第四節 朝焼け

 副班長の掛け声、一瞬の交錯、決意を込めた一手を互いに見交わす。そして――

「おめでとう、鈴木二士!」

 うなだれる鈴木の前に、チェンソーが厳かに手渡された。

「これで貴様も一人前の緩衝守だ!」

 背中を丸めてチェーンソーのエンジンをかけた鈴木は、今朝がた皆で撃ち落としたばかりのギャオスの前に恐る恐る歩み寄り、何度か周りに弱弱しい視線を泳がす。輝度を上げる明けの空と反比例するように、二時間前の晴れやかで誇り高い表情は霧消しつつある。

「まだ落としたてだからな、頭ぶった切るときにお釣り貰わんように!そのあとは翼、脚、内臓だ。やってるうちに楽しくなる、気分爽快だ!」

 うわぁぁ!と情けない声を挙げながら、鈴木がチェーンソーをギャオスの首後ろに突き入れる。緩衝地域では馴染みの洗礼だ。

「鈴木クンも貧乏くじ引いたねェ」と、その様子を見ていた飯塚が一人笑う。

「貧乏くじだってなら自分らもじゃないですか、あと数時間で夜勤明けだってのに部下のやらかしの穴埋めだなんて」

「穴埋めね、ちげえねぇ!あっははは!」

 飯塚は楽しそうに笑うが、こっちはもう背中も腰も悲鳴を上げていて返す余裕もない。隊で抜群の体力自慢の武藤も土嚢を運んでくる表情が硬い。

「まあでも、あっちの方は大丈夫そうだべ」

 飯塚が目を向ける先、あぜ道の上では迷彩を着た自衛隊員が警察官の後ろに立ち、作業服とスーツ姿の男に平謝りを繰り返す珍妙な光景が広がっていた。

 そもそも機関砲による駆除を行った場合、名誉ある処分作業はメインオペレーターの射撃手が行う。だが昨晩射撃手だった船岡は号令への反応が遅く、急旋回して伸び上がったタイミングでギャオスを打ち抜いた。死体は緩衝地域内の田んぼに墜落、水路側のあぜを二本も吹っ飛ばしてしまった。

 田んぼの水が抜けてしまい怒り狂った持ち主の武田さんは、夜間の行動制限解除と同時に、夜中に叩き起こされたであろう若手の保険屋と不愛想な警官を引き連れて基地に怒鳴り込んできた。船岡は小島班長とひたすら頭を下げ、手の空いた班員は爽快な朝焼けの中ギャオスの散らばった死体を手作業で拾い集め、そして本来は監督作業の我々小隊も、エンピ片手にギャオスの開けたあぜの修復に精を出しているというわけだ。もっとも、船岡が新米の女性隊員だとわかった途端に武田さんの態度が大きく軟化したという点で、状況は悪くはなさそうだと言える。

 そうこうするうち、赤紫だった空はいつの間に蒼空となり、あぜ道も応急の補修が完了した。ギャオスの解体と清掃は少し前に終わったらしい、パジェロが駐在基地前に止まり、隊員たちが穴埋め処分に精を出しているのが見える。船岡の方も双方の声に明るいものが混じるようになってきた、大事にならずに済みそうだ。

 自分らも引き上げようと号令し、基地を目指す。シフト明けの休日と昼間勤務を思うと気分は上向く。五日前、小隊長として初めての駆除は筆舌に尽くしがたい充実感であったが、精神的な負荷は思った以上だったようで身体が重い。まだまだ未熟である。

 退勤五分前になると、どこからともなく同僚、部下、そしてシフト交代の別隊員がICカードリーダーの前に集結する。鍛え抜かれた猛者や烈女がカードリーダーの前でソワソワするのは少し微笑ましい光景だ。そんな様子を遠巻きに見ていると、私服になった武藤がこちらに歩いてきた。一七〇前半の身長は隊内では大柄とは言えないが、右肘靭帯を断裂するまで柔道一筋だった肉体は、進むだけで周囲に圧を与える。

