第2話 殺人講義

【ONE】


「いや、それは違うな」

 東方は顔の前で祈るように両手を合わせたままで言う。

「殺すことが目的ではなかったはずだ」

 そう言うと東方はぐるりと部屋を見回す。事件現場となったマンションの一室。女性の一人暮らしの1DKは今、刑事や制服警官で溢れかえっている。

「被害者は玄関に向かう廊下に倒れていたが、鍵はこの部屋の中に落ちていた」

 背後の開け放たれた扉の先に玄関に向かって真っすぐ廊下が延びている。廊下の先には被害者をかたどったテープが床に貼られているのが見える。

「被害者はうつ伏せで倒れ背中を刺されていた。帰宅し一度この部屋に入ったところで鍵を落とし、それから玄関に向かったところを背後から襲われた。一体何があったのか?」東方は合わせた両手の人差し指でとんとんと唇を叩く。「決まっている。被害者はここで犯人と鉢合わせたんだ。そして玄関に向かって逃げ出した。では、被害者が帰宅した時、犯人はこの部屋で何をしていたのか」

「被害者を襲うために、ここで待っていたのでは?」刑事の一人が口を開く。

「違う。犯人には殺す以外に目的があった。殺すつもりがなかった可能性すらある」

「ええっ?」刑事の一人が思わず聞き返す。「ですが犯人は現場に凶器を持ち込み、被害者の背中を複数回刺しています。明確な殺意の現れでは?」

「検死報告書を読め。凶器の刃渡りはかなり小ぶりだ。台所には包丁もある。現場で調達すれば足がつかないというのに犯人はそうしていない。凶器は護身用に持っていただけだろう。これは衝動的な殺人だ。犯人には別の目的があったはずだ」

 現場がざわめく。こいつは何を言っているんだ。現場をかき乱すために来たのか。疑いの眼差しが注がれる中、東方は部屋の隅に立つ制服警官にたずねる。

「玄関にあった靴のサイズは二二・五センチだ。被害者の身長は一五〇? 一五五?」

「一五二センチです」

「小柄な女性だ。殺すためならわざわざ部屋に押し入るまでもない。通り魔を装って暗がりで襲うでも、車に連れ込むでもいくらでも方法はある」

「単に人目につくのを恐れただけなのでは?」

「机の上の写真立てを見ろ。被害者には恋人がいる。待ち伏せしている間に恋人がやってきたらどうする? 自宅に忍び込むのはリスクが高過ぎる」

「恋人の存在を知らなかっただけでしょう」半分、苛ついたような口調で刑事が言うが、東方は首を振る。

「違う違う、そうじゃない。犯人は被害者のことを十分に下調べしている、それは明らかだ。恋人の存在を知っていたのなら、殺害現場に自宅を選ぶなんてあり得ない」

「ちょっと待って下さい。どうして犯人が被害者のことを下調べしていたとわかるんですか?」

 刑事の問いを無視して東方は合わせた手を唇に当てたまま黙り込む。犯人の目的が殺人だけではないことはたしかだ。犯人は一体この部屋で何をやっていたのか。東方はゆっくりと部屋を見回す。犯罪とは本質的には何かを奪う行為だ。現場には被害者の財布も携帯電話も残されていた。物盗りじゃない。命を奪うためでもない。それでは一体、犯人は何を奪いたかったのか。

 ふと東方の視線が一点で止まる。横倒しに倒れているキャスター付きのデスクチェア。おもむろに歩いていくと倒れたイスを引き起こし、それから刑事達に問う。

「一五二センチの女性が使うイスがどうして一番下まで下がっているんだ?」

 イスはレバーを引くと高さが変えられるが、座面は今、一番下まで下りている。

「写真の恋人が使ったのでは?」

 違う。「食洗器には食器が一人分、洗面台の歯ブラシも一本だけ、事件前夜に恋人が泊まった形跡はない。イスを最後に使ったのは被害者だ。少なくとも事件前夜にはこのイスに座っている」

「ちょっと待って下さい。どうして前夜に使ったとわかるんです?」

 いい加減にしてくれ。東方はうんざりしてくる。どうして頭を使わないんだ。東方は苛つくように机の上の日記帳を手に取りぱらぱらとめくる。「捜査資料によると、日記帳の最後のページは事件の前日だったはずだ」栞が挟まれた最後のページを開いて刑事達に突き付ける。「日記は普通、夜に書く。少なくとも事件前夜、彼女はここで日記を書いている。誰かがこの部屋に泊ったのでなければ、最後にこのイスに座ったのは彼女以外にあり得ない」だがイスは今、一番下まで下がっている。「つまりこのイスには、」

 東方の言葉に刑事達がはっとした顔で思わずつぶやく。「犯人が座っていた?」

「決まっている。被害者と犯人が争ったのは玄関なのに、この部屋の中でイスだけが倒れていたんだ。被害者と鉢合わせた時、犯人はこのイスに座っていた。逃げ出した被害者を追うために慌てて立ち上がった際にイスが倒れたんだろう。そして犯人がイスに座っていたのなら、犯人の目的はこの机の上にあったはずだ」

