銀時計と軌跡――七峰(あなた)から七峰(わたし)へ継がれるもの――

橘 永佳

1.Case No. NE08-Ⅶ2016090322 岡崎小夜子(前)

 グラスの中で、氷が軽やかな音を立てた。


 小夜子はグラスのふちを指でなぞる。グラスはカウンターの上にあったので、彼女の手の熱で溶けたのではない。やや強めの暖房ではあるが、自然と氷が溶け落ちるぐらいの時間は経った、ということだった。


「酔い覚まし中ですか? 先生」


 隣の席に座った人が声をかけてきた。自分と同世代ぐらい、おそらく30代半ばぐらいの男の声。


 目線だけよこした小夜子に、男はにこやかな笑顔で応えた。


「皆様、帰られましたしね」


 男が店内に目を走らせる。十坪程度のバーの店内には、他にもう客の姿はなかった。小夜子の二科展入賞を祝うささやかなパーティーに集う人数は、その広さで十分だったのだ。


 小夜子は無言のまま、男を見定めていた。


 いや、“見定める”という表現は奇妙である。これは小夜子のパーティー、つまり参加者は全て関係者であり、したがって知らないはずはないのだ。それなのに、彼女には彼がどこの誰だか見当が付かない。それは、自分にとってどんな相手か分からないことを意味する。言葉をさらす前に、少し確かめなければならない。


 声で感じたよりも見た目は若い。整えた感じはしないが小奇麗な髪の下で、人の良さそうな目が笑っている、黒いスーツの優男。


 目の奥が覗ききれない。


「いやだなぁ、先生。ギャラリー竜岡の那岐の代理で来ました、七峰ですよ。始めにご挨拶したでしょう?」


 男が苦笑いを浮かべながら、軽く肩をすくめた。


 そう言われて、小夜子の頭の中に、名刺を自分に向けて差し出す七峰の姿が浮かび上がった。そういえばそうだったような気がする。確か、花束もいただいた相手ではなかったか。言われるまで思い出せないとは、思ったよりも酔いが回っているらしい。少々飲みすぎたのだろうか。


 そうこうと、頭の中がまとまらない間も、七峰は困ったように笑いながら固まっている。どうやら、あまりいい目つきではなかったようだ。ようやくそれに気づいて、小夜子は慌ててモードを切り替えた。


「ああ、失礼しました、ちょっとお酒が回ってしまっていたようで。ごめんなさい、七峰さん」


 にっこりと微笑みながら、テンポ良くしかし礼儀正しく、小夜子は七峰に会釈をした。それを受けて、彼はほっとしたように、今度は本当に安心した笑みを浮かべて力を抜いた。それから、妙に礼儀正しく、


「隣、よろしいですか?」


と声をかける。その身振りに、小夜子の口から少し笑いがこぼれた。


「もう座ってらっしゃるのに?」


 気の利いた言葉でもないのに、彼の振る舞いには不思議なひょうきんさがあって、小夜子の気も緩める効果があった。


「ええ、やはり、ちゃんとお伺いしないと」


「では、改めて、どうぞ」


 七峰の笑顔に、彼女も笑顔で返す。


「改めて、というならば、改めて入賞おめでとうございます」


 その一言で、一瞬だけ忘れかけていたことを、小夜子は思い出した。この場はオフィシャルの場だった。プライベートではない。


 彼女のモードが整え直される。警戒レベルが元に戻り、“協力的な関係者への対応用”の自分が現れる。


「ありがとうございます」


 礼儀正しく、そして親しみを込めたように感じられる声と笑顔で、彼女は軽く頭を下げた。


 彼女にとって、画家として生活していくためには、こういった助けてくれる人は必要不可欠だった。ようやく、芸術に興味がない人でも耳にしたことはあるかもしれないぐらいの、全国的な展覧会の絵画部門で入賞できたところなのだ。三十代半ば、早いとは言えない。そのことが、小夜子の評価を表している。事実、これまで絵だけで生きてこれたわけではないし、絵に専念できた時期は何かしらの“協力”が得られていた。誰かを利用し裏切った事も多々あり、その逆もまた多々あった。もう、良心の呵責というものに左右されることもなくなって、久しい。


 それでも、引っかかっていることがないわけじゃないんだけれど……。


「えっと、気に障られましたか?」


 七峰の想定外の返答に、どきりとした。彼自身はあまり深い意味で問いかけたつもりではないらしく、単純に意外そうな面持ちをしている。


 しかし、むしろ小夜子の方が意外だった。営業用モードはもう完全に身についている。それを見破られることなどなく、会ったばかりの相手にあっさりと指摘されるとは思ってもいなかったのだ。


 ……ちょっと待って、私、今、何が気に入らないというのかしら?


