第3話

 イグナーツが手を離す。エッダは安堵しつつも、どこか残念な心持ちになる。額に残るぬくもりが、少し切ない。

 ちらりとイグナーツをうかがい見れば、大人びた表情から一転、彼は少年のような無邪気な笑みを浮かべていた。


「それじゃあ、何か剣技をやってみせるね。とはいえ、やっぱり本物の剣は危ないから、木剣か何か代わりのものを作ってからになるけど……。とりあえず、帯剣だけでもしてみようか」


 そう言って、イグナーツは剣へと手を伸ばしたが、突如「あ!」と声を上げて手を降ろした。


「素手の格闘術でよければ、すぐに見せられるよ」

「格闘術……?」


 イグナーツの言葉を繰り返して、エッダの頭に思い浮かんだのは、手紙だった。イグナーツが武術を学び始めた頃、まだ幼い時分に彼がエッダへと送ってくれた手紙である。


 剣を手にする前に徒手による格闘術を習っているが、それがなかなか上手くできなくて辛い、という内容のものだ。動物の動きを模した格闘術の形がいくつかあり、その中でも「鷹のかた」が難しかったらしい。あまりにもできなくて悔しくなり、思わず泣いてしまったら、師範から「泣くな」と余計に叱られてしまったと、そんな話がたどたどしい字で綴られていた。


 幼い頃、イグナーツは泣き虫だった。よく笑うが、反面よく泣きもした。小さい頃から表情が豊かだったのだ。虫が怖くて泣いたり、怖い夢を見たと言って泣いたり。そのたびに、エッダは彼を慰めていた。


 思わず、エッダは小さく吹き出した。


「どうしたの?」


 目を瞬かせるイグナーツに対して、エッダはくすくすと笑った。


「もう鷹の形ができなくて、泣いたりしないかしら?」


 イグナーツははっと目を見開くと、うっすらと頬を赤らめた。


「も、もうできるし、泣かないよ!」


 イグナーツの声はやたらと大きい。どうやら、うろたえているようだ。

 恥ずかしくて慌てるのはいつもエッダの方なのに、今はまるで反対だ。それがまたおかしくて、エッダは笑ってしまう。

 ますます焦ったのか、早口でイグナーツは言う。


「で、できるようになったって、それも手紙に書いたでしょ!」

「そうだったわね」


 その手紙のことも、よく覚えていた。懐かしさからか、エッダの口は軽くなる。


「できるようになった、と書いてくれた手紙。嬉しさがあふれ出ていて、私も嬉しくなったの。きっと、すごく頑張ったのだろうなと思って、貴方をたくさん褒めてあげたくなったのよ。でも、それはできなかったから。代わりに部屋にあったクッションをなでたんだった」


 幼い頃、エッダはイグナーツを慰めるだけでなく、よく褒めてもいた。

 イグナーツが上手に挨拶できた時、転んでも泣かなかった時など、エッダは「よくできたわね」だとか「えらいわね」と、イグナーツの頭をなでていた。

 褒める時も慰める時も、エッダはイグナーツの頭をなでた。今思えば、姉のように振る舞いたい気持ちがあったのだろう。少しおしゃまだったかもしれない。けれども、エッダが頭をなでてもイグナーツは嫌がる素振りは見せなかった。むしろ、喜んでくれた。


 だから、鷹の形ができたその時も。やっと師範に認めてもらえたと、そう語る筆致は喜びにあふれており、最後には「エッダもほめてくれる?」と一言。読み終わった後、いても立ってもいられなくなったエッダは、手近にあったクッションをなでまわしたのである。もちろん、返事にはたくさん称賛の言葉を書いた。


 エッダは右手を開いて、その手のひらを見つめた。あの時の気持ちがよみがえってくる。

 たまらずにクッションをなでまわしたものの、イグナーツのさらさらとした髪の毛の感触が恋しくなるばかりで、余計いたたまれなくなったのだった。

 当時はやるせなかったが、今となっては温かい思い出の一つだ。そう、思えるようになった。


 ふいに左手を掴まれて、エッダは視線を上げた。うつむいたイグナーツが、エッダの手を握っていた。


「……鷹の形、上手にできたらなでてくれる? 昔の分も」


 かすかに顔を上げて、上目遣いでイグナーツが言う。彼の頬は真っ赤だ。

 大人になってからもイグナーツは所々子供っぽい。こうして、「なでて」とエッダに甘えてくることが、度々ある。しかし、特に今日は子供っぽく、やたら恥ずかしそうな様子である。

