上洛の道
第237話 美濃の暗躍者
遠江国榛原郡大井川城 一色政孝
永禄10年1月下旬
評定の場には神妙な顔つきの男たちが勢ぞろいしていた。
今回は定期的な評定であるにも関わらず、各地の上役が名代を立てることもなく大井川城へと集まっている。
もちろん親類衆筆頭である元康や、評定見届け人である大叔父上もおられた。
「左京大夫への昇任、まこと目出度き話でございます」
そう言って頭を下げたのは元康であり、他の者たちも揃って頭を下げた。
しかし祝うというにはやはりあまりに空気が重々しかった。なぜこのような状況になっているのか。
それは簡単なことで、織田家の美濃平定失敗の報せをすでに耳にしているゆえである。ただし信長のことについてはほとんどが知らない。知っているのは元康と東西三河の上役である左衛門佐広重と左衛門督忠次のみだ。
「よい。此度の昇任については最初から決まっていたようなものである。祝われるようなことでもない」
「ですが朝廷より殿の働きぶりが認められたということは事実でございます。献金には我らが治めた税も含まれておりますゆえ、僅かばかりとはいえ力になれたことが誇らしいのでございます」
美作守氏助の言葉に他の者たちが苦笑いをこぼした。本心からそのようなことを言っていないことは明白である。ただこう言えば俺が謙遜ばかりしなくなる。謙遜すればこの者たちやその下にある領主や領民の苦労を否定することに繋がるゆえに。
「そうだな、美作守の言う通りだ。皆のおかげで此度の昇叙と昇任があった。また近くそういったお声がかけられるやもしれぬゆえ、献金の為とは言わぬが領内発展のために気を配っていってくれ」
「「「ははっ!」」」
そう言って全員が揃って頭を下げた。
顔を上げた者たちの中に、これまでの評定にはいなかった顔がある。駿中地域の上役として任じられた朝比奈三郎兵衛元長である。色々と心配されてはいたが、対武田防衛のために上役任命以降は良く働いてくれているという。特に富士方面は手厚くやってくれているとのこと。
また比較的統治に落ち着きが出てきた三河の松平分家から支援の申し出が出ていると昌友から報告を受けた。これは元長の父親が松平家と縁深いゆえのこと。今川の家臣時代から親交があったゆえに、結びつきが非常に強いとのことだ。
「さて、此度こうして皆が名代も立てずに集まったのは美濃のことがあったゆえであろうか」
早速俺は本題に切り込んだ。案の定、あの三人は「いきなりか」とでも言いたそうに顔を見合わせる。
当然のことである。やはりデリケートな問題であり、そして織田家から未だに何の報せも無いことを思えばひた隠しにしていることは明白。その一連の出来事をこうもあっさり話してよいのかと戸惑ったのであろうな。ただ隠していても仕方がない。
箝口令は敷くが、ここにいる者たちには一定の信頼を寄せている。元長に関しても、対武田と北条の最前線を預けているのだから信頼せねばどうしようもない。どうせいずれはどこも勘づき始めるのだから、俺は思い切ってこの場で話すことにした。
「蔵人佐、今明らかにされている情報を話せ」
「はっ!」
「よりにもよって私にその役目をさせるのか」とでも言いたそうな顔である。
しかし三河での軍事的活動について、他の上役もすでに耳に入れていることは間違いない。織田家を中心に何が起きたのか、納得のできる説明が出来るのはこの場において元康しかいないのだ。まぁ俺が不在の際に与えられる指揮権を行使したわけであるから当然の話よ。
「昨年末より織田上総介様が起こされました美濃平定におきまして、美濃国斎藤家に属していた東西の国人衆が相次いで織田家に寝返ったようでございます。おそらく隣国からの干渉を防ぐ目的もあったのだと思われますが、そのおかげもあり西側は稲葉山城までの道が一気に切り拓かれ、東側も可児・土岐・恵那の三郡の大部分が美濃国入り早々に手中に収まったと」
「それは…。この結果が想像できぬほどに大戦果であったようで」
駿西地域の上役である丹波守真尭が驚きの声を上げる。ただ実際にほとんどが思った以上に感嘆の声を上げるなり、驚きの表情を見せた。
俺もこれは美濃平定も成ると、なんとなくそう思っていた。
しかし結果はまったく違う様子となる。
「しかしその寝返った者たちの中に裏切り者らが潜んでいたようでございます。松平の手の者に調べさせておりますが、どうやら西側で織田家に寝返った者たちの中に裏切り者がいたようで」
「では寝返りは織田家に対する罠であったと?」
「美作守殿の言う通り。ですがその後の様子を見ていると、斎藤家もまた織田家撤退後にこの者たちを攻めて身柄を拘束したようで」
元康からの説明はこの場の多くの者たちを混乱させた。かくいう俺も、予め説明が無ければ疑問の声を上げていたに違いない。
真っ先に疑問の声を上げたのは志摩国の上役である宮内少輔澄隆だ。
「それはどういうことで…。元々斎藤家側に心を残しており、織田様の油断を誘うために寝返ったふりをしたという話なのでは?」
「最初は私もそうだと思っていたのですが、調べたところすでに一族の多くが捕らえられて稲葉山城に移送されたようですので」
「殿はこの件、どうお考えで」
元康の話を聞いても理解が出来ないと判断したのか、真尭が俺に助けを求めた。元康も俺の方を見ている。
「蔵人佐から話を聞いて、俺なりに美濃の情勢を整理してみた。考えられる可能性はいくつかあると思うが、第三勢力の介入がやはり最もあり得る話であろう。独立であるならば西美濃の領主らは全員味方にすべきであった。しかし予め聞いた話によると、他の寝返った者たちは織田家の命を聞いて不破の守りを固めていたという。また今回裏切った者たちの城を攻めるような動きも見せたとか。そうだな、蔵人佐」
