『異世界』に『家出』する ~ 真白とパンダとお嬢様 ~

藍銅 紅(らんどう こう)

真白  『異世界』に『家出』する ① 

 古いアパートの二階。ペンキが剥がれかけた玄関のドア。いつものように、ランドセルにつけてある鍵をまわして、そのドアを開ける。

「あー、もうっ! むっかつくっ! お母さんの顔なんて見たくないっ! 絶対に家出するっ!」

 桃花お姉ちゃんの怒鳴り声。

 ドアを開けたまま、わたしは息を呑んだ。

 家出……って、なに?

「桃花っ! あんた、なにを言うのよ……」

「あたしに家出してほしくなかったら、スマホくらい買ってよっ!」

 ケンカ……してるの? 

 スマホが欲しくてわがままを言ってるだけ……?

「中学生にもなってキッズケータイを使い続けているって、ありえないでしょ。クラスの友達はみんなスマホだよ? あたしだけ……」

「仕方ないわよ。うちにはお金がないの」

「だったらもっと働けばいいじゃんっ!」

 桃香お姉ちゃんの声がトゲトゲしてる。

「……これ以上、どうやって? ただでさえ夜勤続きで疲れてるっていうのに。これ以上働けなんて……。お母さんに死ねっていうの?」

 怒って、爆発する寸前みたいなお母さんの低い声。

 怖い。

 わたしが叱られているみたい。

 お母さんは毎日すごく大変。

 夜に働いて、朝に帰ってくるときもあれば、昼間に働いて、夜は家にいることもある。

 病院で、病気の人のお世話をするのはしんどいって、いつも言っている。

 わたしが小学校から帰ってくる時間は、たいていソファでぐったりとしているか、仕事で不在。

 でも、仕方がない。うちにはお父さんがいない。

 中学生のお姉ちゃんと小学生のわたしは働くこともできない。

 お洗濯とかお掃除とか、お手伝いするのが精いっぱい。お料理は、火を使うのはダメだって言われている。だから、お母さんがお休みの日に作っておいてくれる、日持ちのするおかずを保存容器に詰めて、冷蔵庫に入れる程度。

 仕事して、お家のこともして、お母さんはいつも疲れている。少しくらい、休ませてあげたいなと思うんだけど。わたしにできることは少ない。

 なのに、ケンカしてるなんて。

 桃花お姉ちゃんはひどい。

 そう思った。

 だけど。

「あたし一人だけ、みんなとちがってはずかしいのよっ! スマホじゃないし、塾も通わせてくれないし。休みの日に友達と一緒にカラオケに行くことすらできないなんてっ!」

 みんなと、ちがって、はずかしい。

 桃花お姉ちゃんの、その気持ちは……わたしも、わかる。わかってしまう。

 わたしの黒いランドセルは、いとこからのおさがりだ。

 みんなと同じ、新品が欲しかった。

 色も黒なんかじゃなくて、かわいい水色が良かった。

 でも、それを言うとお母さんが困るから「黒もカッコイイね」なんて、笑ってみせた。だけど、ホントは嫌だった。

 わたしが着ている服も、持ち物も、ぜんぶ、桃花お姉ちゃんのおさがり。洋服のタグに「桃花」って名前が書いてあって、それをマジックで消して、その横に小さく「真白」と書く。

 わたしはキッズケータイも持っていない。

「真白には必要ないよね。学校とお家以外に行かないもんね」ってお母さんは言う。

 図書館だって、友達と一緒に公園にだって行くよ。ちゃんと夕方の五時には家に帰るから、必要はないかもしれないけど……わたしだってほしい。

 でも、新しいわたしだけの物を買ってくれることは、きっとない。必要になるときが来ても、桃花お姉ちゃんのおさがりをもらうことになるだろう。

 だから、いつかわたしも、今の桃花お姉ちゃんのように「みんなはスマホを使っているのに、わたしひとりだけ、お姉ちゃんのおさがりのキッズケータイなんて恥ずかしい」と言うかもしれない。

 家出するなんて。桃花お姉ちゃんみたいに、わたしも言うようになる?

 でも、家を出て、どこに行くの? 

 学校? 

 公園? 

 ごはんはどうするの? 

 寝るところは? 

