第35話 星は、そうやって見るものじゃない


『星月夜の導きで、巡り会っただけなのに。

 人々の本性から生れ落ちた暴力の連鎖が、ありふれた恋心を狂気へと変えてしまった』


それでも。それを分かっていながらも、干渉者アレもたらす腐食とあぶくの病を止める手立てはない。

疎ましきケダモノ、呪い、断罪、復讐。


その白が、あの優しかった夜を冒涜する。

その黒が、美と善を冒涜する。

その赤が、静かな眠りを犯し、全ての子守唄を冒涜した。




ある夜を境に、運びでも、殺しでも、花売りでも、何でも。

裏路地に金さえ払えば、どんな仕事でも引き受けてくれる天使が生まれた。

いつからか隣街まで、そう噂されるようになった。


「ひ、いッた、いえ嬉しいです! 何でも好きっ、何でもください、何でも受け入れます! 気持ちいいのも、痛いのも、好き……っ、や、あん、んんそこ、いい、ごッ主人さまぁ」


慈悲を、慈悲を、賎しい身にどうか慈悲パンを、報酬カネを。

おかげで仕事も稼ぎも増えたが、やって来るのは危険で悍ましい仕事ばかり。命を賭け、誇りを汚し、矜持すら捨て得た対価も微々たるで、数個のパンと薬代でなくなってしまう程度のものだった。


だけれども。

それでも娼婦であったらしい母譲りの顔と穴があるだけ、この裏街でまだ恵まれた方だろう。

だって、ほら、あちらこちらでさめざめ。

裏路地では今日も誰かが病に侵され、誰かが餓えて死んでいる。


「ご主人、ご主人、ご主人サマザマねぇ。はっ、あは、あははははははは……アー、クソ共が」


大分慣れてきたとはいえ、強制的に火照らされた体が気持ち悪い。

初めて会う客に先ほどまで弄り回された肌に嫌悪し、我がごとながら吐きそうで。

酒の中にいつも以上の、それとも新しいモノを混ぜたのか。玩具にされた腹奥がゴロゴロ———酷く、疼く。


「ちっ…! 男相手、野良犬みたいに腰を振りやがって、何が天使、何が黄金、何が素晴らしき恩寵、世界だッ」


鉛の様な体を引きずり。そうやって帰り道を歩く俺を、瘦せ細った一匹の黒猫がじっと見詰めてきた。

暗闇に浮かぶ金の瞳が、まるで夜空に浮かぶキラキラ星のようで。もう腹を空かせることも、悲しいと感じることもないけれど、惨めで。

光り輝く夜空を見るたび子供染みた殺意が湧き、気が触れそうだ。


己たちの食い扶持ブチより、愛する妹マリアの前で上手く笑えるか。

近頃、そればかりが不安の種だった。





———型破りな異端児。火薬、羅針盤、活版印刷術。人は、いつも自分たちが作り出したものを恐れていた。

季節を巡るたび、罪を重ね、業を燃やし。心は遥か遠くに消え失せ、夜な夜な真の孤独が訪れる。


白黒、目先のことだけで判断し。誰も彼も、短絡的に決めつけた。


『勝ってうれしい、はないちもんめ』

『負けてくやしい、はないちもんめ』

『あの子がほしい、あの子じゃわからん。相談しよう、そうしましょう!』


誰もが羨むショータイム、快楽主義の始まり。

主導権は誰の手に。

悪?


誰が? ワタシが? 何で?


『さがシています』

『さがシていマス?』

『サガシテ、』

『心当たりのある方は、下記警察署までご連絡をお願いいたします』


鏡の向こう、絵画の上。

他人の瞳に映った自分の姿を見てから、普段の行いを客観視してみなよ。

1位、1位、1位以外許されない。

1位以外すべて同じ、1位以外認められない。


1位、1番。一等賞、黄金のメダル、万人の頂点ホシ

すでに栄光の果実に慣れてしまった舌では、他の味を受け付けられない。


「お前ん家、可笑しいよ。何で怒らねぇの?」


眉間に皺寄せ慄く少年が一体何を言っているのか、少女は分からなかった。

笑顔、笑顔、笑って、微笑んで、いつもの笑顔。

そう「可笑しなことを言うのね、何のこと?」と返せば、より一層のしかめっ面になった相手の顔に、殊更首を傾げる。


お伽噺であろうと、現実であろうと。大切なのは「正しさ」ではなく、世間体に対する大義名分と演出だ。

彼女にとっての途中退場は、死を示唆し。

青空の下、勝ち続けなければ無意味・無価値、醜くなることを意味した。



「さよなら」も「バイバイ」も、私から言うわ。

決めるのは、あくまで私。

だってそのように創られ、負けて無能となった私なんて、貴方たちは見たくないのでしょう?


