第五章

第一節 避難誘導

 一分前にはあったインターホンを押す前の居心地の悪い静寂は、四度目の呼び出しともなると弛緩しきり、武藤は舌打ち交じりに声を張り上げた。

「梅村さぁん、ごめんくださぁい!自衛隊です!」

 何度となく視線は、表札に挟まった苔、劣化したプラスチックのインターホン、戸口で干乾びた鰯の頭、そして雑草に侵食されつつある庭園をなぞる。連日の猛暑にも関わらず瑞々しく葉先を上向けて向日葵が静かに笑っている、在宅はまず間違いない。

 五度目の呼び出しの直後、上がり框が軋んで引き戸がゆっくりと開いた。間から覗いた風体は頑固とは程遠い印象で、合わぬ目線とよれ曲がったシャツが弱弱しさを際立たせる。

「梅村、敏江さんですね。登録では現在おひとりでお住まいということですが間違いないでしょうか。先日から引き続きのお願いになりますが、本日正午から市全域は立ち入り禁止区域となります。我々の方で車両を用意しておりますので、避難していただくことはできないでしょうか」

 こちらが定型文で切り出し、対象者はかぶりを振る。デジャブのごとく同じ光景がこの午前中繰り返されている。

 ――本日の午後八時からは自衛隊主導の作戦が行われます。この一帯は破壊される可能性があります、どうか避難していただきませんと。

 ――ご家族や近隣住民の方々もすでに非難されています。親族の方々もきっと心配されておられますよ。

 ――敏江さん、我々は避難の最終勧告を通達しにこちらに伺っています。拒否されますと午後に警察が来まして、敏江さんは不法侵入で逮捕されることになります。そうなる前にどうか避難願えませんか。

 用意していた問答を並べるが、ともすれば卒倒しかねないほどの弱弱しさで婦人の首が横に動く。午前中の対象者の殆どを動かした『逮捕』の殺し文句をもってしても変化はなく、こうなると粘る以外手はない。武藤はもう苛立ちを隠しもせず、腕時計をチラチラと見ながら婦人を見下ろしている。

「敏江さん、何か運びたいものとかありますか?我々も手伝いますから」

 一方通行で話題も尽きてそう言ったとき、初めて婦人の顔が右を向き、汚れた爪が庭の奥を指さした。

「あの、奥の木。あの辺だけごちゃごちゃっと色んな木が植わっとりますでしょう?」

 思いのほか艶やかな声がひび割れた唇から滑り出した。

「あの木ね、全部家で育った者の誕生木なんです。白蓮、柿、椿、梅、ぜんぶ誰かが生まれたときに植えとるもんです。唐松の手前にちょっと細いのがありますでしょう?あれは私の三男のナラなんですが、植えて五年ぐらいのときに粉吹きになりましてね、それ以来本人の図体に似合わんしょげた木になってしまいまして……」

「敏江さん、お話伺いたいところですが、まずは避難を」

 婦人は初めてこちらと目線を衝突させた。先ほどまでは微塵も感じられなかった炎が網膜の中でチラついている。

「ここは、私の命でございます。家は、私の身体そのものでございます。この家を棄てることは自分を、家族を引き裂くことでございます。私は避難は致しません。私は私を棄てて生きることはできません」

「お気持ちはお察しします。避難生活は確かに困難もありますし、生まれ育った故郷を何より大切にしたいのは皆同じです。ですが、人の命こそ尊重されるべきです。生きていれば、必ずやり直せます」

「ここが私を、家族を作ったのでございます。ここは私たちの全てを記憶しとります。あの大きなシラカバ、去年カミキリムシにやられて大分弱ってしまいました。あれは私の兄になるはずだった人の木でございます。先天異常で名も貰えず流れた命を、誰が覚えていてくださるんです?人が手を入れなければ、ここはひと月と持ちませぬ。あの木が枯れれば、私の兄は本当に死んでしまうのでございます」

「私の家は福島の庭坂です。故郷を手放す辛さを少しはわかるつもりです。でも、住む場所が違っても私の故郷は変わりませんし人も変わりません。避難先でも皆さん立派に生きて、繋ごうとされておられます。どうか、どうか今は逃げてください」

「お若い貴方にはまだ故郷を離れてもやり直す活力がおありでしょう。私にはもうここ以外の人生が考えられないのでございます。この家のどの部分を切り取っても、思い出を語れぬ場所はございません。せめて最期をここで過ごすことをお見逃し頂けませんか」

 理論の上塗りで蓋した同情心を老婆に掘り起こされ、放つ語気が弱くなっていくのが分かった。生来いつから備わったのかわからないが、こういう場面で無自覚に表れる情操や共感が何とも鬱陶しい。せめて不感で冷徹で、人を蔑み強いることを喜びとする質ならこんな気苦労もないのに。

「……分かりました。勧告に応じていただけませんでしたので、後程警察官が貴女を連行します。お持ち頂ける荷物は最低限となります。警察官が来るまでの間、必ずここから離れないようにしてください。なお身柄を拘束できなかった場合、その後の生命は保障されず、また死亡した場合に親族などから訴えがあった場合、貴女への勧告は完了したということで国家の責任が問われることはありません。何か質問は?」

 テンプレートの警告を並べるうち、婦人の背が元通りに曲がり縮こまっていく。自分のものでもない権力を振りかざして弱者をねじ伏せるのに優越感のようなものが現れて、少しだけ気が楽になった。婦人は最初のようにのろのろと首を振ったが、それが妙に癇に障った。

「あの、もし」

 婦人が呼び止め、さっきからずっと手に持っていた封筒のようなものを手渡してきた。

「私の家族は宇都宮に居ます、これをお渡しいただけないでしょうか」

 簡素な封筒は質が悪く、中が手記だということはすぐにわかった。武藤を横目に見たが、無線が入ったらしく門の外へ向かって行くところだった。

「困りますよ、ご健在なのですからご自分でお渡しください」

「もし私に勇気がなければ、そうできるでしょうけど」

 目線がリストに落ちる、定刻はとうに過ぎていた。

「臆病だから逃げるわけじゃありません、他の方に失礼ですよ。とにかく警察が来るまで移動しないようにお願いします」

 ――我々がなんとかここを守りますから、皆さんも頑張りましょう。

 さっきまでよく考えもせず避難者との別れ際に吐いていたセリフが喉に突っかかったが、改めて咀嚼してみると吐き気を覚え、ただ唇を噛んで門の外へ歩いて行った。


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