第1話 甘やかされたアナスターシア

 バイオレッタが亡くなり5年の月日が流れていた。カッシング侯爵家の跡継ぎ娘の部屋は、豪華な家具と調度品で飾られている。屋敷の中でも一番日当たりの良い場所に位置し、そのバルコニーは、季節の花々が咲き誇る庭園と噴水が最も美しく見える角度に面していた。

 カッシング侯爵家の庭園の中心に位置する噴水は、まるで天から降り注ぐ祝福の象徴のように輝く。白大理石で作られた美しい彫刻は水の繊細な流れに包まれており、神秘的な雰囲気を醸し出していた。噴水の中央には水の精霊を象った彫像が立ちその手から滴り落ちる水滴が、きらめく宝石のように陽光を受けて輝く。

 周囲を取り囲む豊かな花々は四季折々の彩りを添え、噴水の清涼な水音と相まって心地よいハーモニーを奏でていた。カッシング侯爵家の跡取り娘の名はアナスターシア。ゴルボーン王国では女性でも爵位や財産を継ぐことができる。アナスターシアはカッシング侯爵家の跡取り娘として、多くの侍女にかしずかれて育ったのであった。



 アナスターシアの部屋にはいつでもかぐわしい香りが満ちていた。部屋の香水はたくさんの種類があるのだが、最近の傾向としてお洒落な瓶に詰められた香りを放つ液体に、スティック状のリードと言われるものを挿して使用するのが流行っていた。

 リードから漂う香りは、ストロベリーとブラックベリーにシトラスが調和した芳醇なフルーティーノートに、スミレとバラを中心としたフローラルノートが優しく重なる。ところが、その優雅な香りを放つ部屋から聞こえてくるのは、10歳になったばかりのいらいらと尖ったアナスターシアの怒声であった。


「痛い! 私の自慢の髪がまた抜けたわよ。お前はいつも雑すぎるのよ」

 アナスターシアが専属侍女のアニヤの頬をたたいた。アニヤの口の端からうっすらと血が滲む。どうやら口の中を切ったようだが、アナスターシアは気にもとめない。アニヤの持つブラシにはアナスターシアの髪が何本も引き抜かれて絡まっていたからだ。

「私の銀髪はお母様譲りなのよ。聖女でもあったユーフェミア公爵様と同じ色なのだから。この1本1本がアニヤの命よりも尊いの。その価値がわからないのなら、私の侍女は務まらないわ。罰として『不器用女』と腕に入れ墨をしなさい。それとも、焼きごてで『のろま』と烙印を押すのはどうかしら?」

 アナスターシアの言葉に他の侍女たちは震えた。



 アナスターシアはカッシング侯爵家の跡取り娘であると同時に、母方の実家であるマッキンタイヤー公爵家をも継ぐ身であった。アナスターシアの母バイオレッタはマッキンタイヤー公爵の妹であり、マッキンタイヤー公爵は国を守る将軍職に就いていたため独身を貫いていたからだ。

 戦神と言われたマッキンタイヤー公爵がアナスターシアを、爵位継承人と遺産相続人に指定しているのは公の事実であった。つまり、アナスターシアは将来とてつもない富と権力を継ぐ少女だったのだ。


「なによ、の目つきは? お前たちも同じ罰を受けたいの? だったら望みどおりにしてあげようか?」

 周りに控えていた侍女たちは慌てて目を伏せた。切れやすいアナスターシアをなだめるために、侍女の一人がローズリンを呼びに行くのは日課のようになっていた。


 アナスターシアの家庭環境は少しばかり複雑だった。カッシング侯爵は前カッシング侯爵夫人(アナスターシアの実母)が亡くなった後、ふた月も経たぬうちに平民のサリナと再婚したのだ。アナスターシアは最初こそ反発したものの、すぐにサリナとその連れ子ローズリンになじんだ。彼女たちはアナスターシアにとても優しかったからだ。


 駆けつけてきたローズリンは、アナスターシアを早速甘い声で慰めた。

「そんなに怒らないで。せっかくの綺麗な顔が台無しだわ。アナスターシアが迂闊なアニヤに怒るのも無理はないけど、他の侍女まで巻き添えにしてはいけないわよ。それにしても、アニヤ! あなたは何度言ってもまともに髪も結えないのね」

 ローズリンの姿を見るとアナスターシアは途端に機嫌が良くなり、ローズリンに抱きつきながら嬉しそうにうなづく。

「ローズリンお姉様がそう言うならアニヤだけ罰するわ。でもね、アニヤは本当にマヌケなのよ。いつも私を怒らせるような失敗ばかりをするのよ」

「そうなのね。可哀想なアナスターシア。いつでも、私はアナスターシアの味方よ」


 まもなく、サリナもその場に現れると、一緒になってアニヤを責めた。

「アニヤが悪いのですよ。使えない侍女だわね。お仕置きは当然ですとも。アナスターシアや、可哀想に。アニヤは罰として今日一日、チェンバー・ポット(室内便器)係りを命じるわ。屋敷じゅうのチェンバー・ポット(室内便器)をすべて綺麗に洗いなさい。アナスターシアは甘い物でも食べて機嫌を直しましょうね。そうだわ! 新しいドレスでも仕立てれば気分も晴れますわ」

 サリナはアナスターシアの頭を撫でた。


(サリナお母様もローズリンお姉様も本当に優しいわ。私はとても恵まれている。意地悪な継母の話はよく聞くけれど、サリナお母様は私の味方だもの)


 その一方で、アナスターシアは実の母の兄であるマッキンタイヤー公爵は大の苦手であった。マッキンタイヤー公爵はアナスターシアにとって、耳の痛いことを言ってくるからだ。もし、この瞬間にマッキンタイヤー公爵がいたのなら、「そんなことで軽々しく残酷な罰を口にしてはいけない。『焼きごて』や『入れ墨』などは国家反逆罪の大罪人が受ける罰だぞ!」と間違いなくアナスターシアを叱ったことだろう。


 マッキンタイヤー公爵の口癖はこうだ。

「バイオレッタはアナスターシアのことをとても心配していたのだぞ。私は伯父としてアナスターシアを立派な淑女にしなければならん」

 そんな前置きの言葉に続くのは、生活態度の改善や高潔な道徳観念を身につけるような指導だった。その結果、アナスターシアはなるべくマッキンタイヤー公爵を避けて生活するようになった。アナスターシアはうるさい伯父をとことん無視して近づかないようにすれば、楽しい日々が続くし安寧に生きられると考えていたのだった。そんなわけで我が儘放題に育てられたアナスターシアは、このように癇癪を起こす子供になったのだった。

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