 また一つ、幼い頃の思い出がよみがえる。

 小さいイグナーツもこうだった。エッダの服を掴んで、もじもじと恥ずかしがりながら「なでて」と甘えてくるのだ。

 あまりの幼さに、普段ならばまず呆れる気持ちが――それは照れ隠しという部分もあるのだが――湧きでてきそうなエッダだが、今日は違った。エッダもすっかり童心に戻っていた。いたずら心がむくむくと芽生えてくる。


 自身の手を掴む、すっかり大きくなった手。その手に、エッダは右手を重ねる。イグナーツの肩がぴくりと跳ねた。


「ええ。なでてあげる。でも、とびきり格好よくやってくれなきゃだめよ」


 笑い混じりにエッダが言えば、イグナーツはがばりと顔を跳ね上げた。


「え! そういうことなら、練習させて! 久しぶりだから」

「いいわよ」


 エッダが頷くと、イグナーツはぱっと手を離した。


「お昼まで練習してくる」


 早速そんなことを言って、イグナーツは慌ただしく部屋から出ていってしまう。エッダはとっさに、見えなくなったイグナーツに呼びかけた。


「イグナーツ! そのシャツだけじゃ寒いわよ」

「晴れてるし、動いてたら温かくなるよ!」


 声だけが返ってくる。そんなに慌てなくてもいいだろうに。練習などしなくとも、格好よいに決まっているのだから。そもそも、見せてくれるというだけで、エッダは嬉しい。


 小さく息を吐きながら、エッダは窓の外を見た。

 もう、雪が降る日はめっきり減った。日に日に緑は映え、気の早い小鳥たちがさえずり始めている。

 あと一月ひとつきも過ぎれば、またツバメがやって来るだろう。そして、そのツバメたちをイグナーツと一緒に見るのだ。


 昔できなかったことも。新たにやりたいことも。普段の何気ない出来事も。彼と共に刻む毎日が愛おしい。大した地位もなければ、裕福でもないけれど、この北の屋敷での生活はどんな勲章や宝石よりも輝いている。

 一年前の今頃、エッダは春の気配の中に暗い影を感じていた。イグナーツとの関係を断ち切らねばと、思えば思うほど胸が苦しかった。彼との関係がなくなった時のことを考えると、その想像だけで虚しくなり、心に穴が空くような気分になった。しかしそうだとしても、その時は確実に迫っていると、エッダは思っていた。どうしたって、自分は彼にふさわしくないのだから、と。


 しかし、今年は春の訪れを素直に喜べる。もう、虚しさは感じない。「醜い」だの「家の恥」だのと蔑まれつづけた結果生じた影は完全に消えてはいないが、しかしだいぶ薄まってきたのではなかろうか。少なくとも、恐れる気持ちはなくなった。何かの拍子に影が大きくなっても、きっと上手くあしらえる。


 エッダは思う。私はこの地で生きてゆくのだ、と。その気持ちは、強がりでも諦めでもない。真っすぐ、そう思える。


 チュルチュルと、コマドリのさえずりが聞こえてきた。小鳥を真似て「愛しているわ」とつぶやいてみれば、笑みがこぼれた。春の訪れに胸を躍らせながら、エッダはイグナーツの部屋を出た。


 廊下を歩きながら、エッダは考える。

 さて、昼食は何にしようか。チーズとパンで軽くすまして、その分夜は少し豪勢にするのがいいかもしれない。イグナーツが鷹の形を見せてくれたお礼も兼ねて。だとしたら、燻製肉が残っていたはずだ。それを焼いて、ベリージャムを添えるのはどうだろう。パスタもゆでようか。

 くるくると思考を巡らせるのが楽しい。自然と足取りも軽くなる。飛び跳ねたいような気分であったがさすがにそれは控えつつ、エッダは台所に向かった。




                〈おしまい〉

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石ころと明星 平井みね @roji_roji

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