空の彼方に
琉生
空の彼方に
鷹山空、三八歳独身。七七の母を背負い、月明かりの無い山を登る。
「……はぁ、……はぁ」
足腰が悲鳴を上げている。この齢で山を登ることになるとは思わなかった。しかも母をおぶって。だがどうしても登らなければいけない理由がある。
ふたご座流星群。昔母が見せてくれた、僕にとっても母にとっても思い出の景色。それがまもなく極大を迎える。最も、今の母が覚えているとは思えないが。
「もうすぐだよ、母さん」
返答は無い。頷きすらしない。それはもう、身に染みてわかっている。
母が僕の顔を思い出せなくなったのは、一年前からだ。
久しく再会した母は、会話もままならず、目に映るものに反応も示さない。その上、体は酷く衰弱していた。医者からは深刻な認知症と、末期癌だと告げられた。手の施し用は既になく、在宅療養を勧められた。
きっと寂しかったのだ。都内で仕事に躍起になっていた僕には、父に先立たれ、田舎で一人暮す母の孤独など思うことも無かった。
仕事は長期の休暇を取り、その時ようやく、母を支えると決めた。親孝行にしては、あまりにも遅すぎる。
――いつか見た、僕を背負う母が前を歩いている。一歩一歩、なるべく僕を揺らさないように気遣って。
あの日は確か、友達と喧嘩した僕を母が慰めようとして、流星を見せに行ってくれたんだっけ。
『空。泣かないで。私は知っているから。あなたが優しくて、誰よりも人を大切にする子だと、私はずっと覚えているから』
思い出したその言葉に、胸が詰まった。
「母さんごめん。僕は優しくなんてない。母さんのことも大切に出来ない、親不孝な息子だよ」
そうだ。こんな息子は忘れられて当然だ。
愛される資格すら、無いのだ。
辿り着いたのは、夜空を一望できる位置に構えられたベンチがひっそりと佇む広場。午前四時前のこの場所は貸切り状態で。かのベンチは、流星を拝む僕たちのために用意された、特等席のようだった。
ふたご座流星群の極大まで、あと二分。
冬の空気で乾いたベンチに、手を取りながらゆっくりと母を座らせ、その右隣に僕も腰を下ろした。雪が降らなくて本当に良かった。
母が微かに震えている。
それもそうだ。真冬の深夜で山中だ。互いに結構な厚着ではあるが、下半身は比較的薄手だ。寒さはそこから来るのだろう。
――あの日も、とても寒かったのを覚えている。今日と同じベンチに座りながら、母は震えた僕を見ると、着ていた上着をすぐに数枚脱いで、僕を包んでくれた。
『大丈夫? 寒くない?』
あなたも、寒かっただろうに。ずっと優しく微笑みながら、何度も僕にそう聞いた。
僕は母の腕にすっぽりと収まって静かに何度も頷いた。
僕は着ていたジャンパーを脱いで、母の下半身に被せるが、長さが少し足りない。足首のあたりがどうしても露出してしまっていた。母ならブランケットの一枚くらい、持って来ていただろうに。
母の左肩に腕を回し、静かに寄せる。壊れてしまいそうなほど痩せ細った体躯が、感触と共に伝わってくる。僕を包んだ温かなあの腕は、もう二度と触れることは出来ないのだと、やっと理解した。
僕は本当に愚かだ。
こんな身体になるまで、母を一人にしてしまった。
それどころか、寒さに震える母親を、満足に温めてすらやれない。
揺らさないように背負って歩くこともままならない。
毎日の三食だってそうだ。
何度も何度も美味しく頂いていた母の料理を、僕は美味しく作ることも出来ない。
母が当然のようにしてくれていたことが、僕には何一つ満足に出来ない。
僕は一体、何をしていたんだ。
「……あ」
その刹那、夜空の暗闇を切り裂いて、光が一筋空を翔ける。
ふたご座流星群だ。
一つ、一つ。また一つ。空を瞬く間に翔け抜けていく流星に、釘付けになった。
「ほら、母さん」
項垂れていた母が、ゆっくりと顔を上げる。
「……あ、……あぁ」
声を漏らしながら見開いていく母の瞳の中には確かに、ふたご座流星群が煌めいていた。
あの日は、母の腕の中で流星を見た。
今は母が、僕の腕の中で眺めている。
でも、母があの日を思い出すことはもう二度とない。
僕の顔も、名前も。
もう二度と、母さんに会うことは、出来ない。
一際大きな流れ星が、視界で不規則にうねりを描いて跡形もなく消えていった。
「……空」
まるで喧騒が一気に止んで、微かな声が僕に届いたようだった。
零れ落ちそうになる涙を堪えて、曲がりくねる流星を凝視した。
「空」
懐かしい声がした。
優しくて温かい声が、僕の名前を呼んでいる。
ずっとそばにいたのに、ずっと会えなかった彼女が、まっすぐに僕を見つめていた。
「……久しぶり、母さん」
「いつ帰ってきたの? 仕事は大丈夫なの?」
「休みを、……休みを取ってきたから、しばらくは大丈夫だよ。ごめん、一人にさせて」
「いいの。あなたが元気なら、私はそれだけで。そんな恰好、寒くて仕方がないでしょう? これでも着なさい」
母さんはそう言って小さな上着を僕に羽織らせたが、左肩だけに引っ掛かった上着を見て首を傾げた。
「おかしいわ。頭まですっぽりのはずなのに」
「……こんな時にまで、僕の心配? 僕もう三八だよ。とっくに大人だ。なのに、なのに僕は」
「そう」
僕の手に、母さんの手が触れる。
「空はもう、大人になったのね」
カサついていて冷たくて。けれど、身体の芯が温まる。ずっと変わらない母の手。
あぁ、なんで。
「こんなに、大きくなって」
なんで、もっと。
「僕はバカだ。母さんをひとりにして、ろくに世話もしてやれない! 本当に大バカ者だ!」
なんでもっと、一緒にいてやれなかったんだ。
「空。泣かないで。私は知っているから」
その時の母さんの優しい目は、あの日と同じだった。
「あなたが優しくて、誰よりも人を大切にする子だと、私はずっと覚えているから」
僕と流れ星を共に見た、あの日と。
「あなたが一生懸命看てくれていたことを、私は分かっているから」
再び大きな流星が、空を翔り始めた。
母さんは、ただ静かに微笑んだ。
彼女の瞳の中にいたのはもう、小さな私ではなかった。
「……ダメだ」
「空」
「行かないで」
「私のところに生まれてきてくれて、ありがとう」
「母さん!!」
「愛してる」
にわかに輝いた大きな光は、母さんが流した一筋の涙を虹色に照らして、あの遠い遠い空の彼方に、儚い願いを連れて行った。
深い夜空のキャンパスを、いくつもの軌跡が走り抜ける。
僕はそれを、腕の中で静かに眠る母と共に眺めていた。
空の彼方に 琉生 @zanza
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