フジツボ族

荒川 長石

フジツボ族

 僕らフジツボ族の成員は、一生のほとんどを部屋で過ごす。この世界を形作るフロアは一本の長い廊下でできていて、僕らは生まれてすぐ、このフロアに一つの部屋をあてがわれる。

 それぞれの部屋にはロボットがいる。育児はロボットがおこなう。体や心の発達に必要な運動や遊び、会話や読み書き、それに基礎的な神話などの教育もロボットがおこなう。食事は毎日昼前に、ウーバー・イーツと名乗る配達員がやってきて材料を置いていき、ロボットがそれを料理する。

 僕らが大人になるまでに会うことのある相手は、だからロボットとウーバー・イーツのみということになる。実は僕らの中には、ウーバー・イーツが自分の親ではないかと夢想する者が多い。かくいう僕も子供のころには、ひょとしてそうではないのかと疑ってみたことはある。一方で、さすがにロボットを自分の親だと勘違いする者はいないようだ。しかし考えてみれば、ウーバー・イーツとロボットのどこがそんなに違うというのか。もちろん、見た目の違いは大きいのだが、それだけだとも思えない。そもそもロボットは部屋から出られないのだから、ロボットが僕らの親だとすると単為生殖ということになる。僕らは雌雄同体ではあっても他の個体と交接するのだから、これは辻褄が合わない。ロボットは僕らのノープリウス幼生なのだという穿った説もかつてあったが、これは僕らが赤ん坊を産むことと矛盾する。結局、ロボットはロボットであり、ウーバー・イーツのあの自由でダイナミックな魅力にはかなわないのだ。僕らはこうしてウーバー・イーツに対する夢想、つまり神話をふくらませることになる。


 僕らの青春は、端末を通して送られてくる神話とアニメ、それにご近所さんたちとのSNSで明け暮れる。しかしアニメとは神話であり、SNSでの会話とは神話の生まれる場所なのだから、つまり僕らは一日中神話にくるまれ、神話について考えているのだ。僕らはそれらの神話の出どころや現実性をあれこれと論じ合い、そのデキの良し悪しや、他のどの神話からそれが分岐してきたのかといった系統や起源に関する論評に明け暮れていると言っても過言ではない。そうして新たな神話が、SNSでの会話を通じて徐々に分泌されていく。

 僕らは大人になると、みなアニメを作り始める。僕らは神話やアニメ以外のことは何も知らないし、他にすることも、できることもない。青春を通して分泌される神話がその制作の核になる。僕らはそれを作品として構成し、作品はネットを通して公開される。すると、ご近所さんたちがそれを批評してくれる。僕らの一生は、そうしてアニメの制作に費やされる。歳をとるにつれてテーマや作風は変わっていくが、やることは死ぬまで同じだ。

 もう一つ、大人になると始めることがある。僕らはおなじフロアのご近所さんを訪れ、交接をする。僕らはみな生殖管を持ち、またそれを受け入れることができる。ロボットが話してくれる神話の中には、オスとメスが別の個体であるような生き物が出てくるが、ずいぶんヘンテコな、限定された生き物だなあという気がする。交接を始めると、僕らは年に一人の割合で子供を生み続ける。生まれた赤ん坊はすぐにウーバー・イーツがどこかに運んでいく。

 ある日、近所の人が交接後に、僕に妙な神話を話してくれた。僕らのいるこのフロアは、実は一つだけではなく多層になっていて、それらが重なり合って一つの棟を形作っているというのだ。そしてそのような棟が、この惑星の表面にはたくさん並んでいる……目のくらむような話だが、ウーバー・イーツたちが住んでいる謎の領域は、僕らの棟とはまた別の場所にあるらしい。僕にこの話しをしてくれた相手は、この神話をロボットからではなくウーバー・イーツから「プロンプト・インジェクション」によって聞き出したのだと言っていたが、そんなことができるとは私にはとても思えない。「プロンプト・インジェクション」とは何だろう? まさかあのご近所さんは、ウーバー・イーツと交接をしたのだろうか。

 その話を聞いてからというもの、私のウーバー・イーツを見る目が変わった。ウーバー・イーツは親ではないかもしれないが、実は交接は可能なのかもしれない。インジェクションというからにはこちらが雄になるのだろうか? いったいウーバー・イーツのどこにあれを差し込めばいいのだろう?

 僕が「インジェクション」によってウーバー・イーツから聞いてみたいことはいろいろあった。僕らフジツボ族はどこから来たのか? 僕らは何者なのか? そしてどこへ行くのか? この世界を造ったのは誰なのか? ウーバー・イーツはどうして僕らに食べ物を届けてくれるのか? 彼らはどこからやってくるのか? 普段は誰と、何をして暮らしているのか……?

