第三節 第一報
――リーン、ゴーン……
ちょうどターンテーブルの上の半額弁当を眺めている時に、研究棟の時報が鳴った。
まだ九時か、『魔女の不夜城』と呼ばれる日本生物科学研究所・長峰研の夜は長い。アツアツになりすぎた鮭いくら丼を持って一度デスクに向かったけど、積み上がったファイルの山にため息が出た。
五日前の実地で後輩の杉尾くんが見つけたギャオスの変死体を長峰先生はかなり気にしていた。中にこびりついてた粘液やなんかのサンプルのデータを国立遺伝子研究所とやり取りしてるけど、こういうやり取りはいちいち時間が掛かる。関連ファイルが片付く一週間くらいは、今日みたいに漫才選手権の見逃し配信でニヤニヤしながらコンビニ弁当を早食いする生活が続きそうだ。
――プルルル
研究室で電話が鳴った。
一人しかいないから無視しようと思ったのにコールが長くて結局取った。消防庁からだった。
『福島県福島市庭坂基地にて第二避難警報発令、長峰主任の所在が知りたい』。
下らないことで問い合わせるなって言いたくなった。ショウの隊区が電話口から聞こえて一瞬ドキッとしたけど、避難警報ごときでわざわざ研究室を呼び出すまでもない。
でも、電話口の相手は食い下がった。よく聞くとどうも様子がおかしい、先方が混乱しているのが判る。とりあえず所在はわからないとだけ答えて切った。
受話器を置くと同時にまた呼び出し音。今度は反射的に取った。先生だ。
「先生、今消防から問い合わせ――」
『長谷部さん』厳粛な声色で遮られる。
『今から主任室のロックナンバーを言うから一分以内に入室して。扉を閉めたらデスクにある黒い受話器を取って』
電話を切るなり主任室にダッシュしてナンバーキーに飛びついた。扉を開けると黒電話はもう鳴ってた、こんなの大みそかの掃除でしか触ったことないのに。
『庭坂で二次避難警報が出ていることは聞いてる?』
「それしか知りません、撃ち漏らしたんですか?」
『防衛省の方には頭数カウント不能という情報しか来ていない。でも八時三十七分から、庭坂基地の境田法務書記官がALCSにアクセスしている』
臨時作戦行動をするつもりか!凝り固まった猫背がグッと伸びる。カウント不能といいただ事じゃない。
『今まで官邸の五階にいたけど、ALCSが動き始めて総理周辺はかなり混乱してるわ。館山党首や外務省筋も来てるから、そろそろここは機能不全になる。今研究室にいる人は?』
タイムレコーダーにアクセスして何人か別棟にいる残業組を読み上げる。
『今から杉尾君と竹下君を呼んで研究室を出なさい。下に車を呼んでおく。他言無用よ』
「どこで合流するんですか?」
『中央指揮所で。まだ対策本部は立ち上がってないけど官邸地下を使ってちゃ間に合わない。それに』
正体不明の生物?ギャオスの変異種なのか?
わからないことが多すぎるけどやるべきことは限られている。内線で手早く二人に連絡、下で待っていた車に乗り込んだ。
Auto Law Check Systemは構想三十年、本来は『豪勇』と呼ばれ混乱期の日本を立て直した沼田前々総理の悲願だった。
AIにあらゆる法文を食わせて『完全無欠の法の神』を作り、自衛隊の作戦行動が法に抵触するかしないかを判断する。
これまで国会内外で何万時間もかけて交わされてきた、正義の定義・人道の定義・国家の義務・法文の改善と形骸化・その他諸々に関する、決して全てが有意義で生産性があるとは言い切れない議論に掛かる時間が、このシステムの導入で劇的に短縮できる。上がもたもた議論だの不信任だのやってる間に指示を待たされ殉職していく公務員の数も、作戦後すべての行動が法に則っていたかをいちいち突き回されてノイローゼになる公務員の数も、劇的に減らすことができる。『AIがOKを出したから』、これが作戦行動とその結果に対する強力な免罪符になる。
もちろんこの構想はとんでもなく批判を浴びた。人道的、法的、国際的、社会的、そして特に政治的、経済的にだ。前提として法文が完璧じゃなければこのシステムは成立しないから、これは軍事国家を造るための礎で、ALCSは政治的議論の論点すり替えをするための装置であり、政権批判を受け流すAI柱だとも批判された。
でも、第一次衝突以降軍備増強と即応体制強化で圧倒的な支持を受けて、何より国民の人的被害を出さないことを優先した当時の沼田総理は、圧倒的な票数の力で法整備を押し通してシステム導入のおぜん立てをした。この頃の日本は、命が何よりだった。
