1.Case No. NE08-Ⅶ2016090322 岡崎小夜子(後)

 聞いてみる、とは何のことだろうか? 彼の手に現れた懐中時計は、銀の鎖に銀の細工物のようで、かなり凝った造りのようだった。


 そして、美しい時計だった。


 しかし、どこかがおかしい。


「簡単な自己催眠、みたいなものですかね? 少しの間この時計を見つめていただければ、見たいものが目に浮かぶんですよ。人によっては、何か聞ける方もいます。まあ、成功するしないは人それぞれですし、程度も人それぞれですから、本当に酒の余興です。何人かで飲んでいる時にやると、結構盛り上がったりもするんですよ?」


 七峰が笑いながら説明する。ということは、つまり、場合によっては、あの時の猫が目に浮かぶということなのだろうか。かなりふざけた話だが、始めから余興だと言われれば文句もつけられまい。要するにお遊びということだ。


「どうです? ひとつ、思い出と語らってみませんか?」


 彼のいたずらっぽい提案で、小夜子の口元に笑みが浮かんだ。ふざけた話で、乗るような話でもないのだが、七峰が振ってくるとあまり嫌悪感がわいてこない。


「いいですよ、受けて立ちましょう」


 小夜子もいたずらっぽく笑いながら応える。その応えに「受けて立たれてしまいますと緊張しますねぇ」とにこやかに肩をすくめてから、


「それでは、この時計を見てください」


といって、小夜子の目線に合わせて懐中時計をぶら下げた。


「なかなか凝った造りの時計でしょう? 何気に良いものなんですよ、コレ」


 確かに、先に思ったことではあったが、凝った造りの時計のようだった。時計を集める趣味はないので分からないが、もしかしたらアンティークでかなり高価なものかもしれない。ふちには美しい模様が刻まれていて、文字盤には何か動物をモティーフにした図面が刻まれている。双頭の鷲、だろうか。由緒もある代物? そんなことを思っているうちに、どこがおかしいのかようやく気付いた。


 長針しかない。盤面の数も1、2、3、4、そして真上に5と5つしかない。


「これは……」


「はい、この時計は5分しか計れません」


 目を向けた小夜子に、七峰は苦笑で応える。


「5分だけ?」


「ええ。残念ながら、私に許されているのはそこまでなんですよ。それを越えると帰ってこれなくなってしまいますし」


 引っかかる言い回しだ。許されている、帰ってこれなくなるとは一体何のことだろう?


 小夜子は眉をひそめたが七峰は気にも留めない。そして改めて時計をかざして、変わらない笑顔のままで口を開いた。


「それでは、行ってらっしゃいませ」


目の前で時計の針が音を立てて進んだ。


 左周り、に。


 逆だった。進んだのではなく、時計の針は、戻った。その瞬間、一瞬だけ、軽いめまいに襲われる。そして、すぐに視界は元に戻ったが、戻ったのは元の場所ではなかった。


 小夜子は、外に居た。あのマンションの、あの花壇のそばに。


 面食らった彼女が周りを見回す。すると、自分の状況がより把握できて、そしてより困惑した。


 辺りは真っ白だった。目の前の花壇とその周囲以外は、全て鈍い白色の空間が広がるのみ。


 つまり、過去に戻るとか、場所が移動したとか、そういうことではない?


 七峰は、見たいものが目に浮かぶ、といっていた。つまりこれは夢か幻の類、ということになるのだろうか。それにしても、酒の余興というには度を越している、と彼女は思った。自己催眠を実践したことはなかったが、それとてここまでいくものではないだろう。


 困惑したまま目を花壇に戻すと、その向こうから現れる影があった。


 その主は、猫だった。


 どこにでもいるような、取り立てて目立つ特徴もない、良く見かける三毛猫。


 それなのに、小夜子には確信があった。


「……あの子なのね」


 彼女の呟きに応えるように、猫がにゃあと一鳴きした。


 姿は、小夜子の知っているものとは全く違う。彼女の記憶の中では、猫は生まれたてであまりにも小さくか細い存在だった。今、目の前にあるのは、立派に大きく成長した姿だ。その間をつなげる特徴も記憶もない。それでも、彼女には、それがあのときの猫の成長した姿だということが確信できた。


 猫と向かい合ったまま、小夜子がその場にしゃがみこむ。そして一度、苦しそうに目を閉じた。


「……ごめんなさい。あの時、あなたに何も出来なかったわ」


 小夜子の口から、思いがこぼれ落ちた。


 理屈では、十二分に分かっている。6歳の子どもに出来ることなど限られている。それに、あの後どうなったのか、その真実は知るすべもない。自分が負い目を感じる必要など、特にはない。


 それでも、彼女にとってはそれこそがぬぐえない記憶だったのだ。もっと後悔することも、もっと償わなければならないことも、これまでの人生で山とあるというのに、小夜子の心に突き刺さっているのは、この猫のことだった。


 彼女は、自分の心の中に残っているものを、目を向けなくなっていた自分の姿を、見た。


 猫の鳴き声が聞こえる。恐る恐る目を開くと、猫は目の前まで近づいていた。


 小夜子の手が、ぎこちなく伸びていく。そして、その指先が、猫に触れる。


 猫が、その手に身をすり寄せた。懐かしそうに、心地良さそうに。


 小夜子の目から、一滴こぼれ落ちる。


「ありがとう」


 その声に、鳴き声が応える。そして、目の前のグラスの氷がまた溶け落ちた。


 突然な変化に、すぐには対応できなかった。しばらくぼうぜんとしていた彼女は、ゆっくりと現実へと立ち戻ってきた。


 バーのカウンターで、グラスに指を添える自分がいた。


 目が覚めた、ということになるのだろうか。夢というにはあまりにも鮮やかだった。幻というにはあまりにも確かだった。それは、確かに、彼女の中に何かを残していった。


 そう、残して、去った。


 七峰の姿がなかった。店内には、客の姿はもう小夜子一人しか残っていなかった。


 そのとき、改めて気がついた。あんな男は、本当にいたのだろうか? ギャラリー竜岡の那岐さんからは元々欠席で連絡をもらっていて、代わりに花束が贈られてきたのではなかったか。なぜあの時にそう思ったのか分からないし、今はもうその顔すら思い出せなくなっている。彼自身も込みで、丸ごと夢の中だったかのようだ。


 理解に苦しむところではあったが、全く不快ではなかった。いや、むしろよどみの晴れた様な、軽やかさすら感じられた。


 グラスに指を添えたまま、彼女は静かに微笑んだ。




「ふむ。奥深いものだなぁ」


 真夜中の路地裏で、若い男が小さな手帳になにやら書き込みながら呟いていた。


「まあ、これで彼女の絵にも味わいが、ね、っと」


 そこで言葉を区切って、手帳をパタンと閉じる。そしてそのままスーツの内ポケットへとしまいこんだ。それから、足元の少し先へと目を向ける。


 小さな動物の影を目に留めて、男は軽く微笑んだ。


「あなたも、30年とは、また長い間よく待たれましたね。最後にご挨拶されるためにとはいえ、大したものだ」


 そう語りかけられた猫は、男へと鳴き声で応えた。そして振り向いて路地の向こうへと姿を消していく。


「ごきげんよう」


 軽やかに言いながら、片手で簡単に敬礼する。


「さて、次の仕事は、っと」


 懐中時計を取り出して、男は時間を確認する。


 男とともに終わらない時間を過ごしてきた時計の、ふちがかすかに煌めいた。

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