第9話
学生時代かじっただけの僕の読解力では精読するのに難しく、イタリア語の辞典を図書館で借りて来て、それを駆使しながら6日かけて読んだ。
返しに行った日、僕は執事に招き入れられた後、一人で部屋に行くように言われた。
僕は執事に帽子を渡し、借りた本を手に持って、廊下を歩いた。
部屋についてノックをした。
中から彼女の声がして、僕は部屋のドアを開けた。
彼女は書架の陰から出て来た。
僕は一通りの挨拶の後、彼女に尋ねた。
「本をありがとうございました。それで……良かったら教えて欲しいんですが、彼の何を気に入ったのですか?破天荒な所?それともその才能に?」
“伝記”という性質上、彼女が惹かれたのは著者の作風などではなく、登場人物、この場合、画家そのものだろうという事は見当がつく。
が、画家の全ては僕とは正反対で、正直、僕が気に入られた理由をこの本から見出す事は出来なかった。
「正直、僕はこの画家をあまり好きになれませんでした。絵は素晴らしいと思いますが、どうも破天荒過ぎて………芸術家とはかくあるべきという典型の様な気もしますが………」
彼女は僕から本を受け取ると、ん~~っと考える様に唸った。
そして一言、分からないわ、と言った。
「強いて言えば、その人の書く文章が好きだった、という所かしら?」
「でも、伝記なんて、どれも似たようなものでしょう?誰が書いても大体同じようになる。違いますか?」
「私には違うのだけれど、どこが違うのか、上手く説明出来ないわ。だって、そんなの感覚の問題でしょう?感性って言った方が良いのかしら?う~~ん………やっぱり私にはムリ」
作家のあなたと違って、と彼女は肩を竦める。
そして本を持って書架に向かった。
僕はその後ろを付いていく。
彼女と話したかった、だけじゃない。
彼女の姿を少しでも多く見ていたかった。
この目に、この胸に焼き付けたかった。
「僕ならそれを説明出来ると言うんですか?」
「えぇ。なにしろ作家は、言葉を駆使して人の心を揺さぶるのを生業にしている。違う?」
彼女は書架に本を戻すと、更に奥に向かう。
その後ろを歩きながら、僕は彼女の問いに対する答えを探した。
「………そうなれればいい、とは思っていますが」
実際にそんな事は考えてなかったが、そう応える事が、正解の様な気がした。
彼女は足を止めると、踵を返し、僕を見上げた。
僕は不躾にも、彼女の顔をじっと見た。
彼女は今まで見た事のない程に冷たい表情で、だからこそ僕は、彼女の美しさを実感した。
ほとんど左右対称と言って良い程整った顔は、まるで彫刻の様。
そして僕は、彫刻に心を奪われた、ヒトだった。
彫刻が口を開いた。
「本当に思っている?本当にあなたは、人の為に小説を書いているの?教えて」
そのまっすぐな問いに、僕は返答に窮した。
「私、あなたの本を読んだわ。読んで、今のあなたの言葉は、違う、と感じた。本当はどうなの?私が違ってる?」
彼女の言葉が僕の心を刺した。
何と言って切り抜けようか?と頭を働かせようとするが、その動きも封じる言葉だった。
僕は逃げられない事に気付き、ゆるゆると頭を振った。
彼女には嘘は吐けない。
ぃや、彼女の前では嘘は自分の身を守る盾にはならない。
何の意味もないのだ、と、そう思った。
「僕は、僕の為に小説を書いています。人の為なんかじゃなく。僕の為に………」
書かなければ押し潰されそうになるから。
抱えた石の重さに、己の心が潰されない様に。
僕は書いている。
「僕の家は昔、そこそこの金持ちでした。暮しに不自由な事はなく、望めば大抵の事は叶っていました」
だが、その生活は15になった年に消えてなくなった、と僕は話した。
13年前の事だ。
「正確には盗み取られたんです。父が、友人だと思っていた男に騙されて……家も事業も全部無くなった」
借金こそなかったものの、両親と僕は無一文になってしまった。
母はすぐに心労で倒れた。
もともと体の弱い人で、倒れてすぐにこの世を去った。
父と僕は2人になった。
それでも父は何とか事態を好転させようとした。
友人達を頼り、わずかな金を借り、安フラットを借りた。
そこから出資者を募り、新しい事業を興そう、と父は張り切った。
だが、それは出来なかった。
事業内容が悪かった訳ではない。
事業の説明をしたいと言って出向いた父に、誰も会ってくれなかったのだ。