 ある日、食事の配達に来たウーバー・イーツに、頭の中で訊ねるべき質問を考えながら、僕はおそるおそる生殖管を伸ばしてみた。ウーバー・イーツは冷めた目つきで僕の生白い生殖管をじろりとにらむと、それ以上の何の反応も示さずに帰っていってしまった。その様子から、ウーバー・イーツとの交接という夢想も、これまた僕らがはまり込んでしまいやすいありきたりな神話の一パターンにすぎないのだということを、僕は直感したのだった。しかし、ウーバー・イーツとの交接をめぐる夢想が崩壊した後も、僕の中にはあのご近所さんの「多層フロア」の神話が、柔らかい肉に刺さった棘のように残り、疼き続けた。

 数日後、ご近所さんとの交接の帰り、僕は普段は決して足を踏み入れないフロアの廊下のはしにある階段のところまで行ってみた。階段は相変わらず不思議な、神話的な形をしていた。一方は地面の下へとめり込んでゆき、もう一方は高く上がり続け、僕らの背丈をはるかに超えるところまで上がっていってから折れ曲がっている。そのさらに先がありそうだった。もちろん、僕らフジツボ族はみなひざの関節が曲がらないので、階段を登り降りすることはできない。その階段の先に何があるかを見極めると宣言し、旅立っていったご近所さんの話が、僕らの間にまるで、それこそ神話のように語り継がれているが、その後、彼の姿を見たものは誰もなかったという。おそらく、階段の先には何もないのだろう。当たり前だ。何かがあるはずもない。仮に何かがあるとしても、それはみな僕らには不必要なばかりか、僕らの安寧を妨げる邪悪なものにちがいない。僕らは現にこうやって、階段の登り降りなしでも平和に、満ち足りて、新たな神話を紡ぎつつ幸せな日々を生きているのだから。


 最近、僕はあるご近所さんが作った、少し変わったアニメを観た。そのアニメの世界では、僕らはかつて自由に部屋を出入りし、ひざを曲げ伸ばしして広い世界を闊歩していたという。しかしあるとき、何らかの「事情」により僕らは移動することをやめ、一生を一つの部屋ですごすようになったというのだ。

 確かに、そのようなアニメはいままでにもたくさん作られてきたし、僕もいくつも観たことがある。だがそのアニメの変わっているのは、どうやらその何らかの「事情」に、ウーバー・イーツが絡んでいるらしいという暗示だった。ウーバー・イーツは僕らフジツボ族に対して何かしらの責任を感じていて、だからこそ食事を運んでくれているというのだ。しかし、それについては対立する別の見方も提示されていた。その見方によれば、ウーバー・イーツたちはただ「商売」をしているにすぎないのだという。「商売」というのはいったい何のことか? それは、どうやら手の込んだ交換の方法のことをいうらしい。つまり、ウーバー・イーツは僕らに食事を運ぶかわりに、僕らからどこかで何かを得ているというのだ。だが、いったいウーバー・イーツが僕らから何を得るというのか?

 まったく雲をつかむような話なのだが、しかしこのアニメにはどこか僕を不安にさせるものがある。それは、僕が普段の生活の中でふと、気がつけばアニメを描く手を止めて紡いでいる、ある夢想に結びつく。その夢想というのはこうだ。僕らの作った作品がネット上を流れていくと、それはどこか僕らの見知らぬ場所へ、ウーバー・イーツたちが普段暮らしているという神話上の街へと流れていく。そこには大勢の人々が楽しく暮らしていて、誰もが自由に広い世界を闊歩する、「本当の生活」を営んでいる。その「本当の生活」を構成する要素の一つとして、僕らの作るアニメもある……

 その淡い光に満ちた夢想に意識を持っていかれるたびに、僕は見たこともなく、たぶん存在すらしない「本当の生活」への郷愁に胸をしめつけられ、泣きたくなるような気持ちになる。いつかそれをアニメにしようと思い、ラフを描いたりしているのだが、どうやら僕にはまだ力不足らしい。僕にはまだ何かが欠けている。それは、知識や想像力というよりも、細かな部品を組み合わせて全体へとまとめ上げる、総合力とでも呼ぶべきものではないだろうか。


 僕らは普段、一日中同じ姿勢で座りっぱなしで端末に向かうため、腰や目や手を痛めるものが多い。だが、それでもフジツボ族は長生きである。歳をとるほど体が大きくなるので、老人の中には身長が二メートルを超えるものもいる。しかし歳を取りすぎるとアニメも作れなくなる。やがて食事がのどを通らなくなり、干からびて死んでしまう。その亡骸は、たぶんウーバー・イーツがどこかに運んでいくのだろう。

 しばらくのあいだ空っぽだったその部屋に、ある日、赤ん坊がやってくる。僕らは赤ん坊が好きだ。みな先を争うように赤ん坊の様子を、そっとのぞきに行く。それは僕らに、この世界がこれからも変わらず、このまま永遠に続いていくという証のように感じられる。赤ん坊がなんの夢や神話に邪魔されることもなく眠る姿を見ていると、これこそ「本当の生活」だという気がしてくる。いつも夢や神話に振り回され気味の僕らはその姿に、それでも生きていかねばならない理由を見出すような気がするのだ。

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