第101話 犬吸い

作.ユーリ会計


 横浜ワールドポーターズから徒歩で馬車道駅へと向かう。万国橋に差し掛かり、彼は考えた。「俺はあれをペットだと思っていた……これは本当に事実だろうか。あれだけの愛情を注いだのは、単に犬だと認識していたからであり、恋ではなかったと……?」

 スマートフォントークアプリでのやり取りや部室での何気ない会話で少しずつ積み上げてきた穏やかな信頼関係、そこに嵐が吹き荒れたのは、あのサイコパスめいた男子がやってきたからである。機会が訪れさえすればきっと、語尾に「♪」を付けて話す図書委員のぬりや是々と、信用できる人物にのみ愛想を振りまく小木部長は、急速に仲を深めていくだろう。

 十月の乾燥した風は触れる人々の体温を奪おうとし、遮るもののない大きな橋の上、降り注ぐ日差しは温もりを補完しようとする。彼が日差しの方を鬱陶しく思うようになるくらい歩いた先には、小木部長と初めて二人きりで入ったカフェ。土曜日の昼間ともなれば観光客で満席だろうと近付いてみると、ガラス越しにこれまで創作活動部の部室でしか見たことのない二人の姿が目に映った。小木部長とぬりや是々だ。小さなテーブルを挟む二人は笑顔で、楽しそうに何かを話しているようだ。

「他星の王子さまという小説を書いてみたいの。犬のポチが吠えるところから始まって、UFOに乗ってきた異星人の事情に息子が巻き込まれて、何だかんだあって、異星人がポチを連れて帰るっていうラスト。どう?」

「そういう、なんとかして読み手の予想を裏切りたいという貪欲さは大好きだが、山羊座のA型はアホしかいないのか……」

 同じ山羊座のA型同士で文芸部らしい話をしていた頃が、彼の脳裏に浮かんでは消える。ぬりや是々は文芸部員ではないのにどうしてだか時々顔を出すようになり、小木部長に気に入られ、彼の立ち位置を奪おうとしているのである。

「誰のものでもねえっつの」

 グレーのキャップ、ダークグリーンの長袖シャツにブルーのデニムパンツ、手には飲みかけの缶ビールとセブンスターのソフトボックス。独り言を自身に聞かせるように吐き出すと彼はキャップを目深にかぶり直し、秋風の中、カフェの前を通り過ぎた。


 彼の名は、伊勢佐木水都(いせざきみなと)という。私立高校にしては平凡な学校に通う二年生で、創作活動部部長を務める同学年の小木英子(こぎえいこ)とは、部活帰りに一緒に帰る仲だ。

「図書室に村川春樹の新刊が入ったよ。ハードカバーの」

 創作活動部の部室のドアを開けるのとほぼ同時に、ぬりや是々の声が聞こえた。

「本当?」

「今ならすぐ貸出できるから、来たら? 文体研究してるって言ってたよね」

「うん、行く」

 ぱっと顔を上げ、ブラウスの丸襟とリボンを指先で整えながら、小木部長は椅子を立った。

「おい、会計と書記が来るの待つんだろ」

「あ、二人が来たらちょっと待っててって言っておいて」

「……わかった」

「ごめんね、伊勢佐木くん。じゃあよろしく」

 村川春樹の作品については詳しい伊勢佐木も、新刊の魅力には太刀打ちできない。横浜山手の丘に建つ校舎の窓からは冷たい北風が入り込む。彼はいそいそとドアを出ていく小木部長を、ただ黙って見送った。

 伊勢佐木は気付いていた。いつも部室で小木部長と文学について論じ合ったり書いた小説を評し合ったりするのは、まるでウェルシュ・コーギーと一緒に気持ちの良い布団に入ってぬくぬくしているようなものだと。ともすれば犬吸いまでさせてくれそうな関係だったというのに、ぬりや是々の登場で次第に小木部長との距離が離れていることにも。だからといって、何をできるわけでもない。自分はただの部員であり、小木部長との間に隙間風が入り込んだとて、自分から近付こうとは思わなかった。

 彼はそれを、自身にとって小木部長はペットだからだと結論付けた。彼女の薄紅差す笑顔に触れたい、華奢な腕に手を差し伸べたい、細い腰を撫で回したい……そんな欲望は、ペットに対するそれと同じだと。より適切にかわいがってくれる飼い主が現れれば、ペットにとってはその方が幸せだろうと。

 毎日のようにしていた彼女とのトークアプリでのやりとりは、今ではもうなくなってしまっている。前回の会話から既に一ヶ月が経とうとしているのだ。

 「伊勢佐木くん」と呼ぶ声が脳内で数度再生される。ほんの少しだけ開いているドアの隙間を見つけ、伊勢佐木は力が入りにくい手でドアを完全に閉めた。


「うぉっ、大丈夫か」

 ある日、椅子から立ち上がろうとして机に足を引っ掛けよろけた小木部長に伊勢佐木が腕を伸ばしたとき、彼女は大げさに彼の腕をよける素振りを見せた。

「……あ、大丈夫……ごめん」

「気を付けろよ」

「う、うん」

 そのDカップの胸に触りそうになったわけでもない。彼は、自分は避けられているのだと悟った。きっとあの図書委員と一線を超えたのだろうということも。もう彼女の心は、あの「♪」野郎にしか向いていないのだ。他の男との体の接触を嫌がる理由として伊勢佐木が思いつくのはそれしかない。

「俺、もう帰るわ」

「え、もう? 早くない?」

「♪野郎に送ってもらえ。じゃあな」

 何か言いたそうな小木部長の視線を振り切り、彼は部室のドアを出た。帰り道の下り坂を石川町駅へ向かう。大して速くもない歩みなのに、頬を滑る風は鋭く肌に突き刺さる。

「あー、しょーもね。何やってんだよ、俺……」

 自分の家で飼っているウェルシュ・コーギーにも忙しさのせいで最近あまり触れていないのにと思うと、腹立たしさを感じる。伊勢佐木は、最近癖になった独り言をまた漏らした。

「帰ったら犬吸いすっか」


(了)

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