家族を残して引っ越すと

烏川 ハル

第1話

   

「ただいま……」

 マイホームのドアを開いて、帰宅の挨拶を口にする。

 その声が聞こえたのだろう。軽快な足音と共に、妻の里美さとみが玄関まで出迎えに現れた。

 エプロンで手を拭きながらなので、水仕事の真っ最中だったらしい。

「おかえりなさい、あなた。あら……」

 私を目にした途端、彼女が怪訝けげんそうな表情を示す。

「……どうしたの? 何か良くないこと?」


 それほど私は、暗い空気を纏っていたのだろうか。そんな空気、家庭に持ち込みたくはないのに。

 少し無理矢理に、私は声と顔を明るくしてみせた。

「転勤の内示が出てね。いや……」

 妻が手渡すハンガーに背広をかけて、さらにネクタイを緩めながら、言葉を続ける。

「……別に『良くないこと』じゃないよ。左遷じゃなく、いわば栄転だからね。給料だって今より良くなる」

「だけど……。転勤って、どこへ? いつ?」

「今から三ヶ月後で、場所はニューヨーク支社」

 敢えて淡々と答えたのだが、妻は目を丸くする。

 私としては、最初に「異動」ではなく「転勤」という言葉を使った時点で、新しい勤務地が遠いことも含めたニュアンスだったのだが……。

 彼女には伝わっていなかったようだ。

「ニューヨークって、アメリカのニューヨーク? 海外勤務ってこと?」

「うん、そのニューヨーク。この家からかようのは、どう考えても無理だね」

「何よ、それ。やっぱり良くない話じゃないの……」


 私たちは、玄関で立ち話を続けていたわけではない。廊下を歩きながらであり、既に子供部屋の前まで来ていた。

 余計な音を立てないよう、なるべく静かに扉を開けながら、室内を覗き込む。

 愛娘まなむすめ藍里あいりが、お気に入りのピンクのパジャマに包まれて、すやすやと寝息を立てていた。

 眠ったまま、無意識のうちに目をこするような仕草を見せている。廊下の明かりが暗い部屋に突然差し込んで、眩しかったのかもしれない。

 娘のそんな可愛らしい姿を目にするだけで、私の頬は緩み、一日の疲れも吹っ飛んだ。

 しかし……。


「どうするの? 藍里、小学校に入ったばかりよ。今このタイミングで転校させるのは酷でしょう? 手続きだって大変だし、第一、アメリカの言葉なんて藍里は全く喋れないわ」

「うん、それは僕も承知してる。だから……」

 私の表情は再び暗くなり、その顔のまま妻に向き直る。

「……単身赴任の形にしようと思う。君と藍里はこの家に残して、僕だけがニューヨークに引っ越しだ」

   

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