この音が君に届きますように

この音が君に届きますように


 夕闇が、垂れて、落ちて、消えていく。


 太陽が、暗くなって、冷たくなって、解けていく。


 静かに、ただ静かに。


 誰も知ろうとしない世界の終わりに。


 私はさようならを告げた。





 夢は抱くもので、叶えるものではなかった。人が夢を抱えるからこそ、儚いという言葉が生まれるのであって、それを叶えることなど、昔から人は考えてなどいなかった。


 私は叶うことのない願いを抱いたまま、苦しさを思って、空を眺めてみる。


 明日を希う。朝日を希う。人を照らしてくれるような太陽を、今日だけはいつまでも希っている。


 明日も太陽が昇ればいいのに。明日も朝日を覗くことができればいいのに。そんな希望を抱くだけ抱いて、そうして息を吐く。


 静かに、ただ静かに。


 誰かには平等にやってくる朝の調べに、耳を澄ませていたかった。





 夏の空気が好きだった。肌を温めてくれる温度感に身を躍らせた。夏の季節のにおいが郷愁を抱かせた。私はそれが好きだった。いつまでも好きだった。


 太陽が沈んでいる世界はどこまでも冷たく感じた。温くさえ感じない世界に寂しさがある。黄昏るように佇むだけ佇んで、海辺のほとりを歩いてみる。


 海の傍であったことを思い出す。くだらない思い出かもしれないけれど、それが私には大切だった。


 波が打つ潮騒の一定のリズム、低地に紛れる雑音の旋律。濡れた髪を乾かすような潮風のかたさ。そんな夏の季節が、私はいつまでも好きだった。


 かぶっていた麦わら帽子の紐は緩んでいた。風に揺られた麦わら帽子は、どこか遠くを遊覧する飛行機のように飛んでいく。それを走り回って、なんとか手を伸ばそうとしたこと。手を伸ばしても、届くことはなくて、ただ空にさらわれてしまったこと。誰かにもらったものだから、大切にしないといけないのに、そうすることができなかった悲しさや悔しさ。


 いつまでも、よく覚えている。


 私は、きっと愚かな人間だ。どこまでも、どこまでも、愚かな人間でしかなかったように思う。


 静かに、ただ静かに。


 誰にも届くことはない息を吐きながら、私は世界の中心をここに定めた。海辺の近くにある灯台の傍で、水平線を眺めて、自分が世界の中心にいることを定義した。


 海に反射する、まだ数は少ない星空の数々。彼が明日の星空を見てくれるのならば、そのなかの星になって、綺麗な流星となって、あなたの視界に降り注ぎたい。


 神様、そんな願いは届きますか。


 届けばいい、そんな滑稽な願いが。





 夜の中に人はいない。いつまでも孤独で、どこまでも独りで、海辺を歩いて、そのまま黄昏ることを続けている。


 変えることのできない現実に向き合いながら、最後の逃避として歩くことを選択し続けている。


 ここにカメラを持ってくればよかった。視界は澄み切っていて、その景色を心の中に閉じ込めておくだけではもったいない。


 砂浜に転がるラムネ瓶の残骸、弾けるガラス玉、砂が彼らを溶かして、一つの宝石のように星空をきらきらと映している。


 かたい潮風が髪をなでる。いつもよりも滑らない髪質に慣れることはない。でも、心地は悪くなくて、風が私の存在をさらってくれるような気がする。


 優しく取り扱うように、身体にまとう潮風は私にとっての癒しだった。まだ熱がこもりきっている身体を冷やす風が、私にとっては傷でもあった。





 この祈りを、君と待つことができればよかったのに。





 もうすぐやってくる永遠が、視界の中で跳ねていた。太陽はのぼっていないのに、すべてがちかちかときらめいている。星空以上の輝きが、すべてを照らすような光の束に包まれている。灯台の光でもなく、無慈悲に降り注ぐ神の光輪が、私を迎えに来ているようにも感じた。


 海辺に咲く花はないけれど、迎え入れるように周囲に光は咲き乱れている。それが本物であればいい。もっと高い場所で、見晴らしがいい場所で、それを眺めていたかった。


 終わりは、すぐそこに。


 もう、すぐそこに。


 それを予感させるように、私の呼吸が浅くなっていく。視界は真っ白に染め上げられていく。


 時間を留めることができるのであれば、この景色を視界に焼き付けたい。そんな時間があればいい。心の中にあるカメラで、フィルムに溶かしていたい。


 けれど、神様に願いが届くわけもない。届くはずもない。


 静かに、ただ静かに。


 私は、苦しくなる呼吸を繰り返すだけ。





 目を覚ませば、そこには見知っている天井が広がっている。私の手を強く握りしめる温もりがある。それを感じて、忘れないように意識を繰り返す。


 人工的な風が身に染みる。熱い空気もなく、体を冷やすだけの風だけが。


 寂しさを殺すような彼の手の温もりだけが、私の心を溶かすように感じた。


 檻のようにも感じるベッドの白さ。無機質に思えるすべては、蛹を保護するための小さな繭のようにも感じる。


 私は、蝶になれるだろうか。


 手の温もりが強くなる。熱くなる。濡れている。


 雫が、ひとつひとつ、肌に触れて、掬えず落ちていく。


 また、逢うことができればいいね。


 私が彼に吐き出した言葉。自分の耳には届かない言葉。ただ、彼にだけは届いていてほしい。そんな気持ちで紡いだ音のかけら。


 朝日が、生まれて、零れて、昇っていく。


 太陽が、明るくなって、熱くなって、解けていく。


 静かに、ただ静かに。


 彼だけが知る世界の終わりに。


 私はさようならと言葉を告げた。


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