「それまで父を頼って来ていた人達は、手の平を返すように去って行きました。父は傷心に倒れ、僕は半年の内に両親を亡くしました」
「それで?あなたはどうしたの?」
悔やみの言葉の代りに、彼女は話を促した。
「僕は………最初から呆然としていました。急に学校を辞める事になった日からずっと。15とはいえ自分で働いた事もなく、何も考えていなかった。子どもだったんです」
目まぐるしく変わっていく暮しに、心が付いていかなかった。
ただただ景色が変わって行くのを眺めていただけだ。
まるで汽車の窓から外を眺めるように。
「それでも両親が死んで……僕は否応なしに働かなければなりませんでした。働かなくては住む場所も食べるものもなかった。だって僕は、孤児院に入るには大きくなりすぎていましたからね。幸い、屋根裏部屋を格安で貸してくれる人がいて……新聞配達やメッセンジャー、靴磨きに駅の売り子。何でもやりました。朝から晩まで追い使われる様に働きました」
不平を言う事は出来なかった。
不満を口にする事は許されなかった。
そんな暮らしの中で、鬱屈した気持ちは心の内に大きな石となっていった。
「心の内の石が原因ではないのでしょうが、僕は物を食べられなくなりました。喉を通らないんです」
食べずに済むのは金を使わずに済むので有難かったが、身体がもたなかった。
ぼぉっとして仕事も休みがちになったある日。
「僕は父の遺品を整理する事にしました。もしかしたら売れるモノがまだ残っていないかと………家賃だけでも払わなければ追い出されてしまいます。予想通りと言うか……やっぱり大したものはありませんでした。でも僕は、父の日記を見付けたんです。そこには僕の知らない父がいました。いつも前向きで雄々しく、頼れる人だったのに………」
僕はその日記を貪るように読んだ。
こんなに弱い人だとは思っていなかった。
こんなに迷い、惑い、悔い、嘆いていたなんて、知らなかった。
僕は考え、そして思った。
「父は日記を書く事で、己の感情をコントロールしていたのだ、と。僕は今、負の感情で押し潰されそうだ。だったら僕も日記を書いてみてはどうか?と思ったんです。僕は書きました。書けば書くほど気持ちは落ち着いていった」
そうすると腹も減る様になった。
また、食べる為に働く様になった。
が、以前とは心の持ちようが違っていた。
「それまで僕は、父の遺品であるインクやペンを使い、父の日記の隅に日記を書いていました。が、僕は自分の日記が欲しくなりました。ペンやインクも。だからそれまで以上に働きました」
それは辛い事でもあったが、同時に、日記を書ける、という喜びでもあった。
立派な日記帳は高くて買えなかったから、一番安い、小さなノートを買った。
何冊も何冊も。
そのうち、現実や絶望しかない日記の世界は、なんて寂しいのだ、と思う様になった。
「僕はその中に将来の夢や希望も書く様になりました。そして同じ頃から僕の生活は少しずつ変わり始めました」
「どんな風に?」
きっかけは、ノートを買っていた文具店の店主が、何を書いているんですか?と聞いた事だった。
「日記です、なんて、何だか恥ずかしくて。だから、小説です、って言ってしまったんです。言って後悔しました。だって店主は、だったら自分の知り合いの編集者を紹介してやろうって言ったんですから」
人の良い店主は、僕に、書いたものを店に持って来なさい、と言った。
僕は断ったが、もし万が一、それが本になったら大金が手に入るんだ、と言われた。
「その言葉はとても魅力的に聞こえました。僕は急いで家に帰って、短編の小説を書き、文具店に持って行きました」
それはある男の話だった。
日記によって、精神の均衡を保っていた男の。
「1週間で書きました。それが何と、ある雑誌に載る事が決まったんです。誰かの原稿が間に合わなくて、その埋め合わせでしたが。僕の手元には原稿料として、まとまった金が入りました。僕は仕事を辞めました。小説を書いている間、楽しかった。自分や父の事なのに、全く知らない男の話を書いている気分でした」
まるで他人の人生を覗き見ている、という背徳感。
他人の人生を操っている、という優越感。
日記とは全く違う高揚感を小説は与えてくれた。
「僕は小説を書いて暮しを立てよう、と決めました」
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