それだけに、水と油の現職・白井総理に手柄を取られたのには腸が煮えくり返っているんだろう。
現職の白井総理はどちらかというと負担軽減を主張する日政党寄りの政権論を持っていて、本来ALCSは政策の目玉とはなりにくい。でも白井総理は議会で官邸で、作戦行動までにどのような『ムダな作業』が行われ、そのムダのせいで今までに何人の公務員が殉職し、また議員・大臣・官僚が『ゴネる』ことで、どれほどの金が彼らの懐に流れ込むのかを、フリップ片手に朗々と説いた。
沼田総理が作った『人が死なない平和な日本』で、いつの間にか人々は命より他人が貰う金の話に興味を持つようになった。ALCSが白井政権の指揮の下、緩衝地域に関わる作戦行動で試験導入されるよう手筈が整えられたのが、ちょうど一昨年の二月のことだ。
本省庁舎は広くて迷いそうだったけど、防衛省出向の竹下さんが案内してくれた。指揮所に入ると既にブリーフィングをしていた先生のもとに走り寄る。
「三名到着しました」
「庭坂の第二駐在所の脇から大量のギャオスが密集して通過、緩衝地域にて管理隊が駆除行動を取るも多数が居住域に侵入。ALCSは九時十二分に作戦行動を承認。総理も承認して、現在は避難誘導とその支援の名目で管理隊が市内に向かってる、といった状況よ」
「ギャオスの数はどうなんですか?」
「生息域の定点カメラに映ってるけど数えきれないわ。密生林を歩いて通過して機関砲の射撃を回避、緩衝地域で隊員が射撃をしても反応がなかったそうよ、不審な点が多いわ。一群だったギャオスは市街地手前で分散し隊員が追跡中。消防・警察から数体駆除したと報告が入ってる」
撃たれるどころか周りが撃ち殺されても反撃してこないのか、好戦的なギャオスがそんな行動をするなんて聞いたことがない。
「その、未確認生物は?」
「現場の隊員がその生物を『セイリュウ』と呼んだそうで、暫定的にその生物はセイリュウという呼称でやり取りされてるわ。ギャオスと別にセイリュウの足取りも追ってるけれど情報は入ってきてないわ。見間違いの線も考えたけど、セイリュウを最初に通報してきたのは庭坂の隊員で、AXONの映像があるそうよ」
「それは、ショウが……、いえあの、内田小隊長が」
「それは分からないけれど、彼が渦中にいるのは間違いないわ。今のところ隊員への被害の報告は来ていないし、安否に関する情報が入ればすぐに伝えるから安心しなさい。きっと大丈夫よ」
「……ありがとうございます、避難はどうですか?」
「なんとか間に合ってそうね。消防も警察も連携はスムーズだったし、逃げ遅れたという通報もこの十五分はないわ」
二〇〇〇年の法改正で、日本のすべての住宅や集合施設などには二次避難所を設けることが建築基準法で義務付けられた。避難所と言っても一晩隠れられる壕や頑強な空間があればよく、庭に穴を掘ったりするだけでもいい。ショウも前はよくアンダーソン式のキットを車に乗せて高齢者の家の庭で穴掘りをしていた。ギャオスはノブを回してドアを開けたり、穴掘りや長時間の待ち伏せをできるような知性は元々持ってない。このまま皆隠れてくれれば人的被害は抑えられそうだ。
指揮所のモニターはどこも映像で溢れてる。国交省から来てる道路の監視カメラらしい映像もあるけど、はっきり言って庭坂の辺りはド田舎だから数が知れてる。ほとんどはSNSの映像だ。
「今は該当地区のネット回線を基地局ドローンで増強して、住民のSNS配信をチェックしてるところよ。生命危機に関連する会話・音声・物音を自動検索させて、重要度が高いものを中央のモニターに降順で表示してるけど、今のところはほとんどデマや噂ばかりね」
動画の音声も重要度に応じて大小を付けてるみたいだ。下らないフェイクニュースや、同時配信してるアホな学生の叫び声がハウリングしてて気持ち悪い。嬌声に歓声と奇声、修学旅行の消灯後のテンションと変わらない。
テキストベースのSNSメッセージも、感嘆詞などを除いた名詞・動詞・形容動詞単位で同様の検索をかけてるらしい。画面の最上部にいろんな文字が浮かんでは沈んでく。
『会』『外』『避』
最初は全く統一感がない単漢字の集合が、段々と関連性を帯びて熟語になっていく。
『入って』『避難』『どこ』
ここら辺の情報は、セーフティネットにはなるかもしれないけど問題解決の突破口にはならなさそうだ。動画の方はギャオスの音声も検索をかけているけど、フェイク動画に過去に録音されたギャオスの肉声を使っているものが多くて指標にならない。
