私はモブ令嬢A?ポジなのに友人が毎回存在詐欺だと言ってくるのが誠に遺憾である。

雪 牡丹

第一章 君は迷子の子猫ちゃん

第1話 始まりは赤を踏んだ猫の先に


———ありがとう


と、誰かの声がした。

劈くトラックのブレーキと、数秒前までぐだぐだ駄弁っていた友人の悲鳴。

小さく、黒い野良猫。

反射的に走り出して、飛び込んで、手先にじんわり小動物特有の柔らかな温もりが触れた次の瞬間。

涙や悲鳴すら出ない腹部の痛みと共に、世界がスローモーションになる。


「—————ッ!!」


茹だる様な熱が身体を侵食していく、夏の日の出来事だった。

憎らしいほど青い空、入道雲に蝉の声。

真夏の太陽に熱されたコンクリートに自分の体が叩きつけられる。

悲鳴、騒めき、赤、赤、生々しい、暖かい、赤。

鉄の塊にはねられ、引きずられ、血肉が潰れ、最後の衝撃で全身の骨が軋んだ。


ただそれでも、痛すぎて逆に痛くないのは、ある意味幸せななのかもしれない。

「———ちゃん!!」「私の子を、助けてくれてありがとう———」

遠のく意識の傍ら、誰かの声がする。

よく知る友人の声と、知らない……女の声。


「きゅ、っ、きゅうきゅうしゃ、だ、誰か、ねぇ、血がッ」


突如の事でびっくりしたであろう。

謝らないといけないのに、声が出ない。

ありふれた世界、ありふれた人生。

家族との仲は余り良く無く、後悔も心残りも多々あるが。それでも何だかんだ、幸せな人生だったと思う。

痛い、痛い、でも痛くない?

次第に遠くなる周りの騒めきと、一番近くで掠れゆく友人の泣き声……。思わず頭に浮かんだ映像は、まるでよくできた一本の映画の様だった。


(なるほど、これが噂に聞く走馬灯と言うやつか……)