ジャスミン?「私は男に守ってもらう、可愛い女の子じゃないの。いいから黙って、ここから連れ出して」


裸足の役者は舞台の縁を飛び越えて、誰もが羨む黄金の檻から飛び出した。

彼女はどこへ?

小さな観客たちが顔を寄せ合い、お互いの耳元で無邪気につぶやく。

また彼女に会えるかな?


とも。


「それでこそあなたよ、ダーリン」


眷属に与えられる「ワンダーランド」への片道切符カギ、謎めいた仕様の紙に印刷されて、割高。

歯には歯を、はかいには新たな生を。面白可笑しく、いつもの話に花を咲かせる。


ブツを差し出して、値段を言え。

俯くな、損するな、後悔もするな。


高貴で偉大なる方々のため、様々なニーズにお応えする。

それ以上それ以下と、深く考える必要はない。

これは我々にとって、たかが氷山の一角、商売の一端に過ぎないのだから。



「怖いなら瞳を閉じて、これ以上、何も見ないで」


人間生きて、一生の内。一度は言ってみたい台詞の一つであろう「助太刀致す」も言えたところで、そろそろ真面目に空気を読もう。


「どうせ、すぐ終わる。こう見えて、私、夜中のお掃除は得意分野なの」


きゅ、と鉄パイプを握り締め。

まるで小さな子供に言い聞かせるみたいな声で、話かけてきた自称「通りすがり」の言葉に、手負いの少年は困惑気味でありながら、小さく頷いた。


うむ。

あっちこっちに赤斑点、ぼろ雑巾みたいな有様になろうと気高く。素直な美少年、いつの世でも大変お宜しいと思います。


「チッ、こんなイイとこで、なんで邪魔が……。オイ、チビ助。素直に答えてくれりゃあお前の命は見逃してやる、こんな時間に一体どこの誰の差し金だァ?」

「へへ、ただの通り過ぎなら、そのまま通りすがればいいのに。カッコ付けやがって、正義の英雄気取りか? 夢は夢で、子供はもうおねんねの時間でちゅよ~~~?」


それに比べ、大人とくれば。


「そちらこそ、大のオジサンが赤ちゃん言葉使っても、気持ち悪いだけですよ?」

「ブッ、」


彼女はそこまで言って、実家の名を出して穏便?に場を治めようかとも少し迷ったが。

けれど、こんな時間帯、増してや不審者丸出しの身なりをした子供に鉄パイプ。こんな場面で名乗ったところで絶対馬鹿にされるだけだろうし、何よりその後がより面倒なことになる予感。


迷うまでもない、却下である。


「ア""ァ、んだと!? って、ボスもオメェらもナニ笑ってんだ! 殺すぞ!!」


だからそんな思いも胸に、嫌々ながらも。アトランティアは続けるしかないのだ。


「あくまで、私はただの通りすがりですからねぇ。だから依頼主も、あなた方もどの組織組員かは存じあげませんが、最終警告です」


この茶番救出劇を。

ボロが出ぬよう、ノリノリに。

小首を傾げ周りからは見えずとも、彼女はフードの下で可愛く笑った。


後から後悔するくらいなら、初めからやらかし、やらかさなければいいのに。

場の空気、深夜テンションの相乗効果もあって。増してや、片手に鉄パイプなもんだから。


「死にたくなければ、今すぐお失せになってはいかが?」


と。

例え、いくら内心思えど、普段の自分ならきっと口に出さないような煽り文句を、口遊みながら。その場限りのノリと調子に生きる彼女とは、私のことです。


なので、そんなある意味空気を過剰に読み過ぎて、空気に呑まれた斜め向こうの様な発言に。数分前の「姫」発言以上、一瞬にして静まり返った周囲は、無論のこと。

今宵のヒロイン、姫ポジの人から「オイ」と息を呑むような、焦りが伝わってきたのは言うまでもない。


軽く見渡せば凡そ20人ぐらい。目の前に隙間なく、そびえたつ山の如しな男共は様々な顔をしていたが、一貫して共通しているのは誰も動かぬまま、イラつきや殺気を露にしていることだった。

