔵庫に入ってるからお腹空いたりしたら食べてね。あ、ガッツリしたものはまだダメだよ。ハヤシライスとか論外だから」
至らる尽くせりである。小言も含めて、ママみを感じる。
そのまま彼女は立ち去ろうとする。
「え、用件は?」
「ん? だから看病しに来ただけだって」
ふざけている様子も、嘘を吐いている様子もない。真剣そのもの。
「お大事にね」
「え、あ、う、うん。色々ありがとう。素直に助かった……」
感謝はしっかりと伝える。ここで強がってもしょうがないし、なによりももう眠い。
すぐに彼女の背中は見えなくなった。
本当はなにをしに来たのか。それはわからない。
でもまぁ、来てくれて、看病してくれて、とても助かった。うん、今はそれだけで良いか。
深くなにか考えることも、勘繰ることもぜんぶ一旦やめてしまおう。
誰も幸せにならないかもしれないから。
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