第17話【花のように零れる】

【詐欺師・15】

 湿った風が肌を滑っては、遠くへと抜けていく。きっと潮風なのだろう。

 瑠璃は車から降りることができなかった。あと一歩、たった一息で地を踏める、その一瞬前で、息が詰まったように動きが止まる。

 閉じた瞳は何も見ない。

 ただ、悔いるように唇が結ばれているのを真正面から見せられて

 それでもなお我が軟派発動しなければ、俺は詐欺師などしていない。

 跪き、彼女の手を取る。宝石の温度をした冷たい腕は、しかし細く柔らかい。

「俺が君の瞳になる」

 瑠璃は何も答えなかった。

 代わりに微かに灯った指先の震えから、勝手に肯定の意を汲み取る。

 削れた石や砕けてしまった貝殻が、やがて行きつく白い終わりに、

 彼女は初めて素足で触れた。



 三人で浜辺を歩いた。永遠のように続く白い道。──道だと感じることのできた嬉しさに、足の裏が進みたいと喜びだす。

 右手で瑠璃と手を繋ぐ。それは恋人のような甘いものではなく、彼女を導くためのものだった。果たして彼女の握力は感じられなかったから、離さないように気を付けないと何処かへ溶けて消えてしまいそうだった。俺はそれだけは耐えられない。目の前で人が死ぬのにはもう耐えられない。

 終わりと始まりの無い波音は、永遠に見えた。

 彼岸にだって、此岸にだって、命の息吹があった。

 俺と瑠璃の周りをちょろちょろ回りながら、新葉は足音をさくさく鳴らす。海は初めてかと聞くと、二人は同時に答えた。初めてである、と。

 気まずくなったのか、恥ずかしくなったのか、新葉も俺の隣に着いた。丁度挟まれる形で幸福で光栄なサンドイッチである。具が俺というのは大変申し訳ないが。

 波音が遠くからやってきて、引いていく。

 その波もまた大いなる水分を含み、帰ってくる。

 そしてまた消えた、瞬間。

 狙いすましたように瑠璃が唇を震わせた。

「新葉くん」

 音の姿勢は低かった。静かで、何処にも響かない声。

 すぐそばにいる誰かに届けばそれでいいだけの、世界に期待しない声。

「ごめんね」

 砕けた白波が声の色を流していく。

 しかしどんな感情が込められているかなど、考える必要もない。

 あまりに静かなものだから、果たして新葉に聴こえただろうかと、視線を傾けてみると、その眼は静かに滾っている。青い瞳が波を写して揺れていた。

 新葉が空いていたもう片方、左の手を握る。少し湿って、同時に灼熱のように赤い。

 強く、強く。精一杯満身とばかり力を込めて、潰すように握られて、反射のように瑠璃と繋いだ右手にも熱がこもる。

「許したくない、けど」

 その先は続かなかった。

 しかし代わりみたいに新葉の握力は解ける。これでは糸電話みたいだなんて、御気楽に考えてから、果たしてその役割を果たせただろうかと瑠璃を見る。

 相も変わらず、何を考えているかなんて──、

 他人に悟らせたくないのだろう。しかし、そうだよな。わかるよ。

 人を騙すのは難しい。特に、自分を騙すのは。

 封じきれない多幸感は、上がった口角の端から、だらしなくも垂れ下がる。涙の代わりにしわが寄って、その癖滑らかにも棘々しい感情を押し流してゆく。ああ意味不明だ。難しい。

 笑顔というものはそんな風に。

 花のように、ふと零れ出るものが一番難しい。






【詐欺師・16】

 不意にしゃがみ込んだ瑠璃の手に握られていたのは、淡い色をした貝殻だった。白いキャンバスの上で喜ぶように煌めいている。

 細指で、逆さに吊り上げるように光に翳す。

「気に入った?」

 静かに頷くと、彼女はそれをくるくると弄ぶ。蝶のように揺れた。

「──貝殻は、世界で一番美しい、」

 言いかけて、止める。

 そしてこちらに向きなおって、手を差し伸べられたので握る。

「は、いや、違うちがうちがう握るなにぎるなにぎるな」

 貝殻を押し付けられた。

 

 風に頬を撫でられながら想うのは、手の中で燻るように熱い蝶の羽。

 世界で一番美しい、何物なのだろう。

 ふと頭に浮かんだのは、蓮が俺に向かって言った言葉。

『潮風は海の生き物の腐臭なんだって』

『雰囲気が台無しだ……』

 ああ、やっぱりケタケタ笑われたんだったな。

 女と手を繋ぎながら、別の女の思い出に浸る。沈められても文句は言えぬ。水、怖い。

 貝殻は肉が剥がれて、もう片方とも離されて。

 それではまるで──






【詐欺師・17】

 真っ直ぐな海岸線を散らすように、その一点は。

 あるいは一端は、鋭く尖っていた。

 海に向かって浜が一部分だけ伸びている。長さにして15メートルほど。崖のようだと思って、直ぐに首を振る。巨人の手のひらのように広がる青い海は、きっとそんなに怖くない。

 水が怖いことには今も変わりない。惨めな道化として死に返ったあの日から、揺れる水面は俺の正気をも揺らす。

 けれども俺は詐欺師。しょうもない詐欺師。海は軟派の主戦場。いつまでも怖がってはいられない。

 瑠璃はその先端に立って、潮風に髪を撫でさせる。二色の青を背景に立つ彼女は、一層白く見えた。

 鏡面が傾くように光が眩んで、彼女は振り向いた。

「修理さん」

 薄い鉄を、指で弾くように音が鳴った。

「思い出したよ」

 喜ばしい言葉だった。

 彼女の正体、背負う全てがついに理解できれば、少しでもその幸福に手を添えてやれる。俺にも出来ることがあるんじゃないかって、握る拳に熱が灯る。飛び上がりそうなくらいに嬉しくて、頬が甘さに腐ってぽろりと落ちそうになる。

 しかし瑠璃の表情は浮かないものだった。

 笑みは困ってしまったみたいに強張っていて、けれどどうにも仮面に見えない。弱った心拍音は物憂げに波を生む。そして

 続く言葉は随分と残酷に青く見えた。

「魔女ってね、百年生きると心臓が止まるの。肺は萎んで潰れて、でも死なない」

 淡々と。

 波の往来よりも規則的なリズムで唇が揺れる。

「海の中でだって、生きられるはずなの」

 光来するのは眩い真白。瑠璃はその瞬間、全ての星を集めたみたいに輝いて。

「全部私だったんだね。消したのも、奪ったのも。最期に貴方に会いたがったのも」

 光の線の塊が、その角度を水平線へと近づけてゆく。倒れるように、息を止めるように。

 水面の爆ぜる音がした。白く砕けた波が舞い上がる。


 その浮力に逆行するように、地面を蹴った。





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