刺繍

 白い布に針を刺したところで、エッダははっとした。

 ひだまりがない。

 先程までは、部屋に暖かな日差しが差し込んできていたが、今はそれがなくなっている。

 とはいえ、さほど暗くはなかった。縫いかけのシャツを机において、窓の外を見る。まだ、空は明るい。太陽は傾いているが、夕方と呼ぶにはまだ早い。


 エッダは安堵した。

 先日、シャツを縫うのに夢中になって、気がついたら日が暮れてしまっていた。昼過ぎから暗くなるまで自室にこもって作業していたために、イグナーツには心配されるわ、夕食の支度をほとんど使用人にやらせてしまうわ、迷惑をかけてしまったばかりだ。

 一瞬どきりとしたが、まだ今日はそれほど日は低くない。エッダは改めて縫いかけのシャツを手に取った。作業を再開させようとして、はたと思いとどまる。


 今また縫い始めたら、結局先日と同じ轍を踏むことになるのではなかろうか。もう少しと思っても、果たして少しですむかどうか。

 エッダは眉をひそめて、手にしたシャツを見つめた。

 秋めいてきたこの頃、冬用のシャツを仕立てるのは優先した方がよい仕事であることは間違いない。だが、そこまで焦る必要もない。本格的な冬がくるまで、まだ多少時間はある。それに、冬物の衣服が、まったくないわけでもない。

 だか、やりたいのだ。作りたいのだ。


 採寸していた時、それ以前に「よければシャツを仕立てるけれど?」と提案した時点で、きらきらと目を輝かせていた彼の顔が頭に浮かぶ。

 今日はこの辺りでやめておけ、とも思う。しかし、エッダの手は針に伸びた。

 その時、部屋の扉をノックする音が聞こえた。


「どうぞ」


 エッダが答えると扉が開き、無邪気な笑顔がひょっこりと現れた。イグナーツだ。


「エッダ、今忙しい?」

「いいえ」


 答えながら、エッダはシャツを机に置いた。

 イグナーツはエッダの近くまで来ると、シャツを見て「あっ」と声をあげた。


「それ、俺のシャツ?」


 「ええ」とエッダが頷くと、イグナーツは目を輝かせた。


「あのさ、そのシャツのことでお願いがあるんだけど」

「何かしら?」


 エッダが首を傾げると、イグナーツはさも嬉しそうににこにこと笑う。


「刺繍、してほしいんだ」

「刺繍?」

「うん。エッダが着てるチュニックと同じやつ」


 そう言いながら、イグナーツはエッダの首もとを指差した。

 イグナーツの指の先、エッダが身に付けているチュニックの襟元には、刺繍が施してある。ブドウの蔓と尾羽の長い鳥――オナガという鳥だ――を象った単色刺繍だ。エッダお手製の刺繍である。


「それ、エッダが自分で刺繍したんだよね?」


 イグナーツの言葉に、エッダはぱちぱちと目を瞬かせた。イグナーツに、この刺繍は自分で刺したと言った覚えはない。


「貴方に、この刺繍のこと言ったかしら?」

「ううん」


 イグナーツは首を振る。


「マヌエラから聞いた?」


 使用人の名前を出しても、イグナーツは首を振る。では、誰からいつ知ったのか。エッダが考えていると、イグナーツの口から甘い笑い声がもれた。


「手紙でも刺繍をしていること書いていたし、エッダらしい意匠の刺繍だから、きっとそれがそうなんだろうなって思った」


 誰から聞いたのでもなく、自身で気がついたらしい。なんだか急に恥ずかしくなってきて、エッダは焦って話を戻した。


「それで、シャツにこういう刺繍を刺してほしいの?」

「うん。そんなに大きい奴じゃなくていいから」


 幸せそうに笑いながら、イグナーツは言う。


「エッダと一緒の刺繍、してほしい」


 恥ずかしさをごまかすために話を戻したが、余計に恥ずかしくなってしまう。エッダは頬が熱くなるのを感じた。

 エッダと一緒の刺繍がいい、だなんて、子供じみている。けれど、その無邪気さが彼らしい。


「意匠は……このブドウの刺繍でいいの?」

「うん。でも、できればエッダと同じで、いくつかのシャツに季節ごとの刺繍をしてほしいな」


 エッダはまた目を瞬いた。イグナーツの口ぶりが引っかかる。


「季節ごとの、刺繍」


 一番気になった部分を繰り返したら、イグナーツは大きく頷いた。


「その刺繍、季節ごとに違うでしょう? それは秋の刺繍。冬は水鳥と水仙で、春はツバメ」

「ちょ、ちょっと待ってイグナーツ」


 エッダは慌てて言った。

 確かに。イグナーツの言う通り、エッダはいくつかの衣服に異なる意匠の刺繍を施している。それらの意匠は、それぞれ春夏秋冬をモチーフとした鳥と植物である。そして、季節に合わせて、それらを身に着ける。春にはツバメの刺繍を刺したブラウス、冬は水鳥と水仙のチュニック。今日着ているブドウと小鳥は、秋用のチュニックだ。

 イグナーツの言っていることは間違っていない。その通りなのだが、しかしどうしてそんなことまで知っているのか。


「……もしかして、季節ごとに異なっているって、そこまで気が付いていたの?」

「うん。会いに来るたびに刺繍が違ったから」


 やはり、イグナーツはにこにこと頷いた。エッダは恥ずかしさのあまりうつむいた。顔がさらに熱くなる。

 すっかり、見透かされていた。


「刺繍も素敵だし、季節に合わせた模様を刺繍して、それを身に着けてるっていうのも風情があって素敵だなって思ったから。だから、俺も一緒にそういう風にしたいなって」


 イグナーツの柔らかい声は甘く、エッダの心はこそばゆくなる。恥ずかしいけれど、心地悪くはない。むしろ、嬉しい。刺繍を素敵だと言ってもらえたことが。彼も同じようにしたい、と思ってくれていることが。

 エッダがそっとイグナーツを見ると、彼は優しく目を細めた。


「お願いしてもいい?」


 表情は大人びているのに、甘えるような口ぶりはどこかあどけない。

 きゅっと胸が締め付けられて、熱がはぜる。エッダの答えは、決まっていた。


「分かったわ。刺繍、するわね」


 エッダが言うと、イグナーツはぱっと破顔する。


「やった! ありがとうエッダ」


 自分と同じ刺繍もいいけれど、彼にはダリアを象った模様もいいかもしれない。イグナーツの笑顔を見て、エッダはそんなことを思った。


「まだ、日暮れまで時間があるし、薪割りしてくるね!」


 はきはきとそう言ってきびすを返したイグナーツは、鼻唄混じりで部屋から出てゆく。

 エッダはくすりと笑いをもらした。それから、縫いかけのシャツを手にする。

 刺繍をするとなれば、まずはシャツを仕上げなければ。

 やる気がみなぎってきたエッダは、再び針を動かし始めた。


 結局。

 エッダは暗くなってもそれに気付かず、――暗くなってもどういうわけか手元がよく見えたのだ――イグナーツに夕食だと呼ばれるまで、縫い物に没頭してしまったのだった。

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