「ウ、っあ……ちゃんっ!!」


我が最期ながら、確実にトラウマ案件。

そんな本日のグロ画像を見せつけてしまった友人には、本当ごめんとしか言いようがない。

いくら自他共に認める海外ホラー好きでも流石に此れはきついだろう。それだけ、フィクションとリアルじゃ訳も解像度も違うのだ。


耳障りな呼吸音しか出ない声帯では、謝りたくとも謝れない。

だから、ごめんね。


「ちゃんッだ、ダメ、ねちゃ、だ、だめ、ねぇ……」


最後の意識、心の中でそう呟く。

これが本当の最後。

もう何も聞こえなくなった真っ暗闇な世界でひとり、わたしは、もう、死ぬのか。

ひとり、一人、独りで。私は、


「にぁん」

「い、いや、誰か」


今ともなれば死ぬのは怖くない、が、ひとりは一寸怖い。

思いだす。

幼い頃から、あの家で。

私は一人でいるのが、何より、怖かった。


遠い日の記憶。

大きな屋敷、大きな部屋、大きなベッドでひとりぼっちの夜。

私は男児でないから、誰も私に手を差し伸べることはなかった。

私は出来損ないだから、誰も私を守ってはくれなかった。

あれほど焦がれた両親の愛は与えられず、最後の光すら嘗ての私は自ら手放す。……そんな遠い日の、冷たい思い出。


「……本当に、ありがとう。私たちの××××」


後は死にゆくだけの頭の中で、今も誰かが泣いている。

そこにぼんやりとした声が響いた。

光のない黒。知らない女の人の声。

———それが、私が『九条雪乃』であった最後の記憶で、




不思議なほど辛くも痛くもない、三途の川。

でも正直に言うと。私はまだ、死にたくなかった。





———奇しくも同じ時に、投げられた賽。


「これは正しく奇跡だ」


と、老人は言う。

この日、この時。如何にも大富豪や貴族らしい、豪華絢爛な部屋の中での出来事であった。

大きなベッドの傍。

中世的な医師の恰好をした年寄りが震える掠れ声で、そう呟く。

嘗て無いほど、揺れ動く。その信じられないものを見る瞳が、今の現実を何よりも如実に物語っていた。


黒いフード。金の刺繍を施したローブ。

老医師の後ろに控えていた魔術師たちも、思わずと言った風情で驚愕の顔をしている。

そして、そんなベッドの反対側で。見るからに年若い男女と、方や沈黙、方や大泣きしている幼い少年が二人いた。


「奇跡…………」


妻の肩を抱いた男が、老医師の呟きを反芻する。

静まり返った部屋に響くその声。老医師は一度大きく唾を呑み、口開く。

「左様でございます、アールノヴァ公爵様」

と。

それがこの世界における、男の身分であった。


「……この身で医学に携わり、いやはや40年は過ぎましょう。その様な私から見ましても、この度、ご令嬢に及んだ現象は正しく奇跡でございます。

 こうして直に見ていなければ到底信じられないであろう、奇跡、」


衰弱しきった幼い体では、到底耐えられないだろう魔力暴走。

だのに、まだ生きているというのだから。これを『奇跡』と呼ばずとして、一体何を奇跡だというのだろうか。


「本来ならば、きっと、なのに、今は…………」


辛うじて絞り出したような声。動揺を隠そうともしない眼差し。

台詞の最後にはもうほぼ半泣きで。

いくら直接的な血の繋がりが無くとも、医師でなくとも、誰だって愛する者を失うのは怖い。

職業柄、数多の去り行く命を見てきたはずの老医師だって怖かったのだ。


老人にとって。この恩人夫妻の娘は、自身の孫の様な存在であり。それこそ生まれた時から、実の孫よりもずっと可愛がってきた子なのだから、余計に。

涙ぐむ。

本当に恐ろしかった。

子供だろうと大人だろうと、それだけ、このような奇跡でも起きない限り。先天的な魔力が暴走して生き残れる可能性は無いに等しい、故に。


「嗚呼、神様…………!!」


この場に居合わせた全員、その事をよく知っている。

それがこの世界……強いては、この西大陸の常識だったから。

悲鳴にも似た感嘆。

始めこそは茫然自失としていたが、ようやく現実が現実だと実感したのか……。濡れ烏のような美しい黒髪を持つ女は、反射的に夫の腕の中から飛び出し、数分前まで生死の淵を彷徨っていた娘の躰にしがみ付く。


汗だくの幼い体は、まだ、氷のように冷たい。

でも、ここ最近暫く見ていない娘の穏やかな寝顔を見て。普段何かと気丈な母親ですら、とうとう泣き出した。

恐る恐る手を伸ばす、指先で触れる娘の額。

奇跡。

安定とした呼吸音と鼓動が告げる、何度見たか分からない都合の良い夢ではない。———『奇跡』。


「あなた、ノア!! アトランティアが、私たちの娘が、生きてっ」


次の瞬間。

女はハラハラ涙を流しながら、未だ背後で立ち尽くしている夫と息子たちに振り向く。

歓喜と言うよりは、悲鳴の如く震える声。

共に伸ばされた妻の手に、この家の当主であり娘の父でもある男も、ようやくの思いで現実に返って来る。

立場と性格上、流石に泣きはせぬものの。ハッとその冷たい美貌を破顔させ、表情を安堵に染め上げる……。その様子からして、今この時の男は男で恐ろしい思いをしていた様だ。


妻の手を握りしめ、もう片方の手の親指で娘の目尻をなぞる。

涙で濡れた赤い跡が余りにも痛々しい。

赤子の時から愛する妻に良く似て、月下美人の如く綺麗な娘だった。


「—————ッ!! 嗚呼、神よ、本当に……っ」


一時は己の愛娘を奪おうとする神と称される存在を、あれほど憎んでいたのに。今では感謝の念しかない。

信じ、拝み、信仰するかはともかく。神話時代が終わったこの世界で、今も神は実在する。

昔から姿を見せないだけの、実在「は」している、超常的な存在だ。


「アトランティア、アトラ! ああ、僕の可愛い妹、」


父に続き、そう呟くのは。長男、リアム・アールノヴァ。

眠る妹を見るその青い眼は、水面のように揺らめいている。


「ティア………ッ!! ありがとう、先生!! 俺の大事な妹を助けてくれて、ありが、とう、本当にありがとう!!」


そして、そんな長男に対し。次男、ルーカス・アールノヴァ。

兄弟そっくりの様で一寸違う色味が混じる青は、もうとっくにダム崩壊中。

二人とも妹と違って、見た目こそは完全に父似でも。生まれながらの性格や、普段の言動は正反対ともいえる兄弟だった。


「公子様っいえ、私は、何も、っ」


いくら現段階での歳が歳でも。高位貴族にしては素直すぎるルーカスの過剰な感謝に、老医師は謙遜する。

そして、そんな公爵夫妻や公子二人。

後は、当の老医師と魔術師たちの声が部屋の外まで木霊し、連鎖的に、嘗て無いほどの緊張と恐怖で染まっていた屋敷が良い意味で、一気にザワつき始めた。


電光石火の如く伝播する歓喜の声と、雄叫び。

部屋の外で昨晩から夜通し控えていたメイド達からも喜びの声が上がる。

哀からの愛。

絶望からの奇跡。

「嗚呼! お嬢様!!」と、思わず皆がこぞって口遊み出す。


「ありがとうございます、神様、ありがとうございます」

「良かった、よかっ、た、もしお嬢様の身に何かあれば、私は………」

「ちょっと、縁起でもないこと言わないでよ! 少し病弱なだけで、あんなに心優しい私たちのお嬢様が助かるなんてあたり前じゃない!!」

「だ、だってぇ……っ!!」

「コラ! 貴女たち!!

 その気持ちはよく分かりますが、喜びを分かち合うにしても、もう少し静かになさい!! 仮にも部屋真ん前でそんな大声を出して、お嬢様の治療の妨げになったらどうするんですか……ッ!!」

「そう言うメイド長の声が一番大きいですぅ!!」


そうやって、この日。

一番初めに屋敷全体を覆い隠していた死の静寂を破り裂く彼女達の声は、とてもキラキラしていた。

安堵の溜息。

人によってはぽろぽろ泣きながら腰が抜けたように壁や、近くの同僚の肩へ靠れかかる。



暗雲過ぎ去った正午。

それは。泣きたくなるほど綺麗な青をした空の、夏の出来事だった。

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