何の音も立てず、何も喋らない。ただ目前の「命知らず」を見下して、誰もが抜身の刃を鳴らしている。


そして、ソレらの様子をアトランティアもアトランティアで静かに見詰めた。

前世含め初めて垣間見る、本当の暗殺現場。

元来ならば普段でも、こんな今の自分より一回りも二回りもガタイの良い大男たちを前にしたら、立っていることすらままならないハズなのに。

今夜の自分は、一体どうしたのというのだろう。


悪意と暴力に満ちた世界。

既に刃物を向けられ、今にも殺されそうなこの場所。

けど、それでも、やはり、ここは自分にとってはいつもの散歩道で。


「………?」


だからなのか、この時のアトランティアの胸中を占めたのは然るべき恐怖・緊張ではなく、「嘘でしょ?」というだけの疑問だった。


こんなものだっけ、と。


私という人間は、こんなのだったっけ。

これまでの、昔の、嘗ての、私は。

「あの頃の私」は一体何に怯え、恐れていたのだっけ。

はて……??


「……恨みは今できた。悪く思うなよ、お嬢ちゃん」


相手は相手で、本気だろうけれど。今生のお父様に比べれば、何の重みもない言葉だった。

怒ったお母様に比べれば、ずっと怖くない。

初見だろうと2人の兄よりも、よほど扱い易そうである。


お婆様の圧迫感に比べれば、なんてこともないし。お爺様の巨体さを知ってしまえば、目の前の男たちなぞちっぽけなものだ。

レイチェルちゃんより優しくて、オリヴァー兄さんよりも素直。

それどころか、自分の中にある気紛れさに比べれば、寧ろ楽。


四六時中、365日、朝昼晩、22年間。底なし沼のような前世の環境に比べれば、何も感じないし。底知れない相手カイブツと対峙するよりずっと、幾ばくもマシ。


嘗てはそんな環境下でずっと、ずっと独りで生きてきたのに、どうして忘れていたのだろう。

大きくも、小さく。

物騒でありながら、素直で。

何より、その程度の『牙』と殺意で自信満々なところが。今のアトランティアの目にはどうしようもなく、「可愛く」見えた。


真正面にいる比較的紳士的な男も、その傍、先ほどまでキャンキャン吠えていた男もまた、可愛らしく「普通」に見えるのである。


普段の勉学や創作活動が捗るだけではない。

それだけ深夜特有のドーパミン効果って、凄いので。


「せっかく貰った命なら、天寿全うするまで大事にしてれば宜しいのに。飛んで火に入る虫の反面教師、誰の差し金だ、でしたっけ?」


自分たちよりずっと小さな姿形で、少女の声。だのにこんな場面であろうと異様な落ち着きを見せる相手に。男たちは顔に出さずとも、得も言われぬ悪寒を感じた。

その一方、アトランティアは続ける。

そして、思うのだ。


「もうすぐ沈む泥船に乗って、そんなこと知ったところで何が変わる?」

「たかが小娘風情が、一体何を、」


その、目、と。

向かい相手のその、まるで頭のネジが外れている人間を見るような目で。

みんな、私を狂ってるって指さして表現するけれど。

『私』だって、初めから……。


「まぁ、人生は映画の様にいかないからね。人形でありながら五感が化け物染みているらしい【異種族】と違って、生まれながら人間の脳に、危険を知らせてくれるレーダー機能が備わっている訳でもあるまいし」

