The happy end of the world

猫村まぬる

 電話を掛けるのには、ちょっとした決意が必要だった。

 何日もためらった末に今日掛けると決め、朝から何度も迷った末にぼくは受話器を上げ、ダイヤルを回した。今生きているのはこのレトロな黒い固定電話だけだ。

 重なり合ったノイズの向こうで、遠い声が答えた。


「だれ?」


 思いが通じたんだろうか。珍しく、一発でつながった。


「もしもし、朋子ちゃん? 久しぶり」

「ああ」力の抜けた声で、朋子が返事をした。「その声、高村くん?」

「うん。あのさ、今からそっち行ってもいい?」

「……うちに?」

「前と同じ部屋にいるんだよね?」

「なんで、あたしのとこに?」


 ここまで来たら、最後まで言わなければ。

 僕は言葉をふりしぼった。


「……会いたいから」

「え……? なんて?」

「会いたいからだよ。会いたくなったんだ、こんなときだけど。その、実は、好きだから、朋子ちゃんが」


 ぼくはしばらく黙って答えを待った。いくつになっても、世界がこんなことになっても、やっぱり緊張する。そんなことに、もう意味なんて無いはずなのに。


「それは、つまりなに?」と朋子は言った。「セックスしに来るわけ? あたしと?」

「朋子ちゃん……?」

「ふう」朋子は溜息をついた。「あたしはおとなしい子? そういうこと言わないまじめな子? そう思ってた? もういいよ、そういうの。どうでもいいんだよ」

「分かるけど……」

「いいよ、別に。来れば? セックスでもなんでも。今さら困んないし」


 電話が切れた。

 ぼくは出かける準備をする。セーターを着て、マフラーをぐるぐると巻いて、重いダッフル・コートを着て、毛糸の帽子をかぶる。

 そして革製のホルダーに出刃包丁を差した。こんなもの、使える度胸もスキルも無いけど。


 玄関を出たら雪はもう降り止んでいた。家々の屋根に薄く積もった雪は、真っ赤な空の色を映して暗いピンクに染まっている。


 地球最後の夏休み。

 中天にかかった八月の真昼の太陽はもう、去年までとはまるで違う。輝きは弱く頼りなく、ぶよぶよと二倍近くにふくらみ、ほおづきのように赤い。老人班みたいな無数の黒点が、肉眼でもはっきりと見える。


「太陽は年老いた。一年後には死を迎える」


 天文台がそう発表してから九ヶ月。太陽は素人目にもはっきりとその姿を変えてしまった。

 きっちり三ヶ月先には、長年の燃えかすが重さに耐えかねて、太陽の中心に落ち込むのだそうだ。そしてその衝撃が熱いガスを吹き飛ばし、七十億の人間といっしょに太陽系を焼き尽くすのだという。

 科学的なことはよく分からないけど、今の太陽と、この変わり果てた世界を見ていると、それを疑う理由なんてどこにもなかった。


(「2」へつづく)

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