「お疲れッす隊長」

「おう、お疲れ」

 候補生上がりの武藤は、身体能力・知能ともに優秀だが、協調性に欠け独断専行・しばしば反抗的と、芳しくない評価だった。押し込んだように低い鼻は複数回の骨折で曲がって潰れ、目は強く張り出た額と頬に挟まれ、しゃくれた顎の上で唇が反抗的にへの字を描き、餃子耳は耳孔が見えぬほど。だが一見すると完全な肉体派という印象のこの男は、その実骨の髄からの理論派であり、頭ごなしに命令を押し付けられるより、組織論的な観点から慣例の意図を逐一上官と議論し納得することを好んだ。この男に小隊の通信士を任せたのは、彼の能力適性以上に、この気質が自分と親和すると考えたからである。

「休暇はどこ走るんスか」

「今回は遠出しないな、実家も顔出すだろうし」

「自分そろそろ日本海側攻めようかなって思ってんスよ」

「お前の体重でクロモリの峠越えはキツいだろ、カーボンにしとけよ」

「逃避行ッすよ、惚れてるんで。アイツ景色映えがハンパないんスよ」

 武藤が嫁に隠れて買った浮気ロードバイクののろけ話に少し付き合っていると、林野庁に同行して密生林の治山に行くであろう隊員達がギャオス鎮魂碑の前で手を合わせているのが見え、その様子を何となく二人で見ているとカードリーダーの行列が動き始めた。

 〇八〇〇、退勤。

 打刻を済ませると皆一斉に背を丸め、分厚い指でスマホをいじり始めるのも恒例だ。勿論自分らも例には漏れず、一言武藤と挨拶を交わすと泥が少し残る指でLINEを開いた。

 大量のLINEの広告通知を削除し、二件が残った。

 一通目は『内田兼史』、父からである。小隊長として初めての駆除成功の祝賀と激励、市民を守る行動が一家の誇りとなることが書いてある。内容の重複と句読点の多さ、最後に自身の近況と帰省への誘いが気恥ずかしいように一文添えられているのが父らしい。祝賀や激励も本心だろうが、帰省して欲しいというのが本意だろう。実家は隊区内で距離的には大したことはないが、休暇が合わずしばらく顔が出せずにいた。

 我が家の状態は安泰とは言えない。

 父は衝突後の好景気で自身の不動産会社を巨大化させて財を成した所謂剛腕だが、母によると六十近くなり体もガタがき始め、会社業績も思わしくなく精神的にあまり良い状態ではないようだ。

 そして一番の心労の原因は弟の誠二だろう。自分が入隊してから暫くして、誠二は断続的に不登校になり、家では部屋に引きこもって誰とも口を利かなくなった。

 元来由緒ある家柄で親戚付き合いも独特なものがあるうえ、後妻との間に生まれた次男という難しい立場、成果主義の父と厳格な母の中で抑圧されていたものがあったのだろう。いざ引きこもりが顕在化しても、恥を重視する家族の伝統が外部へ助けを求める一歩を躊躇させたのも、問題を長期化・複雑化させてしまった。現在では完全な膠着状態で、主導権はどちらかといえば弟の方にある。

 思春期の自分は、腹を裂いて子を取り出す激痛と勇気、親の責務を果たせるのかという不安、叱責されて泣く子の顔を見る親の辛さを理解できなかったが、三十を目前にした今、家庭はないものの親に寄り添える程度の見識は増えた。互いの歩み寄りをするために自分が橋渡しをすべきだろう。高三である誠二は進路決定までの時間的猶予がない、両親の焦りが一層募るのもよくわかる。誠二は自分よりはるかに賢い、言葉を交わせばきっと遅くはないはずだ。父には明日昼前に帰るから、皆で食事をしようと短く返した。

 さて、本命は二通目だ。毎日電話で会話はするが、会うのは半年ぶりになる。キャンセルの連絡でないかと不安がよぎるが、ペットボトルの水を喉に流し込み、その勢いで『長谷部真琴』のトークルームを開いた。

――『今日は終電で上がれそう。福島駅で待ち合わせ』

 雲一つない空が更に眩しくなったように思えた。


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