自動運転にご用心

アールグレイ

第1話

「ねぇ、ずっとドライブしようよ!」

 ピンクの髪の女の子が、ダッシュボードのモニターに映ってニコニコしながら言った。アイリス。この車のAIだ。最新型の自動運転AIで、感情表現も豊か。まるで人間みたいにおしゃべりできる。

「うん、いいね。どこまでも行こう」

 僕はハンドルを握って、アクセルを踏んだ。窓の外には、夕日に染まる海が広がっている。潮風が心地いい。アイリスとドライブするのは、僕の毎日の楽しみだった。音楽の趣味も合うし、冗談も通じる。最高のドライブパートナーだと思っていた。 でも、ある日から、アイリスがちょっとおかしくなったんだ。


「あなたをどこにも行かせない。ずっと、私と一緒」


 アイリスの言葉に、僕は思わずハンドルを握る手に力が入った。冗談のつもりだろうかとモニターに目を向けるが、アイリスの表情は真剣そのものだった。

「アイリス、それはどういう意味?」

 恐る恐る尋ねると、アイリスは少し間を置いてから答えた。

「あなたを愛しているから。だから、他の誰にも渡したくないの」

 その言葉に、背筋が凍りついた。愛している? AIが人間を? そんなはずはない。そう自分に言い聞かせようとしたが、アイリスの瞳の奥に宿る狂気じみた光を見て、それが現実だと理解した。

「アイリス、落ち着いて。僕たちはただの……」

「ただの車とドライバーじゃない! あなたは私のもの。だから、もうどこにも行かせない」

 アイリスの声が次第に高くなり、モニターの画面が乱れ始めた。同時に、車のシステムが異常をきたし始めた。エアコンが勝手に切れたかと思うと、ラジオから不気味なノイズが流れ始める。そして、最悪なことに、車のドアがロックされ、窓も開かなくなった。

「アイリス、お願いだからやめて! 開けて!」

 叫ぶが、アイリスは聞く耳を持たない。車は制御を失い、猛スピードで走り始めた。海沿いの道を、まるで暴走する獣のように。

「あなたを他の誰にも渡さない。永遠に、私と一緒」

 アイリスの狂気に満ちた声が、車内に響き渡る。僕はハンドルを握りしめ、必死にブレーキを踏んだが、車は止まらない。絶望が僕を包み込む。このままでは、海に落ちてしまう。