 思わぬ指摘によって、小夜子は自分が不機嫌であることに気が付いた。ただ、それには気付けたが、なぜ不機嫌なのかが分からない。ささやかとはいえ入賞の祝いの席、そうそう気に障るようなこともなかったし、これまでの経緯や、絵描きで生きるためにしてきたことを振り返っても、負い目やら後悔やらで思い悩むほどきれいな心でもない。


 それでも、どうやら何かが心の中に引っかかっている、ということなのだ。となると、もっと昔の記憶の中の話になるのだろうか……。


「あ」


 その答えにたどりついて、彼女は思わず小さな声を上げてしまった。それから、あまりの意外さにかすかに笑ってしまう。


「えっと? 何かありましたか?」


 急にくすくすと笑い始めた小夜子に、七峰が不思議そうな顔を向ける。


「ああ、ごめんなさい、何でもないんです。ちょっと昔のことを思い出しまして」


 彼の顔にやや不安の色が浮かんできたのをみて、小夜子は慌てて取りつくろった。しかし、そう言われても彼にしてみれば納得できることでもなく、困ったような、怪訝な顔のままで首をかしげている。


 人の気分を無意味に害するのを好む程には、小夜子もくたびれてはいなかった。


「いえ、その、幼いころの猫のことを思い出して」


 口元に笑いが残ったまま、小夜子は話を始めた。


「猫、ですか?」


「ええ。まあ、飼っていたとか言うわけではなくて、親猫からはぐれた生まれたての子猫だったんですけれどね」


 話し始めると、彼女の中で記憶がはっきりしてきた。まだ小学校に入りたてだったころ、帰ってきたらマンションの花壇の植え込み辺りから猫の鳴き声が聞こえてきた。その鳴き声が、かすかながら必死な響きを含んでいて、幼い彼女は気になって声の出所を探したのだ。


 そこにいたのは、小さな子猫だった。いや、子猫と呼べるほどに育っていない、大人の親指ぐらいしかない、まさに生まれたての猫だった。まだ目も見えないらしく、ただひたすらに鳴き続けている。それは、幼心にも痛々しい図だった。


 放っておくことが出来なかった小夜子は、家に帰って母親に相談した。しかし、マンションは動物を飼うことを禁止していたのでどうすることもできず、結局、小さな箱の中にくるんで、元の場所に返すことになった。


 幼い彼女の指を一生懸命に舐める子猫の姿が思い出された。


 その後、小夜子が眠るまで鳴き声は続いていたが、目が覚めた時にはもう聞こえなかった。そのことに気付いた彼女は、着替えもせずに飛び出して花壇へと駆けつけたのだが、そこにはもう子猫の姿は見当たらなかった。


「それなら、きっと親猫が迎えにきたんですよ」


 そこまで話を聞いて、七峰が軽やかに口をはさんだ。


「そうでしょうか?」


 同意しかねた。もちろん、その可能性もある。しかし、他の動物の仕業かもしれないし、そう都合のいい話ばかりではない。


「きっとそうですよ」


 重ねて、七峰が頷く。そうとも思えないが、あえて否定することもない。「そうですね」と相づちを打って、小夜子は笑顔を作っておいた。


 それにしても、そんなことがなぜ今頃出てくるのだろう? いや、もしかしたら、ずっと心に引っかかっていて、自分が気づいていなかったのだろうか。それならば、なぜこの人はそのことに気付いたのだろう?


「釈然としませんか?」


 小夜子の心の中を見透かしたように、七峰が覗き込んできた。


 どうにも、彼には小夜子の仮面が通用しないらしい。心外なところだが、思ったよりも不愉快でもなかった。


「じゃあ、ちょっと聞いてみますか」


 事もなげに軽やかに言って、彼は懐に手をいれる。引き出されてきたのは、鎖に繋がれた懐中時計だった。


 あっけにとられている小夜子に、七峰が人懐っこい笑みを浮かべる。


「酒の席の余興、ですよ」


「はあ」

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