第16話
胸の内に複雑な思いが渦巻く。まるで、もやが立ち込めたようだ。
イグナーツは、自らが望んだと言う。だが、この屋敷で暮らす選択をしたのは、エッダのことを考えてという部分も大きいはずだ。
王都では、未だにエッダを悪く言う言葉が飛び交っている。そして、そんな場所で暮らすとなれば、それらの嫌な話が直接エッダの耳に入って来る。それは覚悟をしなければいけないと、エッダは考えていた。
けれど、この北の果てであれば、そんな不快な思いをすることはないだろう。先ほどイグナーツが言ったとおり、勇者はもちろん彼と同種の人間と会う機会もない。
加えて、エッダはここでの暮らしに愛着を感じていた。やって来て七年、初めは途方に暮れるばかりだった生活も、やっと安定してきた。手塩にかけて育ててきた植物たちや、毎日庭にやって来る鳥たちと別れることは、純粋に寂しく感じる。可能であれば、ここを別邸として誰かに管理を頼みたいと考えていたところだった。
だから、正直イグナーツの申し出はありがたくもあった。だが、彼がそこまで身を落とす必要はあるのだろうか。こんな、「石ころ」と呼ばれる女のために。たとえ、彼自身がそれを望んでいたとしても。
彼の芽を摘んでいやしないか。芽どころではない。苦労して咲かせたであろう大輪の花を、摘み取っているのではないか。
そこまで考えた時、エッダはふいに思った。いや、違う。そうではない、と。
騎士や貴族としての花を摘んでしまったとしても、別の花を咲かせればよいのだ。石の隙間に根を張る植物だってあるではないか。
だからそのために、イグナーツのことを目いっぱい幸せにしてみせる。彼がこの屋敷でエッダと一緒に暮らすことを望むならば、それはエッダの使命だ。
そんな決意が胸の内に生まれ、心のもやが一気に晴れた。エッダはきゅっと表情を引き締めて、顔を上げる。
ところが、どうしてかイグナーツはしゅんとしてしまっていた。うつむいた顔に、影が差している。
イグナーツが恐る恐るといった様子で、口を開く。
「……あの、ごめん、エッダ。俺、勝手だよね。暮らす場所とか勝手に決めて、結婚の約束だって魔王討伐を引き合いに出してさ」
一つ唾を飲みこんで、イグナーツはさらに言葉を続ける。
「その、俺が旅に出てた間に考えが変わったとか嫌だとか、そういうのがあったなら正直に言って……」
イグナーツは何を言っている。エッダはすかさず遮った。
「変わってなんかないわよ! 昔も今も私は貴方が……」
急にエッダは頬が熱くなるのを感じた。「好き」と言おうとしたが、言葉が喉元に引っかかって出てこない。
エッダは両手で頬を押さえると、うつむいた。胸も顔も耳も燃えそうなほど熱い。
だが、恥ずかしくてたまらなくとも、ちゃんと言葉にしなくては。イグナーツは、何か思い違いをしている。エッダは震える唇を動かした。やはり声は出ない。
数度ぱくぱくと口を動かした後、エッダは両手を下ろして顔を上げた。しかし、イグナーツの方は見れなかった。
絞り出すようにエッダは言う。
「な、何も嫌じゃないわ。いいわ。こっちにいらっしゃい。……何もなくて退屈かもしれないけれど」
小さな声でそう言うのが、やっとだった。
なんとひねくれた言い方なのだろう。そう思えど、エッダはこれ以上何も言えそうになかった。
しばしの静寂の後、「エッダ」と柔らかい澄んだ声に呼ばれる。愛しい響きに誘われて、エッダはそろそろと声のした方に振り返った。
イグナーツがエッダの足元にひざまずいていた。魔王討伐に旅立つ前、結婚の約束をした時と同じような格好だ。
ほんのりと頬を染めて微笑むイグナーツ。その表情に子供のような無邪気さはない。笑みもエッダに向ける熱っぽい視線も、もっとずっと大人びた色気を湛えていた。
エッダの鼓動が飛び跳ねる。
とりあえず、イグナーツが笑っているのはよかった。が、まったく落ち着かない。跳ねた鼓動はもとに戻らず、どんどん速くなる。
イグナーツがそっとエッダの手を取った。
「誤解してごめん」
「べ、別に謝らなくていいわよ。それよりも、服が汚れるから、立って……」
すっかりうろたえながら、エッダは早口で言う。けれど、イグナーツは膝をついたままだ。立ち上がる素振りは微塵もない。
イグナーツが、エッダの手に唇を寄せる。彼の吐息が指先にかかった。エッダの胸が、ひときわ大きく脈打つ。ヒバリが高らかにさえずる。
「エッダの言葉に甘えて、こっちに来るね。退屈なんかしないよ。エッダがいるんだもの。俺の、俺だけの女神様」
甘い声でそう言うと、イグナーツはエッダの手の甲に口づけをした。
《おしまい》
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