 机の上を見る。日記を書いただろうペンはペン立てにきちんと収められている。引き出しを開ける。几帳面に文具が並べられている。引っ掻き回して何かを探した形跡もない。だとすると。東方は机の左奥に押しやられたノートパソコンを手元に引き寄せる。答えはこの中にあるはずだ。


 **********


「なるほど、犯人が被害者のことを下調べしていたという根拠はそれですね?」

 えっ、と俺は顔を上げる。

 自分を照らす照明に、一瞬視界が真っ白になり思わず顔をそむける。何度か強く瞬きをしたあと俺は再び光の方を向く。目の前にはすり鉢状の講義室の机に、制服に身を包んだ警察学校の訓練生が座っているのが見える。

「犯人がパソコンのロックを解除出来たということは、前もってパスワードを知っていたことになりますよね」

 俺は自分が今いる場所を思い出す。未未市警察学校第二講義室。俺は小さく頭を振ると、誰から発せられたかもわからない問いに返答する。

「面白い指摘だがそれは違う。被害者の冷蔵庫にはマンションのごみ収集日の手書きのメモが貼ってあった。こういうタイプの人間は、通販サイトごとに変えたIDやパスワードをご丁寧にメモで残しておくことがめずらしくない。案の定、日記の裏表紙に貼り付けてあったメモに、ノートパソコンのパスワードもあった。犯人が被害者のことを下調べしていたと言ったのは別の理由からだ」

 俺はそれから背後のスクリーンの画像を切り替え、事件現場となったマンションの外観を大写しにする。

「事件現場は十三階だ。被害者の部屋のベランダに行くには、他の部屋のベランダを通る必要があるが、高層階は外からの視線を気にする必要がないため日中はカーテンが開いていることも多い。誰にも気付かれずに周囲の部屋のベランダを通過するのは現実的じゃない。ではどうやって犯人は十三階の部屋に忍び込んだのか。もちろん玄関からに決まっている。だが鍵には壊された形跡もピッキングの跡もなかった。つまり犯人は合鍵を持っていたことになる。合鍵まで作ったのなら、犯人が被害者の帰宅時間など下調べをしていたのは明らかだ」

 合点がいったのか学生達がうなずくのが見える。

「だが犯人が合鍵を持っていたのなら別の問題が出てくる。事件の第一発見者は宅急便の配達員だ。時間指定の配達にも関わらず、インターホンにもノックにも応答がなかったため、ノブを回してみたところ玄関に倒れていた被害者を発見した。鍵はかかっていなかった。では何故、犯人は合鍵を持っているにも関わらず、現場から立ち去る時に鍵をかけていかなかったのだろうか」


 **********


 東方のその言葉に、現場の刑事達が息をのむ。お互いに顔を見合わせ、それからつぶやくように言う。

「まさか、犯人は動揺していた?」

「遺体の発見が遅れれば遅れるほど犯人には有利になる。普通なら犯人は現場から立ち去る時に鍵をかけていくはずだ」

 東方は部屋から出ると玄関に向かって歩き出す。刑事達が慌ててそのあとに続く。

「帰宅した時に扉の鍵が開いていれば被害者は不審に思ったはずだ。何の疑いも持たず部屋まで入ったということは帰宅時には鍵がかかっていたのだろう」

 東方は被害者をかたどったテープの前で立ち止まると踵を返し刑事達の方を向く。それから両手を顔の前で祈るように合わせると両手の人差し指を唇に当て、事件当日の光景を思い浮かべる。

「あの日、何があったのか。被害者が帰宅する。玄関の鍵を開け、靴を脱ぎ、廊下を歩いて部屋に入り、犯人と鉢合わせた。合鍵が作れたのなら犯人は被害者の身近にいる人間だ。だが被害者は犯人を一目見て逃げ出した。顔見知りの可能性が高いのに被害者が身の危険を感じたということは、犯人は男性だろう。犯人は慌てて被害者を追いかけイスが倒れた。イスの高さから犯人は大柄だ。犯人は玄関前で追いつき被害者を組み伏せた。大柄な男性と小柄な女性、難なく制圧したはずだ。だが体格差があるにもかかわらず犯人は何度も何度も被害者を刺している。動揺していたんだ。パソコンを開くのに手間取ったのか、あるいは被害者の帰宅が予定よりも早かったのか。想定外の事態にパニックになり、犯人は思わず被害者に襲い掛かり夢中で刺した」

 東方は手をおろすと、刑事達を睨みつけるように見る。

「結論。犯人は被害者の身近にいる身長一八〇センチ以上の男性。行動力はあるが行き当たりばったりで綿密な計画を立てるのは苦手。感情的になると冷静さを失うタイプ。きっと今頃は犯す予定のなかった殺人に怯えているはずだ。普段と違う行動をとる人間がいたら手当たり次第に取り調べろ。きっとすぐに自白する」


**********


 その瞬間、ブザーが鳴り響き、俺は再び目を覚ます。

 目の前に並ぶ学生達に、俺は事件現場にいるのではなく殺風景な講義室に立っていることを自覚する。まったく。俺は自嘲的に笑うと、それから彼等に向かって不愛想に告げる。

「授業を終わる」

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