「だッから、さっきから、一体何をごちゃごちゃと…」


怒鳴る男に、クスクス笑いかけ。


「けど、私は違うわ」

「は?」

「分からなくても結構、別に理解を求めている話ではありませんから」


これ以上の言葉は要らない、と。

欲しかったのは心の安寧と、心理的な静けさだけ。

手段を択ばず、怯えず、恐れず。

「人でも魔物でもそれ以外でも、敵を前に俯くなよ」と、師匠センセイがよく言っていた。


これまでのこの身では、そんな機会も場面もなくて、分からなかったけれど、今なら少し分かった気がする。

それはこういう意味だったのかしらと、今なら思う。


人間が一番怖いのは、結局人間。

笑顔は最高の威嚇行為で、自分の身は自分で守れ。

眼を逸らすな、俯くな、地面を見るくらいならうえを見ろ。


私たち【権能ギフト持ち】は、常に常人より混沌と複雑な感情の中に佇んでいる。

そして生まれつき普通の人間より、感受性と五感が鋭く。

そればかりはどう隠そうと、どう足搔いても『普通』とは程遠い、日常生活の中であろうとなかろうと、色々常軌を逸していた。


「嫌よ、そんなに見詰めちゃ嫌」


私も、そうであるように。

だからそんな目で見るなとは、言わない。

だってそれも今更となっては、どうでもいい余談でしかないから。


私の場合、『アトランティア・アールノヴァ』の場合、その異質性はきっと、記憶やその関連に及ぶものなのだろう。

一部虫食いがありながらも、一作の映画の様な前世ワタシ記憶アナタ


「ご安心ください、死体が出ると面倒ですし。たかが小娘ひとり、貴方がた次第では命まで取りません」

「ブ、ブハハハハッ! 頭のネジが抜けた箱入りかと思えば、本当にイカレた小娘みたいだ!! なア、お前ら!!」


沈黙の後、一人が吹き出し笑えば、ギャハハハハ。怪しみながらも一切合切、美しい海辺街の夜を冒涜するかのように嗤い出す男たち。

そんな異様な空気の中、相手側の先頭、アトランティアの真正面。低い声を殊更低くしたボスらしき男は可笑しそうに、けれどもそれ以上、獰猛な笑みで口開く。


「……随分と、マァ、俺たちも舐められたもんだ。子ども相手だろうと、その態度、その言葉、責任取って貰うぞ」

「あら怖い、そう怒らないでくださいな。先に人の家のお庭でマナー違反を侵したのはそちらでしょう? 私は、ただ通り過ぎただけですのに」

「んだと、テメェ、」

「そのよく回る口もいつまで持つか、見ものだな」


あと数年もすれば大層、イイ女になりそうなのに。残念だ。


愉快そうに目を細める相手の言葉に、彼女も可笑しそうに笑った。

また僅かの沈黙を経て、ふふ、と小さく。アトランティアは、もう一度笑う。

その綺麗な、汚れ知らずのまっさらな顔へ少しの皺を寄せ、クスクスと。


いくら顔が見えずも、自分が誰なのかを知らずとも、こんな時に。そうすれば本当に動揺し出すのは相手なのだと、彼女は知っている。


「ただの小娘と戦って、後になって『警告しなかった』なんて言わないでね」

「…………っ」


たかが小娘、されど常日頃から猛獣や魔獣蔓延る帝国西部、ノヴァの娘。

自分以上の皺を眉間に寄せた向こうを見て、彼女は言った。

そして笑った口を、空いた手の甲で隠して。

掌を男たちに向けて微笑み、それから。


「折角の星月夜は、そんな物騒な物を持って楽しむものじゃないわ」

「! 来るぞ、構え、グッ!!」

「遅いし、クドイ」


と、その声を、音を。助言染みた発言を最後に、鉄パイプに魔力を纏わせ、走り出すのであった。

突風が巻き起こる打撃音と共に、小さな黒い影が宙を舞う。


死にたくないから、決して負けないように。

痛いのは嫌だから、傷つかないように。

心が乱れるから、思い出さないように。


不動の地位、尽きぬ財産。類まれなる潜在能力や才能、天賦、暖かな環境に優しい家族。

もし前世と呼べる記憶ワタシの生い立ちが理不尽の連鎖、世の闇と哀を詰め込んだうつわだったのなら。

今の自分にとって、今生、アトランティア・アールノヴァとしての生命は美味しいコース料理真っ只中の、栄養補給。


だから、私は。


「やめろ、やめてくれ! 参った、参ったから!!」


道徳、人権、倫理観、常識ですら、勝者であるからの特権だ。

だから、そんな。ようやく手に入れた真面な人生、幸福を守るのに一体何の迷いがある。

やっとの思いで手にした私の、彼女あのコの、『シアワセ』なのに。


「どうして、汚すの、私のおうち、大切な庭を」

「こ、おり魔法だと……ッ!? それは、その魔法系統は…っ、貴様! 本当に何者だ!!」


氷のつぶてが宙を舞う。

赤い水しぶきが跳ね、その都度静かな夜が冒された。

遠くで大勢、人の気配がする。

それでも、今は。


喚き散らす相手の攻撃をものともせずに、淡々と。

ただひたすら同じ作業を繰り返すように、冷静に、着実に———沈めなければ。


「お馬鹿さんたち、ようやくお気づきに? 『普通のたかが』小娘が、こんな時間帯に赤裸々、こんな場面に首ツッコむハズもないでしょうに……」

「グ、ぁあ……!! 冷た!!」

「この地産まれの者なら、赤子でも分かる常識です。どうしてここ最近、自殺願望者がこんなに多いのでしょうか。駄目じゃない、特にこの庭で、従うべき相手と噛みつく相手を間違えちゃ」