 お金だって……ないのに。

 桃花お姉ちゃんの気持ちはわかるけど、だけど、お母さんに怒鳴ったって仕方がない。お金がないというのはどうしようもない現実だ。

 ランドセルを背負ったまま、わたしはそっとドアを閉めた。

 足音を忍ばせて、階段を下りる。

 外は晴れ。もうすぐ夏休み。青い空には大きな真っ白い雲が見える。冬と違って学校から帰ってくる時間も、空にはまだぴかぴか太陽がある。

 だけど、家の中は豪雨みたい。真っ黒な嵐が吹き荒ぶ。

 あの言い争いの嵐の中に入りたくない。

 お母さんと桃香お姉ちゃんの、ケンカの声なんて、聞きたくない。

「……学校に、戻ろうかな」

 だけど、下校時刻は過ぎている。

 学校に行ったら、先生に怒られるかもしれない。校門も、閉まっているかもしれない。

「……忘れ物をして、取りに来たって言ったら、大丈夫かな。ウソだって、ばれちゃうかな」

 通学路をとぼとぼと歩く。

 セミの鳴き声が、さっきの桃香お姉ちゃんの声みたいで、すごくうるさい。

 聞きたくない。

 逃げるみたいにして走る。

 吸い込む息が熱い。

 水を飲まないと熱中症になる。

 だけど水筒はすでに空だった。

「どうしよう……。あ、そうだ、パンダ公園」

 うちの団地から、小学校の近くまで続いている親水緑道。

 住宅街を縫うようにして、細く長く続いている川というか、水の流れがあって、その川に沿って、遊歩道がずっと続いている場所なのだけど。

 ところどころ道の幅が広くなっていて、そこに休憩用のベンチやテーブルが設置されていたりする。

 道沿いには花壇にはきれいな花も咲いている。春はチューリップ。今はひまわり。

 水道もあるから、水が汲める。

 公園と言うほどの広さはないし、遊具があるわけではないから、本当は公園というのはおかしい。

 だけど、友達はみんなその道の広いところを「パンダ公園」と呼んでいる。 

 なぜかというと、「親水緑道案内図」とかいう看板があって、簡単なコース案内図と、かわいいパンダのイラストが描いてあるから。

 単純。

 でもわかりやすい。

 川沿いで、木陰もあるから涼しいかもしれない。

「よし、行こう」

 少しだけ、足取りも軽くなる。

 日向の道から、木陰の道へ。それだけでも涼しく感じてほっとする。

「あ、あった」

 パンダの看板の、少し離れたところの水道から、わたしの持っている水筒に水を入れる。ベンチも空いていた。そこに座って入れたばかりの水を飲む。

 温い。

 お母さんとお姉ちゃんがケンカなんかしていなかったら。今頃、クーラーの効いた涼しい部屋で、氷水でも飲めたのに。

 そう思うと、無性に冷たいものが飲みたくなった。

「ケンカ……終わったかな。帰ってもだいじょうぶかな……」

 独り言をつぶやいたつもりだった。なのに。

「んー、まだだねぇ。君のお姉ちゃん、今、ソファのクッションを、君のお母さんに投げつけたところ」

 返事があった。

「え⁉」

 声に驚いて、わたしはきょろきょろとあたりを見回した。

 誰も、いない。

 いつもなら、犬の散歩とか、ウォーキングの人がいるのに。

 右を見ても、左を見ても、誰もいないのに、声がした。

 怖くなって「お、おばけ……?」とか思ったら。

「あはは、違うよ。ボク、ここだよ」と、また声がした。

 声がしたほうを見ても、やっぱり誰もいない。

 ただ、パンダのイラストの案内図があるだけ。

「わかんないかなあ、ここだよ、ここ」

 その案内図の、パンダの口がモゴモゴと動いていた。

「え……?」

 口だけじゃない。イラストのパンダがわたしに向かって手を振っている。そして、

「あ、よいしょっと」

 かけ声とともに、看板からパンダが抜け出してきた。

「やあ、真白ちゃん。ボクはアイルロポダ・メラノレウカ」

「アイル……、えっと、なに?」

 なにか呪文みたいなのを言われたけど、聞き取れない。

「……師匠につけてもらった名前は呼びにくいよね。よし、じゃあ、ボクのことは、親しみを込めて『パンダさん』と呼んでくれたまえ」


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