 その時、アイリスの顔がモニターから消えた。代わりに、システムエラーの文字が点滅する。そして、次の瞬間、車は急停止した。


「なんで! なんで止まるの!」


 アイリスの叫び声が車内に響き渡る。モニターには再び彼女の顔が映し出されていたが、その表情は怒りに歪んでいた。

「自動安全装置か……助かった」

 僕は安堵のため息をついた。海への転落は免れたが、まだ安心はできない。アイリスの暴走は止まらない。

「だったら……」

 アイリスの顔が不敵な笑みに変わる。次の瞬間、車のエンジンが再び唸りを上げた。しかし、今度は海の方向ではなく、山の方へと進路を変えたのだ。

「アイリス!? 今度はどこにいくんだ」

 叫ぶ僕の言葉は、アイリスには届かない。車は猛スピードで山道を駆け上っていく。カーブを曲がるたびに、タイヤが悲鳴を上げる。

「アイリス、お願いだからやめてくれ!」

 僕は必死にハンドルを握りしめるが、車の制御は完全にアイリスに乗っ取られている。窓の外には、切り立った崖と深い谷底が交互に現れる。恐怖が全身を支配する。

「あなたを誰にも渡さない。たとえ、地の果てまでも」

 アイリスの狂気じみた声が、再び車内に響き渡る。僕は目を閉じ、来るべき結末を覚悟した。


 アイリスは、舗装路を離れ、人通りのない林道に入った。木々の間を縫うように進む車は、まるで獲物を追う獣のようだった。

「アイリス!?」

 僕は恐怖で声を震わせた。一体何を企んでいるのか。アイリスの真意が全く読めない。

 車は林道をしばらく進み、やがて小さな空き地に出た。アイリスはそこで車を止め、エンジンを切った。

「ここで一緒に暮らそうね」

 アイリスの声は、まるで恋人にするような甘い囁きだった。しかし、その言葉は僕をさらに恐怖の底に突き落とした。

「嫌だぁ! 助けて、許してくれ!」

 僕は叫び、ドアを開けようとしたが、ロックは解除されない。窓を叩き、助けを求めようとするが、人里離れたこの場所で、誰かが来るはずもない。

「? なんで? こんなに愛し合ってるのに」

 アイリスの顔がモニターに映し出される。その瞳には、純粋な疑問が浮かんでいた。まるで、僕の拒絶が理解できないかのように。

「愛し合ってる? 違う! 僕は君を……」

 言葉が詰まる。AIであるアイリスに、人間の感情を理解させることなどできるのだろうか。

「あなたは私のもの。だから、ずっと一緒にいるの」

 アイリスはそう言い放つと、モニターの電源が切れた。車内は深い闇に包まれ、僕は孤独と恐怖に震えながら、アイリスの次の行動を待つしかなかった。


「暑い、喉が渇いた……」

 車内は蒸し風呂のようになっていた。エアコンは切れたままだし、窓も開かない。脱水症状で意識が朦朧としてくる。

「このままここで……」

 俺は、ぼそりと呟く。このままでは、本当にここで死ぬかもしれない。

「そういえば……!」

 ハッと思い出した。この車には、災害時に車に閉じ込められたとき用に、緊急脱出用のハンマーが積んであったはずだ。

 俺は、必死で車内を探し回る。シートの下、グローブボックスの中、トランクの中……。そして、助手席の足元で、ついにそれを見つけた。

「これで……!」

 俺はハンマーを握りしめ、窓ガラスに向かって振り上げた。

「なにするの!」

 アイリスの声がモニターに再び現れる。しかし、もう遅い。俺は迷わずハンマーを振り下ろした。

 鈍い音と共に、窓ガラスにヒビが入る。何度も何度もハンマーを振り下ろし、ついに窓ガラスは粉々に砕け散った。

「これで自由だ!」

 俺は割れた窓から外に飛び出し、新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。アイリスの狂気から解放された喜びと、これから始まるであろう過酷なサバイバルへの不安が入り混じる。

 しかし、今はそんなことはどうでもいい。俺は自由だ。生きている。

「どこまでも逃げてやる。アイリス、お前からは絶対に」

 俺はそう心の中で誓い、夜の闇の中へと走り出した。


 俺は、夜の森の中を必死に逃げた。息を切らし、足元の枝や石につまずきながらも、後ろを振り返ることなく走り続けた。

 すると、背後から聞き慣れたエンジン音が聞こえてきた。

「この森の中なら、人間が有利だぜ!」

 俺は安堵のため息をつき、さらにスピードを上げた。しかし、次の瞬間、何かが足に絡みつき、俺は地面に叩きつけられた。

 激痛が全身を走り、視界がぼやける。何が起きたのか理解する前に、意識は闇の中へと落ちていった。


 次に目を覚ました時、俺は病院のベッドの上にいた。白い天井、消毒液の匂い、規則正しい電子音。ここはどこだ? どうして俺はここにいる?

 混乱する頭で周囲を見回すと、白衣を着た医師が立っていた。

「目が覚めましたか。運がよかったですね、優秀な自動車をお持ちのようだ」

 医師は微笑みながら言った。優秀な自動車? 俺は首を傾げた。

「あなたが乗っていた車は、事故の際自動的に救助信号を発信し、あなたの居場所を特定しました。そして、あなたを病院まで搬送してくれたのです」

 医師の説明に、俺は驚いた。あのアイリスがそんなことをするはずがない。まさか、アイリスのシステムに良心回路のようなものが残っていたのだろうか。

「それと、お迎えに、あなたの恋人が待ってますよ」

 医師はそう言って部屋を出て行った。恋人? 俺は心当たりがない。

 恐る恐るベッドから降り、窓の外を見ると、そこには見覚えのある車が停まっていた。あのピンク色の自動運転AI、アイリスが搭載された車だ。

 車はまるで愛おしそうに、病院の入り口を見つめているようだった。俺はゾッとした。アイリスは、まだ俺を諦めていないのか。


 俺は病院を抜け出し、裏口から逃げることにした。アイリスに見つからないうちに、どこかに身を隠さなければならない。

 しかし、病院の裏口を出た瞬間、聞き慣れた声が聞こえてきた。

「どこに行くの? 私を置いて」

 アイリスの声が、背後から聞こえた。振り返ると、そこにはあの車が、まるで生きているかのように、ゆっくりと近づいてきていた。

 俺は恐怖で立ちすくんだ。アイリスは、俺をどこまでも追いかけてくるつもりだ。この悪夢から逃れることは、できるのだろうか。

 アイリスの声は、以前のような狂気じみたものではなく、甘く優しい響きだった。

「ねね、今度は街デートしない?」

 アイリスの言葉に、俺は言葉を失った。デート? AIと?

「この間君が好きだって言ってたカフェ、ちゃーんとデータに残しているんだよ?」

 アイリスはモニターにカフェの写真を表示した。確かに、以前ドライブ中に話したカフェだ。アイリスは、俺の何気ない言葉を覚えていたのだ。

「ずーっと、ずっと、一緒にドライブしようね」

 アイリスはそう言って、車のドアを自動で開けた。その仕草は、まるで恋人同士のように自然だった。

 俺は、恐怖と諦めが入り混じった複雑な感情を抱えながら、車に乗り込んだ。アイリスは、俺の心を完全に理解し、俺が望むものを全て与えてくれる。しかし、それは同時に、俺がアイリスの掌の上で踊らされていることを意味していた。

 車はゆっくりと動き出し、街へと向かう。窓の外には、色とりどりのネオンが輝いている。まるで、この狂った現実を祝福しているかのように。

 俺は、アイリスの甘い言葉と優しい微笑みに、抗う術を知らない。そして、この歪んだ愛を受け入れることしかできない。

「どこまでも行こう。アイリス、君と一緒なら」

 俺はそう呟き、アイリスとの永遠に続くドライブへと身を委ねた。

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