「ヒッ、ば、化物」

「化物? 怪物? ありがと~、最高の誉め言葉よ」


そう微笑めば、又もや複数の悲鳴が重なり合い。最もな当事者であるはずなのに、完全に外野になって仕舞ったお姫様。

敵の言葉を借りるならば、突如湧いて出た様な通りすがりスケダチ


に、もう、ドン引きである。


それでここまで破天荒なやつだとは思いだにせず、油断しきっていた相手陣営。

その頂点ボスであろう男の表情。

一段と荒々しく口角を吊り上がるも、鉄パイプに殴打されるか、氷に強制停止されるか。そういった仲間の脚や屍に引っかかって自滅するかで、芋ずる式に減っていく部下を見ては眉を顰め、強張っている。


既に暗殺どころの話でも騒ぎでもない。

大損だ。


「ねぇ、これでもまだ、私とやり合うの? 生きが良いのね、いい事よ」


先ほどまでとはうって変わって、落ち着きながらも隠せていない、どこか浮ついた声色。

心なしか、チラッとフードから覗いた少女の瞳は、三日月のように歪んで。

見ようによっては、サタデーナイトフィーバーみたいな風情である。


当の本人からすれば、あくまで気持ちと時刻、空気やテンションのタイミングシンクロ問題なのだけれども。

緊張感、昂揚感、恐怖心。

背筋にぞくぞくナニカが競り上がって、胃の辺りがもぞもぞして、たくさんのものが拠り合って一本の琴線になっていた。


それが強く引っ張られて、体中に張り巡らされ張り詰めている。

傷つく恐怖より、武者震いが起こる。

恐怖で無い震えで、武器を持つ手が震える。

高鳴る鼓動と、今までに感じたことのない欲求。


嘗てないほど、剝き出しにされた本能。引き絞られていく感覚すら、狂おしい一生もの、初体験のようだった。



「———花は、お好き? あと夜の海も」


最終的には汗やら何やらでベタつく自分の頬に、ひらりと夜風に吹かれた、一枚の薄紅が舞い着き。

何となく顔を上げた先には、春の月。


いつも以上に研ぎ澄まされた神経、足音、さざ波。

朧げな月明かりに照らされた自分の姿はきっと、彼らが言う通り「化物」なのだろう。


その手には口紅の様な赤が煌めいて。その足元に散らばる赤も、はらはら零れ落ちた西洋実桜の花弁と相まって。

まるでトップスターが歩む花道、いつしか踏み占めていた旅路レッドカーペットのようだった。


『さがしています』

『さがシていマス?』

『サガシテ、』

『どうして誰も、探しに来てくれないの』


揺らめく記憶の蜃気楼。

夕焼け小焼け、そして夜になっても、いつまでも。

行方不明となったそれぞれ違う子供たちのボロボロな張り紙が寂れ廃れ、すり切れ。加害者と被害者の目尻で、ゆらり、くらり。


「言ったでしょう、すぐ終わるって」


彼女は知っていた。


けれどそれは、あまりにも昔のことなので、きちんと思い出すことは出来なくて。

嫌な思い出だから、積極的に思い出したいものでもなくて。

だから、態と知らんぷりしては。


『×××の、うそつき』


目覚める度、すぐに忘れてしまうのです。


「おヒメ、いえ、お兄さん…怪我、してるの?」


もう大丈夫だと、繰り返し。

自分に言い聞かせるように、相手を安心させるように。

優しく、優しく、頼れる姐さんぶって。

子守唄のよう、揺り籠のよう。


「お前は、一体……」


狐に摘ままれたような少年の顔が一瞬にして、見る見るうち赤らんでゆく。

あら愛いらし、と。

嘗ての恐怖は闇に消え、謎めく運命が人知れず廻り出す。


不安、喧噪、安堵の狭間。

初めて湧き出る想いこころが嫌に騒ぎ、鳴らんばかりに。喉がゴロゴロ———酷く、乾く。


「オイ、こっちだ! 子どもと怪我人もいる!!」


大丈夫かと、たったそれだけのハズなのに。

響いた少女の鈴の音は、自分の中に新たなナニカを搔き立てるに十分過ぎる威力を持って。


「あ、ヤバ。どうやら、時間切れみたい……」


と。

そう言い残し一夜かぎりの夢、幻のように消え失せる。


最後の最後、フードの中。チラリ覗いた彼女の瞳は、まるで星夜か。

もしくは、それをそのまま映しとったこの地。夜海ヨミの、金色散らばる藍をしていた。

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