自衛隊の、ショウたちの仕事は「どうする」つまり対処フローだ。害獣の場合は駆除・排除となる。
研究者は「なぜ」「どうやって」を解き明かして先回りをするのが仕事だ。早くAXONや監視カメラの映像をチェックしないと。私たちのために別室を用意してくれるそうだから、それまではここで情報収集に努めるしかない。
そう思いながら動画検索を見ていた時、ふと中ほどに表示されている動画配信に目が止まった。
アイコンは家族写真、フェイク関連とは縁遠そうなアカウントに、場違いな動画が流れている。確認しようと思って横を見ると杉尾君もちょうどこっちを見た、首筋にぞわっと嫌な予感が走った。
「その動画ッ、最大化して!音声優先!」
画面の前で仁王立ちしてた先生が、私たちが見ていた動画を指さして叫ぶ。直接の命令権者ではないはずの指示が最優先で実行される。
動画が暗くてわかり辛いけど、五~六人用の地下壕の奥側から入口を撮ってるみたいだ。再生されてる音声には電動ノコギリみたいな音が入ってて、半開きにされた扉の階段の下で規則的に上下する何かを撮影してる。
覆いかぶさるものは真っ黒だけど、直線的なシルエットと歩行の時邪魔にならないよう持ち上げた翼端は、私たちが毎日のように見てる姿そのものだ。そして覆いかぶさったものの下に光るものがある。目だ。人間の目。
ネコ科動物は紳士的だ。
イヌ科もまあまあ紳士、クマはあまり優しくない。
ライオンなんか仕留めた相手はすぐに頸動脈を止め気管を噛み潰すから、相手はあまり苦しまない。
爬虫類・両生類・魚類・昆虫は無慈悲だ。相手が生きていようが暴れようが、力でねじ伏せ丸呑みにし、やわらかくて栄養のある内臓を食い破る。勿論ギャオスもそうだ。映像で組み伏せられている女性は、内臓を咀嚼されながら歯を食いしばって、カメラを一点に睨み続けていた。
動画はあっという間に共有され、並列した検索動画が同様の動画になる。ハウリングする音声に怯えと恐怖と悲鳴が重なる。同様の被害を伝える別動画も現れ、指揮所は罵声と靴が走る音でいっぱいになった。
もう見るなって叫ぶ人間の私と、しっかり見ろと冷酷に言う研究者の私がぶつかり合う。パニックになりながら、右手につけた真っ青な飾りに必死に手を伸ばした。頭の中で数字を数えて、過呼吸寸前の自分を何とか抑えつけようとする。
指揮所の通話回線がオープンになって、首相会見でよく聞く活舌の悪い口調が回線で怒鳴りはじめた。
『統幕から聞いてるぞ!第二避難が間に合わずに被害の通報が大量に来てるそうじゃないか!警察はパンク寸前だ、ALCSで散々引っ掻き回しておいて管理隊の奴らは何をやってるんだ!』
「お言葉ですが総理、ことは単純ではありません。避難は完了していました、不確定ですが第二避難所が何らかの方法で襲撃されている可能性があります」
『なんだ?どういうことだそれは!二次避難すれば安全じゃないのか?!避難システムに欠陥があったとしたら、最終的な責任は長峰先生にも取ってもらいますぞ!』
「総理、ここはもはや第一避難に切り替え、自衛隊・警察・消防に避難誘導をさせるしかありません。許可を願います!」
『今更第一避難なんてできるわけない!ギャオスがうろついてる所を住民移動するなんて無理に決まってる!』
「SNSでは被害の詳細を伝える情報が出回りはじめています、放置すればあと数分でパニック状態の住民が外に飛び出しかねない状況です!警報を出して先手を出さなければ収拾がつかなくなります!」
緊迫した大事な話のはずなのに、全ての音が他人事みたいに耳をすり抜けていく。息がどんどん早く浅くなって、目だけが動画を見続ける。
ああ、今気づいた。このノコギリみたいな音、人の絶叫なんだ。痛いんだ。怖いんだ。
叫び声に交じって、撮影者の懇願も混じり始めた。絞り出されるようなそれは、警察にも自衛隊にも、私たちにだって向けられてない。
「お願い……もう、お母さんのお腹、食べないで、下さい……」
オペレーターが私の横を何度もすり抜けて、部屋中に怒鳴り声が響く。いつの間にか文字検索はパニック状態を示すワードで溢れていた。『侵入』『逃げ』『通報』お守り『外へ』細い腕、テキスト、青い腕飾り……
ゴメンね、シセ。私がバカだから。
クラシックアニメの終わりみたいに狭くなる視界は、最後まで動画を追いかけた。女の子の動画はいつの間にか真っ暗になってて、他の動画に埋もれてモニターの下に消えていった。
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