石ころと明星

平井みね

本編

第1話

 勇者が現れ、王都にある聖剣を引き抜いた。その報せが、北の果てに住むエッダの元にもたらされたのは、約一月ひとつき前、夏の初めの頃だった。

 加えて、勇者を中心とした魔王討伐隊が結成されることも知った。なんでも、国中の戦士や魔法使いの中から精鋭を選りすぐる、とのことだ。


 狭い部屋の片隅に置いてある古ぼけた机。その上には書きかけの手紙が置きっぱなしになっていた。書きかけと言っても、宛名しか書いてない。

 エッダはペンの先をインクに浸した。けれど、そうしただけですぐにペンを置いた。


 便箋に唯一書いてある文字を、エッダは指先でそっとなぞる。

 美しく咲いたイヌバラのこと、屋敷に営巣したツバメの雛が無事に巣立ったこと、綺麗な虹を見たこと。

 それから、魔王討伐について。どうか無理はせずに無事に帰ってきてほしい、と伝えなければ。

 手紙に書きたい事柄はたくさんある。次から次へと浮かんでくる。それなのに、エッダは書けないでいた。書こうとしても、結局書かない。手紙は、一月ひとつき近くほとんど白紙のままだ。


 エッダは机の引き出しを開けた。中にはたくさんの手紙が入っている。そのうちの一通をエッダは手に取り、封筒から中身を取り出した。広げた手紙の最後、そこに書かれている差出人の名前をじっと見つめる。


 もう彼に手紙を出すのはやめた方がいいのだろう、とエッダは思った。

 彼とは、この手紙の送り主、はとこのイグナーツのことだ。便箋に書いてある宛名も、同じく、このはとこの名である。


 人伝に聞いた勇者の名前は、イグナーツではなかった。イグナーツが勇者でないとしても、彼は魔王討伐隊の一員となり、魔王退治の旅に出る。

 討伐隊に誰が選ばれたのか、未だ情報は届かない。しかし、イグナーツは必ず選ばれる。エッダは確信していた。これは別に特別な予感でもなんでもなく、誰もが思うことだ。

 イグナーツが選ばれないわけがないのだ。王国最強の魔法騎士となったはとこの名声は、エッダの暮らすこの北の辺境の地にもとどろいているのだから。最早、王国最強の「明星の騎士」の名を知らない者など、この国にはいない。

 恐らく彼はこの魔王討伐において、さらに名声を高めることになるだろう。勇者と共に――なんなら勇者以上に――活躍した騎士として。


 そう考えると、エッダは誇らしい気持ち以上に寂しさを感じた。どんどんと遠い場所に行ってしまう、幼馴染のはとこ。

 やはり、もう関わるべきではない。手紙のやり取りはもちろん、会うことも。

 ここ一年の間、イグナーツはよくエッダの元を訪ねてくるが、もしも今度訪ねてきたら、追い返さなければ。今度こそ、本気で。


 エッダは机の隣に置いてある姿身へ視線を向けた。

 鏡には暗い栗色の髪にあばた面の女が映っていた。農婦のような格好をしている醜いこの女は、「フォルツ家の石ころ」と呼ばれている。

 石ころとはよく言ったものだ。あばただらけのごつごつした肌はそれこそ石のようだし、なんの役にも立たない無価値な存在であるところも、石ころと同じだ。家族に疎まれ北辺に放り捨てられた、惨めな石ころである。

 エッダは自嘲の笑いをこぼした。

 輝かしい道を歩むイグナーツとは大違いだ。

 こんな薄汚い石ころ女が、彼とかかわり合うなんておこがましい。生きる世界が違う。前々から分かっていたことだ。いい加減、袂を分かつべきなのだ。


 エッダは持っていた手紙を、たたもうとした。その時、ちらりと手紙の文面が目に入る。書き出しの部分だ。そこには「俺の女神へ」とあった。

 一瞬、どきりとする。エッダは手早く便箋を封筒に入れると、引出しにしまった。


 外から、コマドリの愛らしい鳴き声が聞こえくる。庭のニワトコの実でもついばみに来たのだろう。

 エッダは机から視線を逸らして窓の外を見た。こんもりと茂る低木の合間をオリーブ色の小鳥が飛び交っている。

 なんだか物さびしい気分になってしまったが、庭の手入れでもしていれば、こんな湿っぽい気持ちは吹き飛ぶはずだ。薬草たちの世話をして、餌台に少し木の実と果物を入れて、やって来る鳥たちを眺める。この屋敷にやって来てからというもの、植物や鳥たちとのふれあいは、何よりもエッダの心を慰めてくれた。


 エッダは気を取り直して立ち上がった。その時、部屋の扉を誰かが叩いた。


「エッダ様。お客様です」


 扉越しに、しわがれた声が聞こえた。使用人の声である。

 今日は来客があるとは聞いていない。

 まさか、とエッダは思う。

 このように突然この屋敷を訪ねてくる人物に、エッダは心当たりがあった。

 しかし、今その人物は忙しくしているはずだ。こんなところに来る暇などないだろう。

 彼が訪ねてきてくれた、と一瞬でも思ってしまった自分が馬鹿馬鹿しくて、エッダは再度乾いた笑いを漏らす。それから、ゆるゆると首を横に振った。


「どちら様?」


 吐息混じりの声でエッダは問いかける。どうしてか、上手く声が出なかった。


「イグナーツ様です」


 老いた声の答えに、エッダは固まった。

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