「その通りでございます」
「内通していたのは足利か浅井か朝倉か。あるいは六角という可能性もある」
「どうして六角の名が出てくるのでございましょう。不破と隣接している近江の郡は…。まさか」
元康は俺に言われてハッとしていた。そして徐々に気が付くものが出て来て表情を変えていった。
「美濃の混乱が極まれば極まる程、六角の首筋は冷たくなりましょうな」
「大規模な衝突が無いとはいえ、六角は対三好の最前線を担っております。いつまでも背後が混乱しているようでは、武田にしろ、上杉にしろ援軍の到着も期待できぬことでございましょう」
忠次の言葉に皆が納得したように頷いた。しかしそれは筋が通らぬとすぐに気付く。
そもそも尾張と美濃の問題を早々に収拾できる力を持ち合わせているのであれば、義秋が織田や斎藤も巻き込んで対三好連合を結成できていたはずである。
しかし義秋やその腹心らにはそのような力が無く、庇護勢力である朝倉にもそういったリーダーシップは無い。
それに忠次の考えにはあまりにもリスクが大きすぎる。下手をすれば泥沼化するゆえだ。
ならばいったいどういったつもりで六角の名が出てきたのか。果たして勘づくものは出てくるのか。そう思っていた時であった。
ずっと静かにしていた元長が口を開いたのは。
「六角家の現当主は考えなしで動く阿呆だと有名でございます。多くの重臣らが観音寺城で起きた騒動を暴挙だと言って距離を取ってしまうほどには」
永禄の変と同時期に起きた観音寺騒動。これによって家督を奪ったのは当時嫡子としての立場を有していた六角右衛門督義治である。
当主監禁と弟の殺害という行いを見た重臣らは軒並み自領に戻ってしまい、六角という家を成り立たせるために働いてこそいるが、ほとんど孤立状態である。それでよく三好を牽制できていると思ったのだが、実際は京の南に位置する反三好勢力があるからだとのこと。正直単独の戦力としては期待できない。そこまで六角は落ちぶれた。たった一人の後先考えぬ阿保な行いのせいで。
「そんな当主であれば、かつて臣従下にあった浅井の伸張を面白く思わないのではありませんか?」
「三郎兵衛殿、それはいったいどういうことで」
「浅井家が美濃への拡大を狙っているというのは、美濃の情勢を見ていれば誰もがそれとなく察していたこと。未だ将軍家の争いについて支持を表明していない斎藤家であれば浅井を弱らせることが出来ると考えたとすれば」
「つまり斎藤家の内部をかき乱し、その罪を全て浅井家にかぶせて斎藤と浅井の対立を煽ろうとしたと?しかしそれこそ背後の状況が悪化するだけで、六角の置かれた状況は変わらぬのでは。下手をすればもっと悪くなるということも」
元長の言葉に澄隆や真尭などの比較的若い者たちが疑問の声を上げた。
しかし元長の指摘は的を射ているとも言える。なぜならばこの六角の話に関して、俺も少しばかり情報を仕入れているからだ。それも京という随分と近江に近い場所で。
「実は俺も上洛していた間に耳にした話があった」
「上洛の際にでございますか?それはいったい」
広重が興味深いと言った様子で早く話すようにと促す。俺も別にもったいぶるような意図は持っていなかったゆえに、頷いて言葉を続けた。
「三好が六角に対して接近を試みていると。京の公家の間ではあり得そうであり得ない話だともっぱら噂になったとのことだ」
「…もし仮にその話が事実であったとして、もし仮にその話に六角家が乗れば」
「まぁ美濃での訳の分からぬ暴挙も混乱を招いて三好の上洛の時間稼ぎと言われればそのようにも見えてしまうな」
「それが仮に事実であるとするならば、見返りは」
「「要職」でございましょう」
元長はどこか納得した様子で頷き、忠次と元康の声が見事にハモった。
「六角が裏切りましょうか。聞けば若狭を追われた武田家の縁者を匿っているなんて話もございますが」
「だが縁者というのであれば、三好に近い立場を持っている北畠にもいるではないか、美作守」
「確かにそれはそうでございますが…。些か六角と三好が手を結ぶなど信じられぬというのが腹の底にあり、納得出来ぬというかなんというか」
義治に親父殿のような気概があれば、三好なんぞに流れることはなかったであろう。しかしあれはおそらく駄目だ。重臣らが見限っていれば、間違いなく今頃六角という名の大名家は日ノ本の地図から消えていたことであろう。それほどまでに愚かな行いをしており、以降動きを見せていない。ようやく見えた動きが三好への接近だというのだから、そりゃここにいる者たちが信じられなくとも仕方が無いというものである。
「とはいえ、だ。あくまで六角の手が入り込んでいるやもしれぬという話で、確実にそうであるかなど分からぬ。それに此度の本題はそこではない」
「そこでは無い?美濃の情勢が混沌としていると、そういった話なのでは?もしくは織田様より援軍要請でもございましたか?」
氏助からそのように問われたが、俺は首を振った。そして改めて元康に目を向ける。また嫌な顔をしたが、渋々と言った様子で口を開いた。
そして続きを聞いて、ここにいる事情を知らない者たちは絶句する。動揺が俺に伝わるほどに混乱状態に陥った。だが分かる。俺も似たような状態になった。
それだけ信長の死とは信じられないものなのだ。
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