夏に置いてきた写真

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夏に置いてきた写真

 海辺に古びた宿があった。

 大学生の的場まとば翔太しょうたは、それを見て心の中に重い鎖が巻き付いたような感覚に襲われた。

 海の宿の外観は、3年前と何一つ変わっていなかった。

 木造の建物は潮風に晒され、所々に腐食の跡が見えた。その古びた外壁は、まるで過去の痛みをそのまま閉じ込めているかのようだった。

 その宿は、翔太の叔父が夏の海水浴客相手に経営している宿泊施設だ。

 今日は夏を前に特別に、宿泊を許可してもらっての訪問。

 いや、慰霊だった。

 翔太は深呼吸をして、海の塩気を含んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。目の前に広がる青い海は、どこまでも続くかのように見えたが、彼の心にはその美しさが届かない。波の音がリズミカルに耳を打つたびに、あの日の悲劇が鮮明に蘇ってくる。

 あの日、友人の立松たてまつ奈弓なゆみは波にさらわれたのだ。

 彼女の笑顔が悲痛に歪み、その後はただ冷たい波が彼女を奪い去っていった光景だけが残っていた。

 翔太はその瞬間を思い出すたびに、自分が無力であったことを痛感し、胸が締め付けられるような痛みを感じた。

「奈弓」

 翔太は呟いた。

 彼の声は波の音にかき消され、風に乗ってどこかへ消えていく。

 入口を鍵を使って押し開けると、昔ながらの薄暗いロビーが広がっていた。

 木の床は軋み、古びた家具が並んでいる。

 壁のコルクボードには、宿を利用した人々が残した色褪せた写真がいくつも飾られており、その一つ一つが過ぎ去った時間を物語っていた。

 翔太は、その中の一枚に目を留めた。

 それは、彼と奈弓。それと他の友人たちが笑顔で映っている写真だった。

 3年前の、夏に置いてきた写真だ。

 その写真を手にした。

 泣き崩れた。

 涙が枯れる程泣いたにも関わらず、姿を見たことで今でも止めどなく溢れてしまう。

 ――そうして、どれだけの時間が過ぎただろう。

 日は、いつの間にが、とっぷりと暮れた。

 波の音だけが遠くから聞こえてくる。

 そんな中、翔太は玄関の数m先に人影があることに気づいた。

 服装から、女性だと分かった。

 海の宿に光が灯っていたことで、宿泊できると思ったのだろうか?

 だが、まだその準備ができていない為に客を迎え入れることはできない。

 翔太は靴を履いて玄関先に出る。

 事情を説明しようとするが、そこで女の異常性を知った。

 濡れた髪、濡れた服、そして青くなった唇がみえた。

 その姿を認めた瞬間、翔太は女が誰か分かった。

「いや、そんな……。奈弓は海で死んだハズだ」

 そう呟いても、目の前の現実は変わらない。

 女は、ゆっくりとした足取りでこちらに向かってくる。

 歩む度に、ずぶ濡れになった雑巾を踏み潰すような音が聞こえた。

 翔太は後ずさりをした。

 だが、背中はすぐに玄関ドアに触れた。

 彼は逃げ場を失ったのだ。

 恐怖のあまり、悲鳴すら出ない。

 全身が震え出し、足がガクガクする。

 女の手が伸びてきた。

 その手はゆっくりと、翔太の首を締め始めた。

 女とは思えない力に、翔太は必死で抵抗しようとしたが、これが奈弓を助けられなかった自分の罪だと思った。

 奈弓は恨んでいるのだ。

 翔太は死を望んだ。

 意識が遠のいていった。

 薄れゆく意識の中で、誰かが囁く。


 生きて


 その声は奈弓だ。

 翔太は自分の首を締め上げる女を睨み見る。

「お前は奈弓じゃない!」

 手近にあった牛乳瓶受けを掴むと、女の頭に叩きつけた。

 鈍い音がして、女が倒れる。

 すると女は、ゼリーが溶けるように地に広がり始め、やがて跡形もなく消えてしまった。


【水死体を真似る怪物】

 四国のある海沿いの町では、海に人の姿を盗む怪物が棲んでいる伝承がある。

 もし海で死んだ人間が帰ってきた場合、家に上げてはならないとされる。

 その為、その町では海で人が死んだ場合、その死体を家に上げずに火葬する風習が残っている。

 玄関は家と外を隔てる結界であり、怪物は家人に招かれないと家に入ることができないのだ。

 次のような話がある。

 海で行方不明になった少女が、ぼんやりとした表情で家に帰って来た。

 母親は喜んで娘を家に上げようとするが、祖母がそれを止め諭したところ、娘の体が溶け出し、玄関には娘の服と水溜りだけが残っていたという。


 翔太は大きく息を吸って呼吸を整えると、その場に座り込んだ。

 まだ心臓がバクバクと音を立てている。

 手足がまだ震えているのが分かる。

 しばらくしてから、やっと落ち着いて辺りを見回す余裕ができた。

 もう誰もいないことを確認し、翔太は安堵のため息をつく。それから立ち上がり、周囲を見回した。

 外は暗かった。

 月の光だけが頼りなく光っているだけだ。

 潮の香りが鼻をくすぐる。

 目の前に広がる暗い海に、無数の星が瞬いているのが見えた。

「奈弓……」

 思わずその名を呟く。

 彼女はもういない。

 最初から存在していなかったのかもしれない。

 しかし、あの時聞こえた声は、確かに彼女だった。

 いくら求めても彼女が現れることはない。

 あの時に奈弓は、伝えてきた。

 波の音が聞こえる。

 寄せては返す波の音はまるで、彼女の笑い声のようだと思った。

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